伊達 朝宗(だて ともむね、大治4年(1129年) - 正治元年10月2日(1199年10月23日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の御家人。伊達宗家初代当主。『尊卑分脈』に記載されている藤原山蔭流の待賢門院非蔵人藤原光隆の息子である朝宗に比定されているが、これには異説もある(後述)。母は六条判官源為義の女と言う。従五位下、遠江守、常陸介。子息に為宗、宗村(=為重?)、資綱、為家らがあり、娘には源頼朝の側室・大進局(僧貞暁の母)として知られた女性がある。源為義およびその孫・頼朝と縁戚関係にあるため、「朝」の字は頼朝(またはその父で叔父にあたる源義朝)から受けたもの、また息子の名前の「為」の字も為義に由来するものと考えられる(ただし確証はない)。都において官を得る一方、常陸国伊佐郡に勢力を張る在地豪族でもあり、治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した際には、前述の通り、頼朝が母方の従弟という関係もあってその麾下に馳せ参じた。文治5年(1189年)の奥州合戦に際しては、4人の息子とともに前衛として出陣、敵方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略して、大将の佐藤基治を生け捕りとした。この功によって、激戦地阿津賀志山がある陸奥国伊達郡を賜り、これを契機に伊達姓を称したという。朝宗の後は次男宗村が相続し、その後裔は中世、近世を通じて大いに発展した。なお、旧来の常陸国の所領は長男の為宗が相続している。『吾妻鏡』には、常陸入道念西が息子の為宗・為重・資綱・為家と共に奥州合戦で功を立てて伊達郡を与えられた記述が見られる。これが伊達氏の勃興であり、一般に念西を朝宗、為重が後の2代当主・宗村であると言われている。しかし、伊達氏の古い系譜・文書には初代を宗村としているものが多数見られることから、新井白石は『藩鑑』に於いて朝宗の息子の宗村こそが念西であると見做している。近代になってからは、松浦丹次郎が『伊達氏誕生』で同様の見解を採っている。松浦は3代当主・義広は次男・為重の息子であり、祖父・念西の養子になったとしている。最近では、宝賀寿男が朝宗と宗村は同一人物であり、更にはその系譜を『新編常陸国誌』を基にして、伊佐実宗 - 中村秀宗 - 助宗 - 朝宗(念西)とし、山陰流の朝宗と念西と呼ばれた朝宗を全くの別人との説を出している。義広は三男・資綱の息子であり、祖父・念西の養子になったと言う。いずれにせよ、初期伊達氏の系譜にはいまだ解明されていない部分が多く見られる。朝宗の築城とされる中村城に中村大明神と言う朝宗を祭神とする社が現存している。栃木県市町村誌によると中村大明神の由緒については「中村左衛尉朝定死后、中村大明神と崇り祀り、歳々十一月十五日土人之ヲ祭ルナリ」とあり宗村二男、朝定を祀る社であるとされている。この朝定は源義経の遺児経若との伝承があり、常陸坊海尊が藤原秀衡の命を受け源義経の子を朝宗に託したとする古寺誌が栃木県真岡市の遍照寺に残っている。中村大明神は中村城落城の後、最後の城主となった小太郎時長を祀る小太郎明神としてその後伝わり、現在は中村城跡に建立されていた場所から大正2年5月に遍照寺の境内に中村城を建てたとされる伊達氏初代の朝宗を祭神とし歴代の中村城主を祀る社として移築された。朝宗築城と伝わるこの中村城には、伊達騒動を題材にしたNHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」のモデルになった古木がある。この古木は現在遍照寺の境内にあるカヤの古木で、昭和29年に栃木県指定天然記念物となった。文治5年(1189年)、奥州伊達氏の祖、朝宗が源頼朝から奥州合戦における石那坂の戦いの恩賞として与えられた伊達郡・信夫郡に赴く際に植樹したとする謂れがある。
出典:wikipedia
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