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中森明夫

中森 明夫(なかもり あきお、本名:柴原 安伴(しばはら やすとも)、1959年1月1日-)は日本のコラムニスト、編集者。三重県志摩市出身。おたくという語の育ての親。ペンネームは、中森明菜からとったもの。中学卒業後、三重県立明野高校に入学するも一年の夏休み明けに自主退学。その後、東京で生計を立てていた兄の手引きで上京。最終学歴は明治大学附属中野高等学校中退と自称するも、実際には1979年大正大学文学部哲学科中国学コース入学、1983年中退。1982年7月、ミニコミ誌ブームの中で、エンドウユイチ(現:遠藤諭)達と共に、サブカルチャー総合ミニコミ誌の『東京おとなクラブ』(東京こどもクラブのもじり)を創刊。同誌の発行人となり、NHK少年ドラマシリーズやCMなどを特集し、1985年まで不定期刊で5号まで出す。ペンネームは歌手の中森明菜にちなんで、エンドウユイチから命名された。1983年に『漫画ブリッコ』誌上で1983年6月号から9月にかけて『東京おとなクラブ』出張版として「『おたく』の研究」を連載した。この中で、ガンダムファンやカリオストロファンなどの「異様さ」をあげつらい、「この頃やたら目につく世紀末的ウジャウジャネクラマニア少年達」を「おたく」と蔑称する。この「おたく」とは、少年たちが第三者に声をかける際に使用した「お宅(おたく)は……」という呼びかけが始まりで、以前より一部業界関係者が少年らを指して「オタクくん」などと呼んでいたものであるが、この記事掲載により一気に全国的に広まった。この記事が読者からの反発を受け、編集長の大塚英志も「おたく」を差別用語として連載を打ち切り、1983年12月号を最後に連載中止になった。1980年代半ばから浅田彰に認められ、1985年に『朝日ジャーナル』誌の「新人類の旗手たち」コーナーに登場。売れないライターだったのがこれをきっかけに取材依頼が殺到し、テレビ出演するなど世に出ることになる。以後、新しい世代のサブカルチャーの担い手として注目を浴び、田口賢司および野々村文宏と共に"新人類3人組"と呼ばれた。なお、中森本人は「新人類」という概念は信じておらず、来た仕事が断る理由もなく引き受けていたという。『朝日ジャーナル』にはフリーで駆け出しの仕事をしていた頃より関わっていたが、筑紫哲也が同誌編集長の時期に『若者たちの神々』を連載していた頃、山崎浩一や泉麻人とともに「宮武外骨の『滑稽新聞』をやってくれ」という依頼を受けた際、山崎や泉とは対照的に一人『神々製造業者御用!』という『若者たちの神々』を皮肉った記事を書いて問題になったという。1985年に『宝島』の1985年6月号から連載したオムニバス小説「東京トンガリキッズ」で小説家デビュー。1987年に単行本化。1988年の小説『オシャレ泥棒』は翌1989年に宮沢りえ主演でTBSでテレビドラマ化された。1987年にタレントの後藤久美子のタレント本『ゴクミ語録』を取材編集し、さらに前述のドラマ原作となった『オシャレ泥棒』の執筆で女性アイドルと携わるようになり、以後はアイドル評論家を名乗っている。1991年に宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂の当時人気の3人をコラムで「3M」と名付けてちょっとした流行語になるが、宮沢りえの母親に「一緒にするな」と怒られたという。1989年、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で宮﨑勤が逮捕されおたくという概念がクローズアップされる。ほぼ全てのマスメディアが宮崎勤を糾弾する中、宮崎を擁護する論陣(ただし、マスコミの、オタク=犯罪者という図式の恣意的な偏向報道を批判しただけで、宮崎の犯罪行為そのものを擁護したわけではない)を張った大塚英志の姿勢に感銘し、大塚と週刊誌での対談記事で再会した後、大塚らと共著で1989年に『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』を刊行。しかし同書を出版したことで仕事はキャンセルされ、友人を失い、脅迫電話や脅迫状で脅されることになったという。1990年代は『SPA!』誌上で「ニュースな女たち」と「中森文化新聞」を10年以上にわたって連載。さらに、1996年にはチャイドルという語を創始し、1990年代後半のチャイドルブームの仕掛け人となった。村上綾歌、岡明子、りりあん、せがわきりなどを発掘した。1997年、林真理子の小説『ワンス・ア・イヤー』文庫版に寄せた解説が、2008年に林本人から「林真理子論として最高」と言われていると感謝される。2001年には、慶應義塾大学で非常勤講師としてポップメディア史を教えた。2005年、文芸評論家から無視されてきた山田悠介の『親指さがし』の解説を寄せた。2008年に『野性時代』誌で20年ぶりの小説となる「学校で愛するということ」を連載。2010年、50歳にして、初の純文学作品『アナーキー・イン・ザ・JP』を発表。第24回三島由紀夫賞候補に挙がった。

出典:wikipedia

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