西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)のイェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。孝欽顕皇后(こうきんけんこうごう、満洲語:、転写:hiyoošungga gingguji iletu hūwangheo)、または慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ)とも呼ばれる 。中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。紫禁城内における3人の皇太后の住む場所によって、中宮、東宮(東太后)(第2婦人・ニオフル氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西宮(西太后)(第3夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。「西太后」とはもともと咸豊帝の第2婦人であった「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称である。皇帝との間に男子を産んだ西太后に対し、東太后は皇帝の正室となったが男子(世継ぎ)を産むことがかなわなかった。それでも儒教の論理や明の洪武帝の祖法のしきたりにより東太后は次期皇帝の嫡母となることが決められており、西太后自身は生涯において皇后になることは出来なかった。咸豊帝崩御に伴い同治帝が即位すると、皇后は皇太后として「東太后」となり、同治帝を産んだ生母も皇太后となり「西太后」と呼ばれるようになったのである。宮中に入る以前の姓はイェヘナラで、幼名は「蘭児」。数え18歳で後宮に入ると「蘭貴人」となり、のちに徽号を「懿」に変えた。昇進するにつれ懿貴人から懿嬪、そして男子誕生により「懿貴妃(nesuken guifei)」となった。咸豊帝崩御後は「慈禧皇太后」となったが、当時のしきたりではめでたいことや吉兆があるたびに二文字追加されるため、息子(同治帝)の結婚により「端佑」が追加され「慈禧端佑皇太后(jilan hūturi tab karmangga hūwang taiheo)」となり、同治帝の親政開始で「康頤」が加えられ、その後も吉事の度に二文字ずつ追加されて最終的な諡号は「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后」となった。近年西太后の弟桂祥の曾孫を名乗る那根正が『我所知道的慈禧皇太后』(中国書店、2007年)で西太后の本名は杏貞、隆裕太后の本名は静芬であるという説を提唱してから広まったが、那根正の語る話には矛盾が多く、信憑性には疑問が残る。西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。1852年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。後に「蘭」から「懿」に徽号を変えており、貴人から懿嬪に進んだ。ちなみに皇后はニオフル氏(のちの東太后)であった。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の長く生きた男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した。アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らは激しく争った。懿貴妃は皇后ニオフル氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を掌握した。北京帰還後載淳は同治帝として即位し、皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。1874年同治帝は大婚を機に親政を行おうとしたが若くして崩御した。この時代にも、西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉され死亡した)と皇帝を無理矢理離間する等、依然として権力を握っていた。同治帝の死因は天然痘、梅毒のいずれか解明されていないが、一説に同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。現代中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、日本では天然痘によるものであるとされている。同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。同治、光緒両帝の在位期間、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚を登用した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間は同治中興と呼ばれる。しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋艦隊の予算不足により、艦船は整備されたものの操練が遅れていたことが主要因とされている。北洋艦隊の予算の不足については、1885年から始まった頤和園の再建と拡張に伴う予算が不足気味となったため、予算を内務府へ数百万両ほど流用した事や西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費をした事が影響している。なお、北洋艦隊の予算不足の原因については、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当した可能性や、海軍費を広東水師(海軍)の増強の方に充てた点が指摘されている。。日清戦争の敗戦と光緒帝の実質的な親政開始に伴い西太后は政治から身を引くことを表明したが、朝廷への上奏のうち重要印がある物は総て西太后の元へも回され、また光緒帝の発言や動向を宦官に報告させ、重要施策についての懿旨を単独で出すなど依然として権力を持っていた。1896年には西太后の寵愛する寇連材という宦官が、政権の返還・光緒帝の親政を見守る事・円明園の修改築凍結・海軍経費の頤和園への流用即時停止などを意見したが、西太后はこれを刑部へ送り処刑している。日清戦争の敗北後の光緒21年(1895)、技術的な改革にすぎない洋務運動ではなく、体制的な改革を推進する変法運動が起きた。変法派に共感する光緒帝は明治維新に倣って政治・行政制度の改革を目指した変法派の康有為・梁啓超らを登用して、1898年に体制の抜本改革を宣言した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。西太后は当初改革を見守る姿勢をとっていた。しかし、急速かつ急進的な改革に対して親貴や軍機大臣を含めた守旧派の高官と官僚層の間に不満が高まっていった。多くの官僚・士大夫は康有為の孔子改制説などに賛同せず、馮桂芬や張之洞のより穏健な改革論を支持した。変法運動は支持基盤があまりなく、広い支持を得ることはできなかった。もともと張之洞と康有為は西洋文明の精神は中国古典のなかに示されているという附会論者であり、「中学は体であり、西学は用である」という中体西用論をとっており、康有為の思想は洋務派の思想と大差はなかった。だが、康有為の孔子改制論や孔教国教化運動は当時の知識人からは「異端邪説」と見られ、守旧派や穏健改革派のみならず光緒帝の側近である帝党派大官の翁同龢、孫家鼐や変法派内部からでさえも反発を受ける結果となった。西太后が再々度の訓政を企図すると、寵臣の栄禄を直隷総督兼北洋大臣に任命して首都近郊の軍と北洋軍を統括させクーデターの準備とした。光緒帝側もこれに対抗して改革に好意的な袁世凱を候補侍郎に抜擢して新建陸軍の練兵事務に当たらせた。西太后はクーデターを計画した為、対抗上止むを得ず変法派も軍権を握る栄禄を殺害して西太后のいる頤和園を軍隊で包囲する治安維持計画を立て、譚嗣同は袁世凱を訪ね計画に参加するように持ち掛けた。袁世凱は栄禄と面会した際、西太后派のクーデター情報を知ると、皇帝側の計画が既に露見していると思い、保身のため栄禄に変法派の計画の詳細を密告した。西太后は宮中に乗り込みクーデターにより再々度政権を奪い変法派の主要メンバーを処刑、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌の政変)。この結果、康有為や梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを「戊戌六君子」という。わずか3か月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。西太后は権力の座に返り咲くと、光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)。ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、列強国には譲歩せねばならないことが多く、彼女は憤懣を蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。台湾の学者・雷家聖の説では、戊戌変法の間、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。当時、在華宣教師・李提摩太(ティモシー・リチャード Timothy Richard)は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた。そこで、伊藤が到着後、変法派の官吏は彼を重用するよう上奏した。そのため、保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、彼を重用するのは、祖先から継承した天下を拱手の礼して人に譲るようなものだ」と西太后に進言したが、歴史学者の李嵐は、西太后が楊崇伊の口を借りて言わせたものでしかなく、根拠の無い話とする。西太后は9月19日(旧暦八月四日)に頤和園から紫禁城に入り、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。伊藤は李提摩太と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案すると、それを受け変法派官吏の楊深秀は9月20日(八月五日)に光緒皇帝へ上奏、「臣は請う:我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」。もう一人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日(八月六日)に次のように上奏した。「李提摩太が来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する。……皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす」。あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限に外国人を参画させる内容である。西太后は9月19日(八月四日)に紫禁城へ戻り20-21日に報告を受けると、クーデターにより復権を果たし、変法自強運動派を粛清した。この新たな研究に対しても反論が出されるなど、戊戌変法をめぐる西太后の評価については論争中である。しかし、これまでの戊戌変法の解釈・評価と関与した人物への評価について、更なる研究の必要性を求めることとなった。1900年に義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。義和団は勢力が拡大するに連れ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになるが、清朝内部では次第に主戦派が優勢となり野放しとなった。ついにはドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。西太后はこのとき「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べたという。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝が寵愛していた珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。義和団の乱の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握り続けることができた。義和団の乱終結以後、遅まきながら民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に、諸所の配慮(中央に於ける立法権の未付与、責任内閣制の阻止)を加えた、いわゆる「光緒新政」を開始した。1905年には5人の大臣を日本と欧米に派遣し政治制度を視察させたが、李鴻章ら五大臣の奏摺した「中央の上級官吏を政務にも参与させ議院の基礎とする旨、また地方の名望家を政務に参与させ地方自治の基礎とする旨、責任内閣制の準備及び冗官整理を含めた新官制、併せて立憲の準備とする旨」の奏摺を保留、1906年に官制の変更(冗官の廃止統合と地方官制の追認)と9年後の立憲制への移行を宣言する「預備立憲」上諭を下した。1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も72歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。2003年から2008年に掛けて行われた法医学者などによる遺体の科学分析の結果、遺体の頭髪から経口致死量を上回る残留砒素(推定投与量ではなく残留砒素が致死量を超過)が検出され、国家清史委員会は光緒帝が毒殺されたと結論づけた。光緒帝のカルテ(病案)は1000件を超えているが、時期の解る記録のうち1898年9月の戊戌政変以前は76件で、900件前後は瀛台幽閉以後に集中している。また、光緒帝崩御前年の1907年7-8月、新御医に力釣が就き一人で診ていた期間は10年の中で唯一快方していた記録が見られる、9月以降に他の御医が光緒帝へ関わり始めると容態は元へ戻り、力釣も数ヶ月でお役御免となっている。誰が光緒帝を殺害したかについては様々な議論があるが、決定的な証拠は無く不明のままである。西太后殺害説、袁世凱殺害説、李蓮英殺害説、崔玉貴殺害説などがあるが、中国第一歴史档案館編研部主任の李国栄氏によると、西太后、袁世凱、李蓮英のいずれにも可能性があるという。西太后犯人説をとる『崇陵伝信録』では、死期が近づいた西太后が光緒帝が自分よりも長生きしないように毒殺したとしている。李蓮英犯人説をとる徳齢の『瀛台泣血記』では西太后の威を借りて横暴を極めた宦官の李蓮英が報復を受けることを恐れて毒殺したとしている。袁世凱犯人説をとる溥儀の『わが半生』では、戊戌政変で光緒帝を裏切った袁世凱が光緒帝が復権して報復を受けることを恐れて毒殺したとしている諸説いずれも決定的な証拠は無いため、犯人は特定されていない。西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば、上に挙げた例は根拠のない流説であると明している。(加藤徹『西太后』中公新書2005年を参照のこと)ライバルの麗妃の手足を切断したというエピソードは映画『火焼円明園』(邦題『西太后』)でも描かれているが、これは完全なフィクションである。西太后が嫉妬深いというのは俗説であり、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちは危害を加えられることなく後宮で生活している。前述の麗妃は咸豊帝の唯一の娘栄安固倫公主を生んだ後、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、清東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として東太后と西太后にかわいがられ、妃の生んだ娘であるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。また、東太后と西太后は恭親王奕訢の娘を養女として宮中で育て栄寿固倫公主とした。また、「四春」と称された4人の寵姫(禧貴人、慶貴人、吉貴人、璷貴人)は、同治、光緒朝に嬪、妃に加封され、平穏な生活を送る。一方で西太后は権力への執着が強く、同治帝が西太后の推す慧妃ではなく東太后の推した阿鲁特氏を皇后とした事を忘れず同治帝の崩御後に阿鲁特氏を死亡させ、また光緒帝に親政を促した寵姫の珍妃を殺害させるなど、自分を脅かす可能性のある人物を排除している。
出典:wikipedia
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