池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家である。広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・うめの間に7人兄弟の末っ子として生まれた。わがままに育てられ田舎のガキ大将だった。父は酒造りや煉瓦の製造、塩浜の経営、郵便局長などをやり有為転変もあった。生家が造り酒屋というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では素封家ということになる。 旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業。忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格となる。同中学の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続き、池田が首相になっても「日本にも美味しいウイスキーがある」と言って、外国の高官に竹鶴のウイスキーを薦めるほど、生涯変わらない友人だった。旧制一高受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた。池田は忠海中学校の同級生2人と、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日、5人は酒を飲み、大騒ぎして別れた。一高受験には2度失敗し、五高に廻された。京都帝国大学法学部卒業後、高等試験をパスし1925年、同郷の政友会代議士・望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省。入省同期は山際正道、植木庚子郎、田村敏雄など。学歴がものをいう官界の頂点に君臨し、一高、東京帝大出身、高等文官試験上位成績パスのルートのものがほとんどという大蔵省の風土は「東大法学部にあらずんば人に非ず」、五高、京都帝大という池田の経歴は傍流中の傍流であり、長く地方廻りをさせられ悪くすると地方の出先機関の局長や税関長止まりということもありうる、省内においては出世コースから外れた、鉄道の切符になぞらえて三等の"赤切符組"と見做されていた。入省後は相場の通り地方を廻る。1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった。1929年から宇都宮税務署長を務めるが、落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職、池田は人生の難局に直面した。当時この病気は不治の病といわれた難病だった。手足の皮膚から膿が吹き出す凄惨な病で、膿を抑えるために全身をミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされ、痒みと痛みで寝床でのた打ち回り、たまりかねて「もういい、オレを殺してくれ!」と絶叫することもたびたびだった。1931年、2年間の休職期間が切れたため、大蔵省を退職する。以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で治療が続いた。栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈んだ。少しよくなりかけた頃、四国巡礼をする。池田とは対照的に出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いを持った。闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、生死を彷徨った5年間は池田の人生観に大きな影響を与えた。1934年に奇跡的に完治する。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる。大蔵省を退職していたため、再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定した。その挨拶と就職の件で上京し、買い物で立ち寄った三越から、未練が残っていたのか大蔵省に電話を入れる。電話に出た三年先輩の松隈秀雄が「なに、池田? おまえまだ生きていたのか」と言い、秘書課長の谷口恒二に相談し「復職はなんとかするから、戻ってこい」と二人が池田に復職を薦めた。石渡荘太郎主税局国税課長に「税務署の用務員もいといません。よろしくお願いします」と訴え、同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職が決まった。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、野間清治や根津嘉一郎の遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる。当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻るが、重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされる。1941年、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となり、ようやく遅れを取り戻した形となった。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。国税課長時代は国運を賭けた太平洋戦争と重なり、賀屋とともに、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金となり、国家財政は事実上の破綻に至る。1942年、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)。同年、同郷の宮澤喜一入省の際の保証人となる。同年、主税局の管轄で横浜税関の業務部長になった下村治が挨拶に訪れ会う。病気がちで何度も死線を彷徨った境遇が似ていた。1944年、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長。出世の遅れに嫌気がさし、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが、母親に猛反対され断念した。1945年2月に主税局長となるが、初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった。出世の遅れはここでほぼ取り戻した。同年5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散した。主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移っており、終戦を告げる同年8月15日の玉音放送は同所で聞いた。「終戦の詔書」を起草したのは、病床の池田を悔しがらせ、当時内閣書記官長に出世していた迫水だった。終戦後、池田は戦後補償の担当者だったといわれ、軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴い第一生命ビルのGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした。戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み、1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。終戦、公職追放などによる人事の混乱に加え、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用した(次官抜擢は別説あり)。これが池田の運のつきはじめといわれる。石橋蔵相下で石橋に協力して戦後の財政再建の実務を担当する。1947年5月片山内閣の発足後、運輸事務次官になっていた佐藤栄作と次官会議で再会した。また社会主義の実現を目指す社会党中心の片山内閣は、戦時中から続いていた経済統制や計画経済の中枢として経済安定本部(安本)の強化を図ったため、必然的に安本に出向くことが増え、ここで安本次官だった同郷の永野重雄と親しくなり、財界に強い素地を作る。1948年に48歳で大蔵省を退官した。浪人中に政治家になることを猛反対していた母が亡くなったことが、政治家転身を後押しした。1949年の第24回衆議院議員総選挙に旧広島2区から出馬し、選挙戦の第一声を出身校の竹原市立吉名小学校の裁縫室であげた。演説の話が難しすぎ、100人近くの聴衆はポカーンとして拍手一つ上がらなかったというが、初当選を果たす。以降死去まで在任、選挙は7回全てトップ当選した。池田の所属する民自党は大勝し、第3次吉田内閣の組閣は順調に進んだが、大蔵大臣のポストだけがなかなか決まらなかった。この年2月1日にマッカーサーの財政顧問のジョゼフ・ドッジ (デトロイト銀行頭取)が公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策が要求されると予想され、それまでのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもないためであった。外交官出身の吉田はマッカーサーとの信頼を築くことに専一で外交は玄人だが、財政経済は素人でほとんど無関心だったため、信頼に足る専門家を見つけ出して任せるしかなかった。吉田は前内閣で、池田成彬に凝って泉山三六を蔵相に起用し大失敗した苦い経験があった(国会キス事件)。吉田は宮島清次郎に人選を依頼したが、宮島が挙げる向井忠晴ら候補者はみな公職追放の憂き目に遭っていた。やむなく宮島が桜田武に相談し、桜田が永野重雄経由で永野の安本時代の次官仲間だった池田を推薦された。実は池田は吉田と宮嶋が仲がよいのを前から知っていて、同郷の中村是公が経営する広尾のすき焼屋「羽澤ガーデン」に出入りし、宮嶋が来ると碁の相手をしてごまをすっていた。宮島が池田にテストを行ったが、宮島の厳しい質問は、池田の最も得意とする領域で、スラスラ答えたといわれる。池田は記憶力が抜群で、数字を丸暗記できる特技があった。宮島は、当時は財界でもその名を知る者はほとんどいなかった池田を吉田に推薦した。こうして選挙後の1949年2月16日、林譲治や大野伴睦らの党人派の反対を押し切って池田は、1年生議員でありながら第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された。吉田側近の麻生太賀吉、根本龍太郎とともに、党内でこの人事に真っ先に賛成したのが田中角栄だったといわれる。最終的には吉田に頼まれた自由党幹事長の大野が反対派をまとめた。池田は大蔵大臣秘書官として黒金泰美と、大蔵省時代に英語が堪能で贔屓にしていた宮澤喜一を抜擢した。まもなく黒金が仙台国税局長に異動したため、後任に固辞する大平正芳を否応なしに秘書官に起用した。第3次吉田内閣は、その後内閣改造を計3回行ったが、いずれの内閣改造でも池田は大蔵大臣に留まった。さらに第3次吉田内閣で通商産業大臣を、第4次吉田内閣では経済審議庁長官を兼務した。ワンマンの吉田首相の絶大な信任を得て、いわば全権委任の形で経済を委された。1949年、ジョゼフ・ドッジが来日。池田はドッジと協議を重ねた。池田は、後の「所得倍増計画」に見られるような積極財政をプランし、減税や公共投資を推し進め、それによって戦後の復興を成し遂げようと考えていたが、占領下ではGHQの指示は絶対で、意に反してドッジの超均衡財政の忠実な執行者を余儀なくされた。折角作った予算をドッジにズタズタに切られ、6日後の3月7日にドッジ・ラインを実施。超均衡予算を押し付けるドッジと、選挙公約の不履行という民自党内部や各党からの批判、「国民生活の窮迫」という国民の非難を浴びながら、1950年度予算は、収支プラス3億円の超均衝予算を成立させる。これを「インフレではない。ディスインフレ政策である」と強調したため、「ディス・インテリ」という不本意な渾名を付けられた。この反動で、金づまり(デフレ)の嵐が吹き荒れ、企業合理化による人員整理で失業者が増大し、各地で労働争議が頻発、下山事件など暗い事件も相次いだ。ドッジは特に公務員の大量解雇による人件費削減を池田に強く指示し、これを実行したため、ドッジと池田に非難が集中した。政党、労働組合、産業界、特に中小企業からの集中砲火にさらされたが耐えに耐えた。「池田勇人、鬼よりこわい、ニッコリ笑って税をとる」という戯れ歌が歌われ、池田の憎たらしい面構えの漫画が新聞・雑誌に掲載された。行政は池田とドッジやGHQ担当者との密室で決まり、うっかり公表すればGHQからねじこまれるため報道関係者には一切喋れず、新聞記者からの人気が悪くなった。シャウプに会った後、記者会見を要求され、無視すると「取材活動を妨害し、国論を軽視する非民主主義的な態度をとった。猛省を促す」という決議を記者クラブから突きつけられた。ついでに「庭先で散歩中、レンズを向けたカメラマンにステッキを振り上げた」などと、新聞に悪口ばかり書きたてられた。不機嫌な池田に、高飛車に出られても、粘りに粘った記者が4、5人ほどいて、それが池田記者・派閥記者の誕生であった。中小企業の倒産や、企業主家族の心中が相次いだため、記者たちからの意見を求められた池田は「その種の事件が起こるのは当然のことと見ている」と述べ、国民にショックを与えた。1950年6月の参院選では、吉田から「お前が喋らない方が党のためになる」と選挙応援には来ないでくれと言われた。ドッジ・ラインに従って厳しい金融引き締め政策が実行された結果、1949年4月から6月にかけて日本経済は激しい金融難に見舞われた。超緊縮予算は国庫収支の大幅な引き揚げ超過を伴うため、経済はデフレの傾向を示しはじめ企業は資金不足に悩んでいた。産業を再構築するための産業資金の供給を、政府に求める民間の要請が高まった。1950年6月、池田は民間の住宅資金を供給する住宅金融公庫を設立して政府系金融機関を設ける糸口を付けたうえで、手詰まりになっていた産業資金を作るため、財政資金を活用することにし、大蔵省預金部を改組して1951年4月に資金運用部を設立した。これが後年、高度成長政策を進める上での財政上のテコになった財政投融資のハシリである。1950年産業金融のあり方を巡り、一万田尚登日本銀行総裁と大論争が行われ、池田が勝利したことで、政治的あるいは役所間の権限争いに勝ち、大蔵省が日銀に対して圧倒的力を行使するようになった。特に1956年、池田の大蔵省の同期・山際正道が日銀総裁になって以降、池田の影響力が増した。池田は輸出向け金融の制度改革で足腰を強め、重化学工業を中心とする産業の成長を見据ていた。しかし一万田は重工業化政策に反対するなど、池田とは全く逆の財政観を持っていたため、一万田が勝っていたら、高度経済政策は違った形になっていた可能性もある。1950年代は池田と一万田の二人が蔵相を務める時期が長かっため、通産省などはその二つのバランスの上に立ち、名人芸的な政策運営を進めた。アメリカ対日協議会(ACJ、ジャパン・ロビーの中枢組織)のドレイパー陸軍次官が池田に「輸出でドル外貨を稼げ」と説得、池田が「ドルがない。綿花を仕入れようにも綿花商人が綿花を送ってくれない」と切り返すとドレイパーが帰国して綿花業者を説得し「日本に綿花を送れ」と指示し、大量に送られた綿花によって日本の繊維産業が急ピッチで発展した。繊維製品と日用雑貨製品のアメリカなどへの輸出増大でその振興を目的として1949年5月、商工省を改組して通商産業省(現経済産業省)が発足した。戦後税制3つの転機といわれる所得税中心の税制を確立したシャウプ勧告では、ドッジ予算ほど強い権限がないことに着目し、池田はその内容を柔軟に解釈し、勧告の中で示されている以上の減税が可能であるとの立場をとり、1949年度の補正予算に若干の減税をドッジに認めさせ、歴史上はじめて実質上の歳出増ならびに減税の両方を含む補正予算を示した。ドッジ・ラインが成果をあげることによって池田がドッジとアメリカの信用をかちとり、大蔵省を足場にその政治的立場を強化していく。日本経済の拡大均衡への胎動は、池田蔵相全盛時代の幕開けを告げるものだった。1950年、生活の圧迫感からドッジ・ラインの緩和を求める声が国民の間でも強くなり、占領政策自体に対する不満に転化する気配が漂い始めた。この年6月に参院選も予定されていたことから、世論の悪化を恐れた吉田は、池田を渡米させ財政政策の見通しについてドッジに打診させることを目論んだ。GHQの一課長級が平気で日本側の閣僚を呼びつけ、一片の紙切れを「ディレクティブ!」(指令)と称して振り回し、日本の行政を完全にコントロールしていた時代、ワシントンと直に交渉するなど敗戦国の身としては想像できないことだった。しかし渡米の最大の使命はこれではなかった。ドッジやマーカット少将から「講和の交渉に池田をアメリカに行かせたらどうか」という進言があった。マッカーサーはこの本当の目的を池田の帰国後まで知らず、報告書を読んで激怒したとする文献が多いが、宮澤は後年のインタビューで「マッカーサーが吉田に講和を薦めた」と話している。出発前にマッカーサーが池田を呼びつけ長広舌を振るったとする文献もある。当時、対日占領の経済的負担がアメリカにとって過重となっていて、アメリカ政府の中にも軍事的要求が満足できるなら必ずしも講和に反対しない、という意見が台頭しつつあったといわれる。アメリカは日本を独立させるという条件を提示し、朝鮮戦争に全面的に協力させようと考えていたとする見方もある。日本側の心配をよそに、池田の渡米の許可は難なく下りた。ただしGHQで書類にサインした際に拇印を押さされ「一国の大蔵大臣なのに..」と悔し涙を流さんばかりだった。こうして表向きは米国の財政金融事情・税制、課税状態の実情の研究として、実際は講和・安保問題の打診、"吉田からの伝言を預かり、これをしかるべき人に、しかるべき場合に伝える"という、重大なミッションを抱えて同年4月25日、吉田の特使として白洲次郎、宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米した。池田は戦後、日本の閣僚がアメリカの土を踏んだ第1号でもあった。池田はそりの合わない白洲とは別行動をとり、通訳の宮澤とともに役所や工場の視察を重ねたのち、ワシントンD.C.でドッジ・ラインの緩和を要請した。また池田は近い将来の日本経済の飛躍的発展と、その基盤を成す輸出振興のために輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)設立の構想を持っており、国際通貨基金 (IMF)総裁を訪ね、日本政府のIMF加盟、国際復興開発銀行(世界銀行)加入要請、輸銀創設の要請などの話し合いを重ねた。最終的な権限はGHQにあるため、まとまってもそこでは結論は出さずに、形式的にはGHQの決定に委ねる形である。池田と宮澤は、1泊7ドルの安ホテルの2人部屋で、約1ヵ月相部屋生活を送り、夜は柳橋亀清楼の女将が持たせてくれた福神漬を肴にコップ酒を飲み交わした、安ホテルに泊まっていたため、印刷機もタイプもそろばんさえなく、資料を自前で作れなかったため、こちらが言ったことを国務省に作ってもらいそれを撒いて議論した。5月3日、池田と宮澤が人気(ひとけ)のない国務省の一室でドッジに吉田からの重大な伝言を口頭で伝えた。「吉田首相からの伝言をお伝えしたい。日本政府は早期講和を希望する。講和後も日本及びアジア地域の安全を保障するために、米軍を日本に駐留する必要があるであろうが、もし米軍側が申し出にくいならば、日本側から提案する形をとってもよろしい…条約締結の前提としてアメリカ軍基地の存続が必要だとしても、日本はすぐにでも条約締結の用意があります」などと、16ヶ月後の日米安全保障条約の基礎を成す内容を伝えた。国務省の立場を非常によくする内容の日本側からの安保条約的構想のオファーに、バターワース国務次官がそれを聞き「白洲次郎から聞いていたのとは違う。吉田さんがそういうオファーをするなら、これはアチソン国務長官に伝えよう」と言ってアチソンにそれを伝え、アチソンはそれを持って対日講和を含む議題があったロンドンでの外相会議に出席した。コピーのもう一部はダレスとマッカーサーに行き、日本側からそういうオファーがあるならと講和の準備が進められた。なお、2人とは全くの別行動をとっていた白洲は、吉田からの安保構想は聞かされてなかったといわれ、宮澤は「この時の渡米は白洲さんにとってはあまり重要な任務でなかったのではないかと思う」と話している。帰国後、GHQを差し置いて池田が官吏の給与引き上げ、税の軽減などをワシントンに直接伝えたと、渡米中の池田の言動についてGHQ民政局 (GS) のホイットニー准将とGHQ経済科学局 (ESS) 長だったマーカット少将が激怒した。池田がアメリカで話したことは、日本側では極秘に付されていたが、GHQでは皆知っていた。また池田が「GHQが細部にわたって干渉することは適当でない」と司令部の人員削除を提案したことがマッカーサーに通じていてGHQの反感を買っているといわれた。吉田はドッジラインの譲歩などの池田の渡米みやげを翌月に迫る参院選の政治的キャンペーンに利用しようと考えていたが、吉田はマッカーサーと面会の約束が取れず、池田もマーカットに面会を断られたため、池田の渡米みやげは発表できなくなり、やむなく「おみやげはない」という政府声明を出した。このため池田は蔵相辞職、あるいは追放ではという噂が上がった。池田の窮地を救うため吉田がGHQと交渉し、池田が主張した官吏の給与引き上げ、税の軽減、輸銀創設、IMF、世界銀行加盟、小麦協定(MSA協定)への参加などほぼ司令部から了解が得られ、池田の立場も救われた。占領下という極めて困難な条件の下で、国政の要ともいうべき外交と経済を、吉田と池田が長期にわたって分担したという共通の経験と思い出が、二人の関係をいっそう親密なものにした。以降、池田は単なる数字に強い財政家の枠を超えて吉田に次ぐナンバー2の地位を築く。一方の白洲は帰国後、自身の果たした役割を世に説明することもなく、鶴川に引っ込んで好きな農民生活に戻っていった。この年6月ダレスが、講和条約起草という目的を持って来日し、以降吉田との話し合いが進んだ。ダレスと吉田の話し合いは秘密裏に進められ、その内容を知るのは西村熊雄条約局長と岡崎勝男の二人だけだったといわれる。宮澤は日米安全保障条約の方は実体が誰もよく分からず、党内で話し合われることも勿論草案もなく、西村や岡崎も池田も知らず、アメリカ側と吉田で決められたのではないかと話している。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印されるが、講和会議に出席した全権団のメンバーで講和条約に関わったのは池田だけである。他のメンバー構成は吉田が仕組んだショーといわれる。この全権団入りも1年生議員で、しかも外相でもない池田がメンバーに加わったことに異議を唱える者も少なくなかった。宮澤でさえ「これは、相当の贔屓だな」と思ったという。オペラハウスで対日講和条約が調印された日の夜、吉田は池田らを伴いプレシディオ国立公園内の当時、米国陸軍第六軍の基地として使用されていた下士官用クラブ(米軍将校用の酒場)に出向き、池田に「君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言って、日米安全保障条約を一人で署名した。吉田は(比喩的に)銃剣を突きつけられてサインさせられたともいわれる。二つの調印に参与した他、ドッジらと会談も行われ、占領中に生まれた対米債務が主に議論された。産業金融システムとして池田が設立したのが政府系金融機関である輸出金庫(日本輸出銀行、輸銀)と日本開発銀行(開銀)である。日本の再興期に於いて、当時の四大重点産業である電力、石炭、海運、鉄鋼など、輸出力のない基幹産業に、当時の民間銀行は資金不足で投資ができず、財政余裕資金を国家要請に基づき、それらの分野に重点的配分し、基幹産業を復活させる目的を持った。本来は1947年に設立された復興金融金庫(復金)が面倒を見るべきであったが、ドッジは復金は超インフレの元凶とみて反対し、GHQの純粋主義者は戦前・戦中の国策会社的なものは一切認めないという態度を崩さなかった。復金は融資を受けていた昭和電工が1948年に事件を起こしたことで(昭和電工事件)、経済安定本部が監督していた復金を池田が大蔵省指導へ移していた。「どこか他に上手い資金源はないか」と池田が思案し思いついたのがアメリカ国務省からの見返り資金と政府が運営する郵便貯金であった。郵便貯金は明治時代から存続し、大蔵省の預金部資金として集められ、スキャンダルや様々な政治目的のための不正使用の歴史でもあったが、占領期間中、GHQはこの資金の用途を地方債の引き受けに限定していた。インフレが収まると預金者が充分信用してない銀行ではなく、郵便局に預けるようになるにつれ資金量が増えていた。池田はこの二つの資金を重要プロジェクトに利用したいと考え、ドッジと協議に入った。池田は輸銀と事実上復金の再生である新しい機関・開銀の設立を提案、うち輸銀に関しては資本財の輸出促進のため、銀行から通常借りられるよりもっと長期の資金が必要であるという池田の主張をGHQは理解して受け入れ、見返り資金と政府の一般会計からの資金、合計150億円を資本金として1951年2月1日に輸銀は営業を開始した。もう一つの開銀の設立は輸銀より難航した。開銀設立は池田が「戦後日本に特殊銀行がなくなり、復金は機能を失い、見返り資金も将来なくなることを考えると、何らか新しい特殊金融機関が必要でないか」とドッジに提案したのが最初である。しかし池田のたび重なる要請にもかかわらず、ドッジは開銀は資金運用部資金(郵便貯金)から借り入れることを許さなかった。1951年になってドッジはやっと政府の特別プロジェクトへの郵便貯金特別会計からの支払いを認めた。但しその資本金は見返り資金から100億円を供出したのみで、金融債の発行や外部からの原資の調達は行わない、貸し出しの際も運転資金は取り扱わないなどの厳しい条件をつけた。こうして1951年4月、開銀は設立された。開銀は調整プールの役割を演じ、業績が好転した産業からの回収金を、資金の欠乏している産業に再貸出した。両銀行設立にアメリカが見返り資金を提供したのは、日本を朝鮮戦争の兵站基地とすべく日本の財閥解体を中止させ、軍需産業の復活を狙っていたためともいわれる。池田が輸銀の初代総裁には河上弘一、開銀の初代総裁には小林中とそれぞれ腹心をあて、小林は池田の指図通りに動いた。輸銀と開銀は官僚の直接支配から独立した形での銀行であり、どちらもドレイパーやドッジ、マーカット、つまりアメリカの意向に沿ったもので、どちらも池田の指導・監督下にあり、池田は大手企業にも隠然たる力を発揮できるようになった。産業界への資金供給の主要な役を日銀の一万田総裁から取り上げたため、小林はこれに恩義を感じ、以降"財界池田山脈"の中心的な肝いり役になった。小林は開銀の頭取として民間企業へ見返り資金1400億円を融資し、その謝礼として借り手から保守政治家に対する献金を受け取り、政財界に絶大な影響力を持つようになった。5年以上に及ぶ在職期間中に小林が振るった権力は日銀総裁を凌ぐものだった。朝鮮特需により大企業はこの二つの銀行をフルに利用し、日本経済を大きく飛躍させた。自身の資金源確保という一面もあるにせよ、池田はこの占領下時代に、日本の高度成長期の礎をすでに築いていたのである。輸銀と開銀は行政上は大蔵省の管轄下にあったが、政策面では通産省が支配的な力を振るい、大きな力を持つようになった。1952年には、池田主導のもとに長期信用銀行法が成立し、旧特殊銀行であった日本興業銀行と新設の日本長期信用銀行(以下、長銀)が長期金融を担当する民間金融機関として改めて誕生し、官民ともに長期資金の供給体制が確立した。長銀の第二代頭取には池田が日本勧業銀行での権力闘争に敗れた浜口巌根を据えた。これら政府金融機関による融資は、貧弱な社会資本充実のために「国営・準国営事業」や「公共的事業」に対しても行われ、1953年度から財政投融資資金計画として「公社」に再編された国鉄と電信電話事業及び帝都高速度交通営団・郵政事業特別会計・特定道路整備事業特別会計(のちの日本道路公団)・電源開発株式会社・日本航空株式会社などにも投資された。池田は税務畑の出身で、本来金融は畑違いだったのだが、苦心の対米交渉が実を結び、金融分野で思わぬ業績を挙げたことが得意だったらしく、「大手町界隈は、オレの作った銀行ばかり。池田銀行街になったな」とよく自慢していたという。1949年「従来の一県一行主義に固執することなく、適当と認めるものは営業を許可する方針である」と表明し、この政策転換により1951年から1954年にかけて北海道銀行、東北銀行、千葉興業銀行、東京都民銀行など全国に12の新銀行(戦後地銀)が設立された。この他、戦後の投資信託(投信)復活は、証券業界の要望を受けた池田が1951年に議員立法で投信法を提出し、証券会社が委託会社を兼ねることにGHQは難色したものの成立、同年6月の「証券投資信託法」公布が切っ掛けである。野村、日興、山一、大和の四証券会社を皮切りに計7社が委託者登録・投信募集を開始し、これを機に株式投資ブームが興り、このブームを背景に増資ラッシュが起こったといわれる。戦後の様々な金融機関の設置はドッジ・ライン下で行われたため、事実上、池田・大蔵省が戦後日本の経済体制の基本を形成した。吉田内閣は、成立当初は白洲次郎が総司令部を握り、吉田の懐刀のような仕事をしていたが、経済政策が政治・外交と結びついて展開していったため、池田が入れ替わって吉田の右腕になっていく。池田の自由党とは反目になる1954年の日本民主党結党時の頃の池田の政財界への影響力について椎名悦三郎は「三木さんが岸さんを幹事長にしたのは、自由党に財政通の池田君がいて、ずっと表裏の蔵相をつとめて大蔵省を仕切っていたからだ。あの当時は実業界もがらがらと変わり、みんな追放になったから総務部長程度が大幹部に収まっていた。財界といっても、勘定は少し儲かっていたが銭はない。しかし税金は納めねばならない。そこで大蔵省に頼み込み、税金を年賦にしてもらったり、復興金融公庫に融資を依頼したりした。財界はみんな池田参りをしてね。どいつもこいつも、池田君に助けられていた。だから財界に対する池田君の力は隠然たるものがあった。こちら側で池田君に対抗する人物は岸さんしかいなかった」と話している。ドッジ・ライン以降、池田が首相として「所得倍増計画」を打ち出すまでの12年間は、一貫してアメリカとの交渉を通じて対米信用を獲得しつつ、日本の経済復興を推進した時期といえる。経済の停滞は続いたが、ドッジ・ラインという劇薬と、1950年6月の朝鮮動乱勃発による特需ブームにより、ようやく戦後の日本経済は不況を脱した。また見返り資金の管理を重要視したドッジが、大蔵省から独立した見返り資金管理官という次官級または大臣級のポストを新設してはどうかと池田に相談し、池田が吉田と相談し大蔵省内に次官クラスの役職として1949年6月に財務官という役職を新設し、初代の財務官には渡辺武を任命した。国内からの反撥を受けながらもドッジ・ラインを実現できるだけの力を示すことで、対米信用を獲得し、政治家としての権力基盤を形成した。ドッジと大蔵省の協議のほとんどに出席したヤング使節団のオービル・マークダイアミドは後年、「ドッジ使節団の成功に最も寄与したのは池田である」と述べた。ドッジやGHQからの池田に対する信頼は厚く、日本の政治家は池田を通さないとドッジと面会できなかったといわれる。それが吉田の池田に対する信頼感を持たせることにも繋がった。1949年6月、大蔵政務次官として部下となった京大の後輩・水田三喜男を可愛がり、後の第1次池田内閣で大野派ながら『所得倍増計画』を推進する大蔵大臣に抜擢した。1951年、日本医師会の田宮猛雄会長、武見太郎副会長から請求された健保の診療報酬大幅引き上げは、1954年の「医師優遇税制」と形を変え導入された(詳細は後述)。1951年の増田甲子七の自由党幹事長起用あたりから、自由党の人事にも関わり、吉田から相談を受けるようになった。1952年1月、戦死者遺族援護費をめぐり橋本龍伍厚生大臣と対立し、橋本が辞任した。1952年8月、吉田と密談を重ねて抜き打ち解散を進言する。松野鶴平がこの謀略を指南したとされる。自由党の中でこの解散日を知っていたのは、吉田と池田以外は保利茂官房長官と麻生太賀吉の二人のみで、その二人も池田が後から伝えたといわれる。衆議院議長の大野伴睦も自由党幹事長・林譲治さえ知らなかった。選挙資金の準備が整う前に抜き打ち解散をすれば、自由党の圧勝、鳩山一郎一派への大打撃になると池田が読んで吉田に進言したものであるが、自身の選挙も危ないという事情が一番にあった。当時公職追放を解除された恩人の賀屋興宣は東京から出馬することになったが、永野護が同じ広島2区から立候補することになり、石橋湛山が当時盛んに池田財政の非を訴え、広島にも乗り込んで煽っていた。講和の下交渉の際に打診していた日本の国際復興開発銀行(世界銀行)と国際通貨基金 (IMF) 加盟が認められ、選挙期間中の9月にメキシコシティで開催された総会に宮澤を伴い出席。ユージン・ブラック世界銀行総裁に只見川の電源開発資金(只見特定地域総合開発計画)の借り入れを打診し賛同を得た。またスナイダーアメリカ合衆国財務長官とドッジ国務長官顧問から後にMSA交渉で展開される軍事援助の問題を伝えられた。一本立ちした日本の大蔵大臣として、世界各国の蔵相や中央銀行総裁と、初めて対等の立場で物が言えた。池田は数多い外遊の中でも晩年までこのメキシコ行を懐かしんだという。しかし帰国すると吉田一派と鳩山一派の対立は、手が付けられない状態となっており、やむなく池田と広川弘禅農相とで、吉田批判の元凶と目した石橋と河野一郎の除名処分を強引に決め、吉田に進言して実行させた。当時、林譲治、益谷秀次、大野伴睦の「吉田御三家」といえども、池田、佐藤という新興勢力を抑えられなくなっていた。同年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。この時、電力の分割民営化を目指す松永安左エ門が、三鬼隆、水野成夫、工藤昭四郎らの電力統合派と政府委員会で争うが、多勢に無勢で敗北濃厚となり、通産大臣の池田に直談判して来た。池田は松永の熱意に驚き協力を約束して形勢が逆転、その後分割民営化(九電力体制)が成された。これをきっかけに、松永が池田を可愛がるようになった。松永との関係が後の水主火従から火主水従というエネルギー切り替えに繋がった。戦後GHQは保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようと「農地法」の制定を農林省に命じた。与党自由党や農林省は反対したが、GHQと同様の考えを持っていた池田は保守の支持基盤ができると考え、池田の強い働きかけによって同法は1952年7月成立した。「農地法」の制定によって農地改革による零細な農業構造が固定され、規模拡大による農業発展の道は閉ざされた。戦前から有力だった農村の共産主義、社会主義勢力は消滅し、農村は保守化した。池田の狙いは見事に実現し、保守化した農家・農村は農協によって組織化され、農協が自民党の集票基盤になった。農協は自民党政権下で、最大の圧力団体となっていった。池田は吉田からの信認厚く、その自信過剰のあまり問題発言を連発し、物議をかもすこともあった(詳細は後述)。大蔵・通産大臣(第3次吉田内閣)時代の1950年3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、さらに12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言していずれも問題となる(後者は実際は、参議院予算委員会で木村禧八郎(労農党)の質問に答えた中で、「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副ったほうへ持っていきたい」という発言を要約した言葉)。占領軍の権威を傘に着る吉田の、池田はその代弁者ということで攻撃を浴びた。また1年生で蔵相に起用されたことで、与党内はもちろん、野党議員まで反発し、国会でいろいろと意地悪された。池田自身も吉田に目を懸けられ得意気になっており、衆院本会議で質問に答弁しようとする閣僚を制して「これらが、いずれも予算に関係がありますから、私から代わってお答えします」と勝手に答弁をするなど、一人で内閣を背負っているような気持になっていた。日頃から「池田というのは若いくせに生意気だ」という空気があったため大問題になった。"貧乏人は麦を食え発言"をやったときには、委員会が騒然となり、「放言だ!」「重大問題だぞ!」と声が上がり、池田叩きのネタをつかんだ新聞は「またやった!」と大喜びした。1952年11月27日、加藤勘十(社会党)の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」とまた問題発言をしたため、翌日に野党が不信任決議案を提出した。吉田政権は与党内に激しく対立する反主流派を抱えており、その一部が採決時に欠席したことにより、不信任案が可決された。日本国憲法下での唯一の閣僚不信任である。閣僚不信任決議に法的拘束力はないが、無視した場合には内閣不信任決議にもつながりかねない状況であったため、池田は決議に従って大臣を辞任した。このとき、中小企業の育成に尽くしてきたという自負から、池田は発言を撤回しなかった。失言の度に、大衆の反逆に遭ったことから、いかに大衆と結びつくべきかを考え、後の大衆に向けてのサービス精神を養った。この不信任案可決以降、池田に近い党人グループが「池田を慰める会」を設け、定期的に会合を開くようになった。当時は会合に料亭を使うという風習はなく、会合は池田邸でやったという。この頃から池田は派閥を作ろうという気を持ち「将来、おれを総理にやるんだ」といい始めた。その後も党・政府の要職を歴任する。 1953年自由党政調会長に就任。松野頼三は池田の下で政調副会長として鍛えられ、政策通としての素地を作った。松野は「政調会長は権威がないかも知れないけど池田は権威があった。大蔵大臣は何をしているのだろうと思うくらい、全部池田がやっていた」と述べている。1953年5月、MSA問題が表面化。MSAとは米国が1951年10月に作った相互安全保障法のことで、対外経済援助とアメリカの世界軍事体制を結合させる役割を担うものだったが、アメリカはこのMSA援助を日本にも適用し、日本の再軍備を促進したいと望んだ。朝鮮戦争休戦の結果、過剰となった兵器を日本に渡し、日本の防衛力を増大することは、米国にとって一石二鳥の妙案だった。これに対して日本側では、財界が朝鮮特需に代わる経済特需をこのMSA援助に期待して乗り気を示していた。ここでは日本再軍備に重点を置くアメリカ側と、経済援助引き出しを狙う日本側の思惑が明らかに食い違っていた。ダレス国務長官は同年7月、「保安隊が最終的には35万人に増強されることを必要とするというのが、米国の現在持っている暫定的構想である」と述べ、8月来日の際、吉田にこの35万人増強を持ち出したが、吉田はこれに応じなかった。吉田はMSA受け入れの前提として、防衛問題と経済援助で日米間の意見調整をはかる必要があると考え、経済に明るい腹心の池田の派米を決意した。その前に日本側の立場を強化するため、再軍備を主張する改進党と協調する必要を認め、池田が大麻唯男とのパイプを使い、吉田と重光葵改進党総裁との会談を実現させた。吉田は防衛に金をかけたくなかったため、池田に米国側の主張を値切る理屈を考え出すように命じた。池田は軍事問題には素人のため、当時大蔵省に出入りしていた元海軍嘱託の天川勇に知恵を出させ、この天川の知恵が米国との交渉で役立ったといわれる。しかし池田の渡米に対して、国会で不信任を受けた人間をなぜ起用するのかという反発が強く、首相の個人特使という性格の曖昧さも野党から突かれ難航し、当初3月下旬を予定していた渡米は延期された。1953年10月1日、吉田の個人特使の名目で、吉田政権下で三度目の渡米、宮澤と愛知揆一が同行する。池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉(MSA協定)が行われた。池田は大蔵省の側近グループと作成した「防衛力五ヵ年計画池田私案」を提示。交渉はまるで日米戦争だったといわれる。当時ワシントンD.C.にいた改進党の中曽根康弘は交渉が始まって20日もたった10月20日付けの『産経新聞』に「苦境に立つ池田特使」と題した一文を寄せ「ミッドウェー海戦に於ける日本艦隊のようだ。情勢判断の誤りとそれに基づく準備不足」などと辛辣に批判した。しかしアメリカ側の10師団32.5万人、フリゲート艦18隻、航空兵力800機の要求に対して最終的に、10師団18万人の陸上部隊とフリゲート艦10隻、航空兵力518機を5年間で整備という池田の主張が受け入れられた。またMSA援助による5000万ドルの余剰農産物を受け入れ、その売上げを産業資金に貸し出すことを定めた。憲法、経済、予算その他の制約に留意しつつ、自衛力増強の努力を続けると約束し日米間の合意が成立、米国側も日本の努力を認めて、駐留軍を順次撤退させていった。この会談によって敷かれたレールに沿って1954年3月、MSA関係四協定が調印され、防衛庁新設と、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の三自衛隊を発足させる防衛二法が国会に提出され、6月同協定に伴う秘密保護法と防衛二法の公布により、一連の安全保障体制が完結をみた。池田は吉田派内部で新たな指導者として台頭しつつあると米国政府の注目を浴びた。MSA法は朝鮮戦争に対応した反共軍事同盟の形成を目的としたものであったが、それは友好国たる米国への政治的経済的従属を強要するものでもあった。米国は1951年のMSA法第550条に農産物取引の一項を加えて新たな余剰農産物輸出機構を創設。MSA法の趣旨は農産物取引条件にも貫徹しており、軍事的性格を持った農産物取引であったが、1954年からこれを日本にも適用してきた。同年3月のMSA協定調印によって日本は小麦60万トンや大麦11万6000トン、脱脂粉乳など総額5000万ドルの米国の余剰農産物を受け入れ、それを三菱商事や兼松、日清製粉などに販売しその代金を積み立て(見返り資金)、4000万ドルは米国側の取り分として日本に対する軍事援助などに使われ、残り1000万ドルが日本側の取り分として経済復興に使われた。先の自衛隊の発足、再軍備化はこの米国の余剰農産物を活用したものであった。米国としても将来的に余剰農産物の有力なはけ口としての日本を念頭においての戦略でもあった。このとき受け入れた小麦のことを通称「MSA小麦」と呼び、この小麦を国内で消費するため厚生省は粉食奨励を「栄養改善運動」の柱にして、学校給食ではパンとミルクの給食を定着させ、パン食普及に力を入れた。これは終戦直後の食糧難打開のための代用食としての粉食奨励とは違い、積極的に粉食の優位性を説いた運動であり、ここから学校給食のパン食、及び日本の食生活にパン食が入り込み、日本人の食生活が顕著に欧米化した。同時に主食がパンとなるとおかずは味噌汁、漬物というわけにもいかず、どうしても牛乳、肉類、油料理、乳製品という欧米型食生活の傾向となるが、これら食材の供給元である米国の狙いもそこにあった。1954年7月、アイゼンハワー米大統領はMSAを改定し、PL480法案(通称:余剰農産物処理法、正式名称:農業貿易促進援助法)を成立させ、余剰農産物処理をさらに強力に推し進める作戦に出て、最も有望な市場と見られたのが日本であった。当時の日本は戦後復興の足がかりとして、愛知用水や八郎潟干拓、電源開発事業などの大型プロジェクトを実現させる必要に迫られており、この余剰農産物を受け入れた。以後日本の小麦輸入は飛躍的に高まり、安価な外国産小麦の大量輸入で、太刀打ちできない日本の小麦生産農家は生産意欲をなくした。余剰農産物はさらに米10万トン、葉タバコ4000トン、飼料11万トンの購入も強要され、1955年に8500万ドル、1956年に6580万ドル分の余剰農産物を購入させられた。購入代金の多くは在日米軍基地増強に企てられ、日本は米国の東南アジア市場支配の一拠点に完全に組み込まれることになった。余剰農産物の輸入は日本の戦後農政に多面的に影響を与えた。日本の米離れ、食料自給率低下もここを始まりとしており、逆に米国は自国の農産物を長期的に継続して日本に輸出する道をここから開き、その後の日米間の農産物貿易自由化を推進させたのである。さらに、池田・ロバートソン会談の中で池田が主張したといわれる、「日本政府は教育および広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任をもつものである」という一文があり、これが戦後の学校教育に大きな影響を及ぼしたといわれる。1954年の第19回通常国会で「MSA協定」と共に審議可決されたのが、逆コースといわれた政治反動を象徴する「新警察法」と「教育二法」で、「教育二法」は、地方公務員である教職員の政治活動を国家公務員並みに禁止し「教え子をふたたび戦場に送るな」のスローガンのもとに、再軍備反対・平和教育を進めてきた日教組の影響を排除することを狙いとしたもので、その背後には、先の「愛国心と自衛のための自発的精神」を助長する措置の一環といわれた。その後も1958年8月、学習指導要領の改定に先駆けた小中学校に道徳の授業が、1960年10月から高校の社会科の授業に「倫理」という科目が置かれ、1958年、学習指導要領における「日の丸・君が代」条項が新設されるなどした。池田・ロバートソン会談は、戦後日本の大きな転換期でもあった。1954年の造船疑獄で東京地検は、政治資金が豊かな池田と佐藤に焦点を当てて捜査を進めたが、佐藤が逮捕寸前に犬養健法相の指揮権発動によって免れ、事件そのものがうやむやになって池田の関与の有無も判然としないまま終息した。この事件で池田は参考人として事情聴取を受けたにも拘らず、5ヵ月後の同年7月26日、佐藤の後任として自由党幹事長(12月29日まで)に就任。吉田政権の最後を看取る幹事長になったのは、後のために貴重な経験となった。同年、重光、鳩山一郎、三木武吉、松村謙三らによる新党結成(日本民主党)の動きを見て、幹事長として自由党丸ごと新党なだれ込みを策したが、吉田退陣を明確にしなければ自由党丸ごとの合流は認めないと拒否され、新党に近づく岸と石橋を自由党から除名した。石橋は恩人ではあるが、反吉田派と吉田派という立場で長く敵対関係にあり、この時点で深い亀裂が生じていた。1955年の保守合同に参加することは、鳩山一郎を擁する三木武吉や河野一郎、岸信介らの軍門に下ることになり吉田派は迷った。池田は反対グループの中心的存在だったが、現実的に判断し吉田派全体を長老の林譲治・益谷秀次とともにまとめて自由民主党に参加する。吉田にも入党を勧めたが佐藤栄作が反対し、吉田と佐藤は無所属になった(吉田・佐藤の自民党入党は1957年2月)。1954年12月から1956年12月までの鳩山内閣の二年間は、完全に冷や飯を食わされた状態になる。また鳩山政権下で吉田派は池田と佐藤の両派に次第に割れてゆく。政争の一環として、鳩山政権全期間に渡って大蔵大臣を務めた一万田尚登へ、背後から大蔵省に影響力を行使して嫌がらせをした。池田は一万田とは比較にならないほどの政治力を持っていた。但し1956年5月の日比賠償協定締結には、藤山愛一郎に頼まれ、強く反対する大蔵省を抑えるなど協力している。吉田一派は親米嫌ソだったため、日ソ国交回復の際には、池田は「人気取りの思い付き外交、しかも国際的地位を傷つける二元外交」などと激しく反対し、「モスクワに行くなら脱党だ」と息巻いたが、前尾がやっとの思いでなだめ思いとどまらせた。ドッジ、吉田という二人の強力な庇護者が権力を喪失した上、保守合同による新党結成の働きが大であった緒方竹虎という強力なライバルの台頭により、池田は鳴かず飛ばずの状態になった。保守合同の過程とこの後の岸内閣期に池田は岸と対立、または妥協したが、それには次期首相への伏線が張られていた。1956年12月の鳩山退陣に伴う後継争いで池田は石井派に加担し、総裁選では総参謀長になった。石井派は文教や財政の専門家は多いが党務の経験者がおらず、短期間でも自由党幹事長を務めた池田系が指揮、票読みを行い、石井陣営の母屋を取るような格好となった。池田は二年ぶりの戦機に興奮、しかし石井を支持するというより、岸・河野に一矢報いたいという怨念が先んじていた。岸反対で共通する石橋支持派と石井支持派の一本化に奔走し、石橋派の参謀・三木武夫と二、三位連合の政略を立てた仕掛けが成功、石橋湛山が決戦投票で岸を僅差で逆転した。第一回投票で池田ら自由党系の支持が厚く二位になると思われていた石井が三位に落ちたことから逆算して、二、三位連合で岸に勝てると確信した池田は、石井派の参謀ながら、石橋が二位になるよう自派の票を石橋に流したといわれる。石橋が総理になった方が、自身が蔵相として復帰できるという計算が働いたとされる。土壇場で裏切られた石井は池田の相当な寝業師ぶりに気付き池田を決して許さないと言っていたといわれる。確執も一時はあったが、ここで恩人でもある石橋に恩を返した形となった。池田の石橋支持や石橋の総理就任は、アメリカのコントロール外にあったとされる。この時の総裁選挙で、佐藤は石井を擁した池田と別れ、吉田派を池田と争奪しながら実兄岸の戦力となった。もと吉田門下として同根の池田派と佐藤派の対立がここから生じ、また岸の下で河野と佐藤の競合もここから始まった。同年12月23日に成立した石橋内閣で、石橋首相は積極財政を展開するため蔵相に池田を起用しようとし、党内から猛反発を受けたが「他の人事は一切譲ってもいいから」と池田蔵相に固執し大蔵大臣を引き受け、石橋・池田コンビは「1000億円施策、1000億円減税」という積極政策を打ち出す。この「1000億円施策、1000億円減税」というアイデアは、決戦投票後に池田が石橋に伝え、石橋が概ね賛成した。1961年から1964年までアメリカの大統領経済諮問委員会議長を務めたウォルター・ヘラーが後にケネディの減税政策にこのキャッチフレーズを真似たともいわれる。しかし同内閣が二ヶ月の短命に終わり、池田も後継候補に挙がったが党内の抵抗があり、石橋の療養中に臨時首相代理を務めた外相の岸が後継となる。1957年2月、第1次岸内閣となり、政敵の岸に抱き込まれ大蔵大臣を引き継ぐ。岸は、金融政策を含め、経済政策を池田任せにした。ここで岸とコンビを組み、政官一体を演出するが、1957年7月の内閣改造で、岸が日銀寄りの一万田を蔵相に起用。池田は他ポストへ横滑りを要請されたが「蔵相以外はノー」と蹴飛ばし閣外に出て党内野党に転じる。しかしこの雌状期に池田を支える後援組織が整い、政権への道が地固めされていく。それは政治力だけでなく、後の「所得倍増計画」に繋がる池田の政策路線が確立される過程でもあった。すなわち、健全財政と積極主義とを結びつける理論的裏付け、そして世論を取り込む政治的スローガンの獲得であった。1957年10月頃には旧自由党の吉田派を佐藤栄作と分ける形で自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した。宏池会は経済を旗印にした初めての政策集団であり、自民党派閥の原点といわれる。宏池会は1957年10月に機関紙「進路」を発刊し公然と派閥を旗揚げした。これを見た自民党執行部が、岸の意向を受けて「党内の派閥を解消すべきだ」と唱えだした。国民が自民党内の"派閥"の存在を明確な図式として意識するようになったのはこの時からだった。宏池会の政策研究会「木曜会」のメンバーだった下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに、この頃から「所得倍増」のもととなる政策構想を練り上げていく。下村ら研究会の論争は宏池会事務局長・田村敏雄を通じて池田に報告された。池田の"勘"と下村の"理論"を結びつけたのは田村で、三人の独特の結びつきの中から『所得倍増』は生み出されたといわれる。池田は大蔵省の税務畑を歩き、その実務に通暁していた。同時に数字について異常な関心と能力があり、経済現象の予見を可能にした。池田の頭の中には、数字で構成された世界ができており、下村たちの理論が池田の頭脳の中で強い反応を起こして導き出されたのが「所得倍増論」である。また財界人のバックアップも、この時期強化された。池田は大蔵省出身者の集まりは勿論、桜田武や永野重雄、近藤荒樹、小田原大造、廿日出要之進といった広島出身者、奥村綱雄や太田垣士郎、堀田庄三、堀江薫雄ら、五高や京大の学閥の集まりや支援者を既に持っていた。他に政権を明け渡し大磯に隠遁していた吉田が「池田の将来のため、みんなで応援してくれないか」と財界人に声をかけて作られた「末広会」という財界四天王を中心として集まったものや、松永安左ヱ門が池田の支持者を集めて作った「火曜会」などがあり、これほどの人脈が参集したケースは歴代内閣でも例を見ないといわれた。特に池田と同じ明治32年生まれで集まる小林中ら「二黒会」のメンバーとは親密な付き合いだった。経済担当相を歴任した池田は、財界とのつながりが深く、財界も特に戦後の資本主義的再建に果たした池田の手腕を高く買っていた。吉田やドッジの庇護から自立しながら政治的地位を引き上げなければならなくなった池田は、異能なブレーンやアドバイザーを多く擁して足場を固めた。また保守合
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。