広島フォーク村(ひろしまフォークむら)とは、1968年11月、広島市の3つのフォーク団体が、合同で結成したアマチュアフォークサークル。初代村長となった伊藤明夫と吉田拓郎が中心となって結成された。1968年の11月に拓郎が招集をかけ、広島市内の喫茶店「ウインザー」に広島の各大学のフォークソング団体の代表者が集まったところから始まったとされてきたが、集まった喫茶店は2015年現在も同じ場所で営業を続ける「朝日珈琲サロン」と判明している。拓郎は顧問という名目で参加したが、実質的リーダーでその人気は凄まじく、拓郎の曲はレコード化されていないのに、広島のラジオでチャートインし、拓郎の曲を他のアマチュアがコピーする程だった。伊藤はのち拓郎や泉谷しげるのマネージャーを務めた。1968年12月23日に広島市青少年センターで開村コンサートが開かれた。1970年、当時吹き荒れていた学園闘争の上智大学全共闘のメンバーとアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作。同年4月、エレックレコードからこのアルバムが全国発売されて有名となった。拓郎作品は『イメージの詩』、『マークⅡ』、『にわとりの小さな幸福』の3曲が収録されている。この影響で各地に○○フォーク村が出来た。フォークが地方での音楽拠点として大学生層を中心に広まっていた時代に、最も有名で、抜きん出たアマチュア団体が広島フォーク村だった。日本のフォークの源流の一つである。1970年6月27日には、拓郎のプロデビューに合わせ、広島フォーク村の旗揚げコンサートが新宿厚生年金会館で開催され、広島発のフォークの波は東京にも進出し成功を収めた。司会は蔭山敬吾。最盛期には300人を超える規模だった時期もあり、後に愛奴を結成する浜田省吾や町支寛二らも在籍したが、やはり拓郎の上京とともに求心力を失い1971年5月に一旦解散された。しかしその後も何度か再結成され、村下孝蔵や上綱克彦、原田真二らも在籍した事がある。元19の岡平健治の父親もメンバーだったという。2007年10月から2008年3月までCSで放送された"日本のフォーク・ムーブメント"の原点を旅する『なぎら健壱の音楽紀行「フォークの旅路」』では、その第1弾放送として広島フォーク村を紹介した「広島編」が放送された。
出典:wikipedia
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