山田 亦介(やまだ またすけ、1809年2月2日(文化5年12月18日) - 1865年1月16日(元治元年12月19日))は、江戸時代末期の長州藩士。甲子殉難十一烈士の一人。亦介は通称で、卯七とも。諱は憲之、公章。号は愛山、含賞斎。大組頭山田家の嫡男。村田清風の甥にあたる。甥に初代司法大臣、陸軍中将の山田顕義がいる。長沼流兵学を学び、弘化2年(1845年)には吉田松陰(寅次郎、当時15歳)に教授している。嘉永5年(1852年)、古賀侗庵の『海防憶測』を出版した罪で隠居となり、知行も削減される。安政5年(1858年)には隠居雇として海防や軍艦「庚申丸」製造に関わり、銃士隊の編成を進言する。しかし、長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄にて57歳で処刑された。墓所は東光寺。
出典:wikipedia
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