和泉 覚(いずみ さとる、1912年(明治44年)5月18日 - 2005年(平成17年)5月7日)は、創価学会理事長(第4代)、政治家。静岡県出身。職業軍人として、1942年(昭和17年)暮れ、最前線のニューギニアに出兵。九死に一生を得て、1946年(昭和21年)6月復員。戦後、戸田城聖の下で、柏原ヤスらと共に、創価学会の再建に奔走。同会理事、小岩支部長、江東総支部長などを経て、理事長(第4代)、日蓮正宗法華講大講頭となる。参議院議員(1期)を歴任する。1940年(昭和15年)、妻の和泉ミヨとともに東京・九段下の軍人会館で行われた創価教育学会第2回総会に出席、入会する。この総会では、後に和泉の前任者となる原島宏治や、学会理事長を経て東京都議会公明党の重鎮となる小泉隆ら戦後の戸田城聖の下で、創価学会を担う最高幹部が多数入会し、和泉もその一人となった。1943年7月、創価教育学会会長牧口常三郎の秘書役となっていたミヨが牧口とともに下田の実家に帰り、親戚らとともに座談会を開こうとしたところ、東京から尾行してきた警視庁特別高等部の係官が牧口を不敬と治安維持法違反の疑いで逮捕する。しかし、ミヨは難を逃れる。この時のみならずミヨが生涯にわたって付け続けた日記は、和泉がミヨの死後も大切に保存し、創価教育学会の歴史を紐解く上で貴重な資料となった。牧口とともに逮捕され、終戦直前に出所した理事長戸田城聖が創価教育学会を再興して「創価学会」とすると、和泉も戸田の元に馳せ参じた。戸田が戦前から営んでいた出版社「日本正学館」、東京建設信用組合、大蔵商事と戸田に付いて働き、大蔵商事では代表取締役社長としてオーナーの戸田を支える一方で、ミヨとともに創価学会の最高幹部として活躍する。1949年(昭和24年)1月3日、後に創価学会会長、名誉会長となる池田大作が日本正学館に入社し、和泉は池田の上司となった。創価学会では初代小岩支部長として東京東部を中心に折伏を展開、折伏大行進初期の学会を引っ張った。1951年の戸田の会長就任にあたっては理事長の小泉隆に次ぐ「筆頭理事」に、1952年、江東総支部長(小岩、本郷、向島、城東を傘下)に就く。1954年(昭和29年)の総会で一度退くものの、1958年(昭和33年)、戸田の死を受けて創価学会理事に再任された。1962年(昭和37年)7月1日に投票が行われた第6回参議院議員通常選挙に、東京選挙区から公明政治連盟公認で立候補し、当選する。1964年(昭和39年)、公明政治連盟が公明党になると、その結党に参加。12月9日、初代公明党中央執行委員長原島宏治の突然の死に伴い、原島が兼務する創価学会理事長(第4代)に就任。公明党中央執行委員長には辻武寿が就いた。1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙では、公明党は11議席を獲得し委員長ポスト1つを得た。党の要職に就いていなかった和泉が参議院法務委員長に就任し、公明党初の国会委員長となった。1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙で公明党が25議席を獲得すると、中央執行委員長となった竹入義勝の下で副委員長を務める。しかし、翌1968年の第8回参議院議員通常選挙には立候補せず、創価学会理事長の職務に専念した。1970年頃から、大石寺正本堂の位置付けと国立戒壇に対する考え方の違いをめぐって悪化していた創価学会と妙信講の関係の中で、和泉は、理事長として池田に代わり学会側の最前線に立っていた。1974年(昭和49年)10月4日、妙信講青年部約70名が創価文化会館に突入し、創価学会牙城会のメンバーと衝突、機動隊も出動する騒ぎとなる。和泉は緊急声明を出し、その中で妙信講を「信仰人にあるまじき行為を働いた狂信的過激派」と非難する。その後、同月29日、和泉は理事長を辞任、後任には北条浩が就く。一方、昭衛は父で妙信講講頭の浅井甚兵衛や事件に関わった青年部員らとともに、11月4日付けで信徒除名処分となり、日蓮正宗と完全に袂を分かった。
出典:wikipedia
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