黒羽根 利規(くろばね としき、1987年6月2日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手(捕手)。神奈川県横浜市港南区出身。高校時代は捕手として活躍した一方で、高校通算本塁打は1本に終わるなど、打撃は非力であった。の高校生ドラフトで、横浜ベイスターズに3巡目で指名を受け入団。背番号は59に決まった。ルーキーイヤーは二軍で26試合に出場し、打率.171に終わる。一軍出場はなかった。二軍で48試合に出場。打率.224と前年よりも打撃は改善された。2年連続で一軍出場はなかった。5月25日の、対オリックス・バファローズ戦で、6回裏にマイク・ウッドの代打としてプロ初出場を果たした。この年は二軍で活躍し、フレッシュオールスターゲームにも選出された。一軍で自己最多の10試合に出場。スタメンマスクも経験しプロ初安打も記録した。8月21日の対広島東洋カープ戦においてプロ初打点を記録。この打点が決勝点となり、プロ入り初のヒーローインタビューも経験した。開幕は二軍で迎えたが、8月11日に一軍登録され、細山田武史との併用でスタメンマスクを多く経験。最下位に沈むチーム状況の中、自己最多の45試合に出場し、プロ初本塁打も記録した。しかし打率は.175と非常に低く、細山田の打率.208よりも下回った。一軍開幕戦で自身初のスタメンマスクをかぶるなど、序盤はスタメンの機会が多かった。しかし、6月頃からはベテラン捕手の鶴岡一成に正捕手の座を奪われた。さらに、捕手の高城俊人が高卒ルーキーながら一軍に定着した8月以降は、おおむね二軍でのプレーを余儀なくされた。この年は前年に記録した低打率をさらに下回る打率.125を記録してしまった。これはこの年のDeNA投手陣の打率.110とあまり変わらない極度の低打率であった。開幕を二軍で迎えたものの、高城と入れ替わる格好でシーズン後半に一軍へ昇格。鶴岡との併用でスタメンマスクを任される機会が増えたほか、打撃でも30試合の出場で打率.267、2本塁打を記録するなど、改善の兆しが見られた。11月20日、背番号を9へ変更2年ぶりに開幕戦でスタメンマスクをかぶった。鶴岡一成が人的補償で移籍したこともあり正捕手となった。打率はを3割を超えるなど好調を保っていたが4月11日の対東京ヤクルトスワローズ戦の9回裏に死球を受け、途中交代。右手親指末節骨の骨折と判明し、翌12日に一軍登録を抹消された。骨折から復帰後は一時調子を落としたものの、その後はほぼシーズンを通してレギュラーを確保し、自己最多の109試合に出場、最終的な成績は.264、2本塁打、24打点という成績だった。しかし打率に対し得点圏打率では.225、三振も打席374に対し78など、来季に向けて課題も残した。。打撃不振に陥り、高城や2年目の嶺井博希にスタメンマスクを譲る機会が多くなった。三振率も前年以上に悪化した。開幕一軍入りしたものの、一軍捕手はルーキー戸柱恭孝と高城の2人体制となったこともあり、一軍公式戦への出場機会はなかった。強気なリードとチーム屈指の強肩を売りとする一方で、打撃を課題としている。上大岡小学校出身で上大岡ハンターズに所属していた。小学校6年生の時に、地元港南区で開催された三浦大輔のトークショーで三浦に直接花束を渡し、この時に「将来はプロでバッテリーを組みたい」と話した。2011年8月14日の一軍公式戦で三浦とのバッテリーが実現し、7回2/3を2安打無失点という内容となった。また、2006年に開催された三浦と村田修一によるトークショーに三浦に電話で呼び出され、飛び入り参加している。日大藤沢高校時代の監督の山本秀明は日藤OBでもある中日ドラゴンズの山本昌の実弟である。1年目のオフに山本昌、ヤクルトスワローズの館山昌平と3人で母校で自主トレも行った。同僚だった杉原洋の紹介で知り合った女性と2012年1月に結婚した。
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