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タイ王国

タイ王国(タイおうこく、 "Ratcha Anachak Thai" )、通称タイ( "Prathet Thai" ))は、東南アジアに位置する立憲君主制国家。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都はバンコク。国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマーと国境を接する。マレー半島北部の西はアンダマン海、東はタイランド湾に面する。2014年にプラユット将軍率いる国軍が軍事クーデターを起こし、憲法と議会を廃止し実権を掌握して以来、軍事独裁政権が継続している。2016年10月13日、プーミポン・アドゥンラヤデート(プミポン)国王が崩御。枢密院議長であるプレーム・ティンスーラーノンが摂政に即位した。正式名称は、(タイ語: ラート・チャ・アーナーチャック・タイ)で、は「王」、は「領土」、は「タイ」を意味する。現地での通称は、(タイ語: ムアンタイ)。公式の英語表記は、 、略して ( タイランドゥ) 。日本語表記は、タイ王国、通称はタイ。タイランドと称される事も多い。漢字で泰(タイ)と表記されることもある。1939年までの正式国名は( サヤーム、 サイアム、シャム)。この と言う語は古くポーナガルのチャム語碑文(1050年)、バガンのビルマ語碑文(1120年)、アンコールワットの刻文(12世紀頃)などに見える という語に原型を見ることができる。歴史学者・言語学者のチット・プーミサックはその著書『タイ族の歴史』でこの語がビルマのシャン族のシャン、インドのアッサムやアーホーム族のアーホームの語源になったとしている。西洋においては とはポルトガル語の , から来た語とされる。また、1592年ジェームス・ランカスターが最初に ' と言う語を用いたとされる。この ' が正式な国号となるのは1855年、英タイ間でボーリング条約が締結された時であった。日本においては『明史』巻三百二十四に見える、暹(せん)という国と羅斛(らこく)という国が合併し暹羅斛となった国名を省略して暹羅と記しているのを用いタイを呼ぶ国名とした。なお、暹という国はスコータイ、羅斛はラウォー(ロッブリー)とするのがポール・ペリオによる研究以来からの定説であったが、『大徳南海誌』の「諸蕃国」に見える一文「暹国管上水速孤底」と言う記述があることを理由に山本達郎は暹とはアユタヤではないかとする見解を発表し、これが2002年に石井米雄によりタイの学会に紹介され新たな定説となった。なお暹羅の読みであるが1712年刊行の『和漢三才図会』ではこの語にしゃむろ、シヱンロウという読みを与えている。しかし、明治期以降シャムの読みが定着した。この他、タイを示す「シャム」、「暹羅」以外の系統の語として、ビルマ語のヨウダヤー ()があげられる。この語は元々、シャムを語源とするタイ北方のタイ族を呼ぶ言葉、「シャン」とは別に、チャオプラヤー川流域のタイ族、およびタイ南部のタイ族を指し示す言葉で、語源はタイに過去に存在した王朝の名前アヨータヤー(アユッタヤー)であると考えられている。ただし、この言葉はタイに対する蔑称とされる。一方、20世紀前半までにシャム/ が国名として定着したが、1939年6月24日、時の首相ピブーンは国名をタイに変更する。これはシャムがチャオプラヤー川流域のタイ族を指す外国からの言葉であり、タイ族の自称である「タイ」に変更するのが適切であったと説明されるが、一方でチャオプラヤー川流域以外のタイ族をも取り込もうとしたピブーンの意図も読み取れる。その後、セーニー内閣時の1945年9月17日いったん国名はシャムに戻されたが、返り咲いたピブーンにより1949年5月11日、国名がタイに戻された。時は下ってサリット政権時代に、議会で国名にタイがふさわしいかどうか議論がなされたが、結局は国名を維持することになった。しかし現在でも、タイという名前に反対する知識人が見られる。タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王朝(1238年 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やアンコール王朝の支配を退け成立した。タイ語のアルファベットであるタイ文字が完成したのは、3代目ラームカムヘーン大王の時代であると言われている。その後、アユタヤー王朝(1350年 - 1767年)、トンブリー王朝(1767年 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782年 - )へと変遷した。現王朝の初代王ラーマ1世(チュラーローク将軍)は、1782年に首都をトンブリーからバンコクに移したため、「バンコク王朝」とも呼ばれ、また、バンコクの非常に長い正式名称にも含まれているタイの守護仏の名から、ラッタナーコーシン王朝とも呼ばれる。ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進、仏教の改革などを行った。映画『王様と私』にも登場する。1855年、イギリスと通商条約を結んでからは、コメの輸出が急増し、全国土に稲作地帯ができあがった。それまでは多様な生産であったが、商品としてのコメ、錫、チーク、ゴムなどが輸出されるようになり、モノカルチャー経済に移っていった。当時周辺地域の大半は欧米の植民地・保護領であったが、タイは国土の一部を割譲したに留まっている。英仏両勢力圏の緩衝地帯として独立を維持、植民地化を免れた。ラーマ5世(チュラーロンコーン)は、1873年国政改革に着手し、1892年4月1日12省からなる近代的統治組織を創設した。国王が立法、行政、司法の三権を掌握する絶対王政システムを確立し、教育制度や官僚機関の整備、奴隷解放(1874年)など、タイの近代化をすすめるチャクリー改革を行った。ラーマ6世(ワチラーウット)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じはじめ、1912年3月初め、立憲制・共和政を望む青年将校らによるクーデター計画が発覚した。ラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)が即位したあと、1932年にはプリーディー・パノムヨンやプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行した(民主革命、立憲革命と呼ばれる)。1940年11月23日に南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こし、1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約をヴィシー政権と締結して領土を拡大した。太平洋戦争が勃発すると、日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った。タイは東南アジア戦線では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらが「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。こうした二重外交により、1945年、タイは1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することが出来、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に 国王ラーマ8世は王宮内で他殺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟で現国王のラーマ9世が即位した。第二次世界大戦後の東西冷戦期は、ベトナムやカンボジア、ラオスのような近隣諸国の共産主義化に脅かされたものの、「共産主義の防波堤」としてアメリカの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた。また、国民の高い教育水準や豊かな国土を背景に徐々に工業国への道を模索し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。なお、この頃より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。1992年には5月流血革命(พฤษภาทมิฬ)が発生したものの、プミポン国王の仲裁により収まった。1997年に始まったアジア通貨危機により、タイ経済は一時的に停滞したものの、その後急激な回復を見せ、日本企業や中国企業の進出も増え、現在では再び高い経済成長率を維持しており、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている。しかし、2006年頃からタクシン派と反タクシン派との政治的対立が激化するようになり、クーデターが発生するなど政情不安が続いている。2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止され、タクシン・チナワット政権が崩壊した。クーデターは国王の介入により収拾され、直ちに陸軍大将のソンティ・ブーンヤラッガリンを首班とする軍事政権が発足した。同年、暫定憲法が公布され、スラユット・チュラーノンが首相に着任した。2007年8月には、2007年タイ王国憲法が公布され、民政復帰が開始された。2007年12月23日に下院選挙が実施され、2008年1月に選挙の結果を受け、クーデターで政権を追われたタクシン元首相派の文民であるサマック・スントラウェート元バンコク都知事が首相に就任した。しかし、同年9月に反タクシン元首相派寄りとされる憲法裁判所は、サマック首相の民放テレビ出演を違憲として、サマック首相を失職させるという司法クーデターを起こした。10月にはタクシン元首相の義弟であるソムチャーイ・ウォンサワットが首相に就任したが、再び憲法裁判所は、前年からの選挙違反を表向きの理由にして、与党の国民の力党に解党命令を出し、ソムチャイ首相も失職させた。これにより、同年12月、野党の民主党が総選挙を経ずに政権を獲得し、アピシット・ウェーチャチーワが首相となる。これ以降、2009年から2010年ごろには、タクシン元首相派(通称赤シャツ隊)を中心とする市民による総選挙を求める大規模なデモが起きたが、アピシット政権はデモを徹底的に弾圧し、数百人の犠牲者が出た(暗黒の土曜日)。2011年に実施された総選挙では、タクシン元首相派のタイ貢献党が大勝し、インラック・シナワトラが首相に就任した。だが、2013年下旬からは約5年ぶりに反タクシン派の武装デモ隊による反政府デモが発生した。そして、2014年5月、憲法裁判所はインラック政権の政府高官人事を違憲として、インラック首相を失職させる司法クーデターを起こした。2014年5月22日、国軍は軍事クーデターを決行し、インラック前首相やニワットタムロン・ブンソンパイサン首相代行など、政府高官を相次いで拘束した。憲法と議会を廃止して実権を掌握すると、陸軍大将のプラユット・チャンオチャを首班とする軍事政権の樹立を宣言した。2015年、タイ王国は政治改革のため腐敗防止法及び関連法を改正し、腐敗行為に関与した場合は外国人でも死刑の対象となりうること、また国外逃亡した腐敗行為者に関する公訴時効を10年延長し20年とすることを定めた(2015年7月9日施行)。なおこの時点ではタクシン元首相はタイ国外におり、またインラック元首相については処分保留とされている。タイでは発展途上国でしばしば見られる政変や軍事クーデターによる政情不安、軍による民主化運動の弾圧などが多発していた。冷戦後の1992年以降は一時安定し、東南アジアの「民主主義の優等生」と称されていた。しかし、2006年に軍が政治関与を再開して2006年タイ軍事クーデターが発生した。また議会派の間でも第31代首相タクシン・チナワットの処遇を巡って反独裁民主戦線(UDD、赤服軍団)と民主市民連合(PAD、黄服軍団)という二つの政治集団が形成され、鋭く対立するようになり、2010年以降の情勢は極めて不安定な状態にある。2011年、総選挙で旧タクシン政権を支持する議員が所属するタイ貢献党(新党プアタイ)が勝利し、タクシン元首相の妹インラック・シナワトラが第36代首相に就任、議会派の対立に一応の決着が付いた事でUDDとPADの活動も沈静化した。インラック政権は過去の清算を図るべく敵味方双方への大規模な恩赦(国民和解法)の実施を検討したが、タクシン元首相にも恩赦を与えるかどうかで対立が再燃するという皮肉な結末を生んだ。更に反タクシン派議員の大物であったステープ・トゥアクスパン元副首相が、反タクシン派の野党からも離れて議会外での暴動・直接行動を扇動するに至って混乱は頂点に達し、2013年末に行われた総選挙が正式に実施できずに終わる異常事態となった(2013年タイ反政府デモ)。軍はタクシン派と反タクシン派の対立には介入しない姿勢を見せていたが、インラック政権が親族の閣僚登用で退陣に追い込まれる一方、普通選挙の廃止や人民議会の設立など反タクシン派の要求も過激化するなど情勢の混迷が深まる中で遂に16度目のクーデターを実行した(2014年タイ軍事クーデター)。クーデター後、タイ王国軍が全土に戒厳令を発令、同時に憲法を停止して基本的人権を一時的に制限するとし、政府については陸軍総司令官プラユット・チャンオチャが議長を務める国家平和秩序維持評議会による軍政に移行した。治安回復を目的とする軍政は国王の支持を得て、プラユット陸軍総司令官・評議会議長が暫定首相を経て第37代首相に任命された。現在、反政府運動を封じる手段として報道の自由を全面制限し、タイ国内放送局の掌握、BBCワールドニュース・NHKワールドTV、NHKワールド・プレミアム、CNN等、海外衛星放送ニュースチャンネルやケーブルテレビサービスを切断、配信させない報道管制を敷き、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの検閲なども強化している。さらに、無期限の夜間外出禁止令を首都バンコクなどタイ全土で発動し(パタヤ、プーケットなど一部の観光地は現在解除)、許可なく外出すれば拘束や射殺もありうるとした。これ以外にも不敬罪の廃止を巡る議論、バンコク首都圏のデモ活動に対する非常事態宣言の頻発発令、タイ南部のゴムプランテーションのゴム買い取り価格への不満、深南部のイスラム教反政府武装集団に対する抗争及びマレーシアに続く南本線鉄道線路の破壊、カンボジアの世界遺産であるプレアヴィヒア寺院(タイ語名:プラヴィハーン)周辺の国境線問題において、カンボジアとの両軍同士の睨み合いによるタイとカンボジアの国境紛争など、治安の悪化が続いている。日本外務省は、バンコクには注意喚起情報を、前述当該地域(ナラティワート県・ヤラー県・パッタニー県・ソンクラー県(以上 タイ南部)・シーサケート県(北東部))において、「渡航の是非を検討して下さい」という旨の、危険情報を出し続けている。在タイ日本国大使館は、反独裁民主戦線・民主市民連合の一員と誤解され、トラブルに巻き込まれるのを防ぐため、双方のイメージカラーである「赤色・黄色の衣服を身に着けない様」注意喚起を行っている。立憲君主制をとるが、平時の国王は象徴的な存在である。しかし、政治的な危機にあたってはしばしば国王の直接的、または間接的な介入が見られる。近年においても1992年に発生した5月流血革命の際にプーミポン国王が仲裁に入った他、2006年と2014年の政治危機でもタクシン派の首相の進退問題に直接介入するなど、国王の政治や国軍への影響力は極めて大きい。伝統的に王家に対して崇敬を払うよう国民は教えられている。王や王妃の誕生日は祝日となり国中が誕生日を祝うお祭り状態となり国王が生まれた「曜日の色」を着用する人が多い(ラーマ9世の場合は黄色、またシリキット王妃の色は青、王妃の誕生日は「母の日」として母親に感謝するイベントが開催される。)。また、国王や王妃の誕生日の前後には、肖像画が国中に飾られる。日常生活においても、国民の各家庭やオフィスビル、商店や屋台に至るまで、国王の写真、カレンダーや肖像画が飾られている。映画館では本編上映の前に『国王賛歌』と共に国王の映像が流され、その間観客は起立し敬意を表すのが慣わしとなっている。特に前国王であったラーマ9世(プーミポン・アドゥンラヤデート)は、その人柄と高い見識から国民の人気が非常に高い。現代でも不敬罪が存在する数少ない君主国であり、最近も国王を侮辱する画像・動画が掲載されたことを理由にYouTubeへの閲覧アクセスが長期にわたり遮断される等の事例もある。日本の皇室とタイの歴代王朝(アユタヤ王朝、トンブリー王朝、チャクリー王朝)はおよそ600年前から親密な関係を持っており(当時の日本は室町時代)、この皇室と王室の親密な関係が両国の緊密な関係の基礎になっている。また、秋篠宮文仁親王のほか、両国の皇室、王室メンバーの公的または私的訪問が頻繁に行われている。実質的な最高指導者は、国家平和秩序評議会 (NCPO)議長のプラユット将軍。国家平和秩序評議会は、2014年5月22日の軍事クーデターにより全権を掌握した軍事政権が創設した組織で、評議会議長が首相を兼ね、行政権を持つ内閣や立法権を持つ国家立法会議を上回る権限を保持しており、司法権を持つ憲法裁判所に対しても政治的影響力を行使している。クーデターで廃止した国民議会(上下院)に代わり国家立法会議が設置されたが、過半数の議員を国軍の軍人や退役軍人が占めている。政治体制は立憲君主制であり、国王が国家元首であるが、その権限はタイ王国憲法によりさまざまな制限が加えられている。一方で不敬罪が存在し、“不敬”と看做された行為は誰でも処罰対象になる。国政の最高責任者は首相である。プラユット将軍が、2014年に軍事クーデターを起こし、憲法と議会を廃止して実権を掌握して以来、政党政治を禁止する軍事政権が続いている。現在活動を停止させられている国会は、上下二院制の議会制民主主義をとっており、ラッタサパー() と呼ばれる。国会は500議席からなるサパー・プーテーンラーサドーン() と呼ばれる民選の人民代表院(下院)と、150議席(2007年から1県1人の77人が民選、残りは任命制)からなるウッティサパー()と呼ばれる元老院(上院)で構成される。人民代表院の任期は4年で再選可、元老院は6年で一期のみである。首相は人民代表院から選出され、元老院には法律の発案権はない。前回選挙は、2014年2月2日に投票が行われ、タクシン元首相派のインラック首相率いるタイ貢献党が圧勝した。しかし、3月21日に反タクシン元首相派寄りとされる憲法裁判所は、この選挙結果を認めず、総選挙を無効とする判決を出して、インラック政権を転覆させた(司法クーデター)。司法権はサーンディーカー()と呼ばれるタイ最高裁判所が持つ。なお、最高裁判所の裁判官はすべて国王による任命制である。深南部三県では一部のマレー系住民が以前から離反の動きを見せていたが、近年に入ってさらに状況が悪化し、パタニ解放戦線などの組織がパタニ王国の復興を大義名分にして、反政府活動を行う動きが出ている。南部のマレー半島へはかつてアユタヤ朝が併合を目指して侵攻したものの、明と結んだマラッカ王国によりこの企図を放棄したものである。タイ東部・北部ではかつて少数民族による共産ゲリラの反政府活動が活発であったが1980年代に入りこれらの活動はほぼ沈静化している。差別は残っているものの同性愛や女装などの異性装および性転換などに寛容であり、ニューハーフが多いことでも有名である。性転換手術も合法であり、海外から性転換手術を希望する患者を多く受け入れている。しかし、仏教国のタイでも少数民族への差別は少なくない。タイ東北部のイーサーン人やラオ族は、タイ中央部の人から差別や偏見をされており、特に標準語を話せないタイ東北部の人は差別の対象となってる。また、タイは歴史的に英仏の緩衝地帯とされ、植民地にされたことが一度もなく、現在でも周りのインドシナ半島の国より豊かなため、タイ人はラオス人やカンボジア人に対して愛国心を露わにすることがある。しかし、このような性格と行為は現代の若者に多く見られ、年配の人にこういったことはあまり見られない。冷戦期にはアメリカとの同盟を基調とした西側戦略であったが、伝統的に柔軟な全方位外交を展開・維持しており、ASEAN諸国との連携、日本や中国、マレーシアといった近隣主要国との協調を外交の基本方針としている。しかし、2014年にクーデターによって軍事独裁政権が樹立されて以降、タイは中国との関係を急接に深めるようになった。タイの軍事政権に対して、日本や欧米諸国は、クーデターを非難して距離を置いているが、中国は現在の政権を支持し、タイとの関係強化の姿勢を鮮明にしている。タクシン首相時代は、東南アジアの近隣国との関係強化、主要各国との自由貿易協定(FTA)締結を進める経済中心外交を行い、「アジア協力対話(Asia Cooperation Dialogue:ACD)」を提唱するなど、地域の核となる立場を目指し、2008年7月から2009年12月までASEANの議長国を務めることが決まった。2009年4月9日から12日まで東南アジア諸国連合関連の一連の首脳会議(ASEAN+3)がパタヤで予定されていたが、11日、タクシン元首相派団体である反独裁民主戦線(赤シャツ集団)などのアピシット政権に抗議するデモ隊の会場乱入により、中止に追い込まれた。一時は地域一帯に非常事態宣言が発令された。2010年8月、カンボジアとの国境にあるプレアヴィヒア寺院(タイ語:プラヴィハーン)遺跡付近の領有を巡って対立が再び激しくなる。その発端となったのは、反タクシン派団体である民主主義市民連合(PAD)がバンコクで2010年8月7日に開いた集会で、政治混乱による国民の不満を外にそらすため、強烈な国粋主義・民族主義に基づく、露骨な強硬外交を掲げたアピシット首相が「外交と軍事両方の手段を使う」と発言したことによると同国メディアは報じている。アピシット首相は世界遺産条約からの脱退を発表していた。2011年には、カンボジアの攻撃を強行し、住民を巻き込んだタイとカンボジアの国境紛争を引き起こした。この紛争により、双方の兵士や住民ら30人近くが死亡し、100人以上が負傷した。寺院遺跡付近で国境紛争が続いたが、タクシン派のタイ貢献党が与党となるとカンボジアとの和解が進んだ。また、世界遺産条約からの脱退は撤回された。もっとも、国境紛争が収束に向かっている現在も、日本の外務省はタイ・カンボジア国境付近の危険情報を出し続けている。タイ王国軍の正規兵力は30万6600人(陸軍19万人、海軍7万600人、空軍4万6000人)で、男性は徴兵制による2年間の兵役の義務を有する。陸海空のいずれに配属(もしくは徴兵免除)されるかはくじ引き(黒票:免除、赤票:兵役)で決まるが、徴兵を逃れるための賄賂はまだ頻繁に行われている。この中で、もっとも厳しいのが海軍であり、中には海軍のくじを引き当てただけで卒倒してしまう者もいる。また、海軍は慢性的に人員が不足しており、相当数が服役囚をもって充当されているが、それでも艦艇の乗組員の定数は70%程度しか満たされていないという。他に予備役20万人が存在する。なお、年間の軍事予算は2003年に19億アメリカドルを計上した。2003年10月から1年間、米国に同調してイラクに工兵や医療部隊を中心に派兵した。また、2008年10月に国境問題を抱えるカンボジアとの間で小規模な衝突が2回起きた。(プレアヴィヒア寺院#カンボジアとタイの国境問題)第二次世界大戦後、2006年までに発覚した未遂を含めて16回ものクーデターを計画、実行するほど、軍上層部の政治志向は強い。なお、2006年9月に起きたタイ王国陸軍のソンティ・ブンヤラガリン大将率いる陸軍と警察による無血クーデター以降、2007年に民政復帰するまで、陸軍が中心となった「民主改革評議会」が指名した元陸軍司令官で枢密顧問官を務めたこともあるスラユット・チュラーノン首相率いる、事実上の軍事政権によって国家運営が行われた。そして、2014年にも軍事クーデターを決行し、プラユット将軍率いる軍事独裁政権が樹立された。2015年のタイのGDPは約3952億ドルであり、東南アジアではインドネシアに次ぐ経済規模である。また、日本の九州とほぼ同じ経済規模でもある。同年の一人当たりのGDPは5,742ドルであり、隣国のカンボジア、ラオス、ミャンマーより遥かに高い反面、中進国とされる資源大国マレーシアに比べると大幅に低い水準である。世界銀行によって発展途上国に分類されている。タイ統計局によると、2009年の世帯当たりの平均所得は月2万903バーツ。一人当たりの平均所得は月6319バーツ。経済の安定や外国企業の積極的な進出を背景にした1980年代以降の高度経済成長はすさまじく、1985年から1995年にかけての10年間、タイは年間平均9%の経済成長率を記録した。しかし、アジア通貨危機(1997年)によって経済は停滞した。この際にタイは1ドル/25バーツに固定していた固定相場制を廃止。1998年1月には1ドル/56バーツにまで値下がり、経済規模は10.2%も悪化した。この危機は、特にタイの財閥の同族支配廃止や、外国資本の参入につながった。しかし、タイは外国への輸出を積極的に行ったことから1999年、経済成長率は再び4%台を記録、2003年には6%台を記録し、タイは好景気に逆転した。この好景気を背景に中流階級の台頭が起こっている。クーデターによるあおりも受けたため2008年は2.5%とやや伸び悩み、2009年はリーマンショックもあり-2.3%とマイナス成長も2010年は7.8%と再び高成長。このように年ごとに経済成長にばらつきがあり、80年代後半から90年代前半に見られたのようなすさまじい経済成長からはやや落ち着いている。タイ統計局の家計調査によると、1世帯当たりの平均所得は月2万903バーツ。バンコク首都圏の平均世帯所得は月3万7732バーツであり、地域別で最下位のタイ東北部の平均世帯所得は月1万5358バーツ。全国平均の1人当りの平均所得は月6319バーツである。教育に力を入れた結果、1980年代以降は、教育程度の高さと賃金の安さ、そして中流階級の増大による国内市場の拡大に着目した日本や欧米諸国の企業の工場の進出が目立っており、併せて関税特典があるASEAN諸国内への輸出拠点として活用している。日本はタイにとって最大の貿易額と投資額、援助額を持ち、日産自動車やホンダ、トヨタ、いすゞ、日野自動車などの自動車関連企業の多くが進出している他、空調メーカーであるダイキンといった家電メーカーなども多く進出し、国内市場への供給を行っている他、関税特典があるASEAN諸国内への輸出拠点として活用している。なお、2008年現在1300社近い日本企業が進出しており、また、2007年11月に日タイ経済連携協定(通称:JTEPA)が発効したことから、貿易のみならず、投資や政府調達など幅広い分野における経済関係の一層の強化が期待されている。2014年現在、タイ国内で暮らす外国人のトップは米国人で、次いで中国人、オーストラリア人、英国人、日本人は第5位でその数は6万4000人となっている。また、タイ資本の大手企業として、航空会社のタイ国際航空やバンコク・エアウェイズ、シン・ビールで有名なブンロート・ブリュワリーや、ビア・チャーンで有名なタイ・ブリュワリーなどがある。また、2001年より、地方の産業振興や伝統文化の継承、貧困層の収入源確保を目的に、日本の大分県の例をモデルとした「一村一品運動(One Tambon One Product/OTOP)」を展開しており、大きな成功を収めている。タイは豊富な観光資源を持つことや、交通の要所に位置することから、近隣諸国のみならずヨーロッパやアメリカ、オーストラリアからも多くの観光客を集めており、観光業は、大きな外貨獲得手段の一つである。賄賂やバックマージン、リベートなどの商習慣が2000年代に入っても根強く残る。2012年に国内の大学が行った公共工事の受注に関するアンケート調査の例では、85%の回答者から賄賂が必要であったとの回答が見られた。タイは大きく4つの地域に分けられ、その地域ごとにいろいろな顔を見せる。北部は山岳地が広がり比較的涼しい気候である。タイ国内最高峰であるドーイ・インタノン(2,576m)もこの地域にある。東北部はほぼ全域にコーラート台地が広がり、雨量が少なく農作物が育ちにくい環境にあって、貧困地域の代表格にもなっている。中央部にはチャオプラヤー川が形成したチャオプラヤー・デルタと呼ばれる豊かな平地が広がり、世界有数の稲作地帯を作り出している。南部はマレー半島の一部でもあり、ゴムノキの畑などが広がるほか、近年までスズの採掘が盛んであった。また、雨期が中央部よりも長いことでも有名である。タイ政府は南部においてマレー半島大運河計画(クラ地峡運河開発計画)を提起しているが、まだ検討中である。タイの気候はケッペンの気候区分では熱帯性に分類されモンスーンの影響が大きい。5月中旬から10月ころにかけては空気が湿り、なま暖かく、スコールなどを特徴とする雨季に見舞われる。北部および中部では、8月から10月にかけて降雨量が多く、しばしば洪水が引き起こされる。その後、11月から3月中旬までは雨が少なく、比較的涼しい寒季となり、12月頃に寒さのピークを迎える。バンコクでも年によっては最低気温が20度を下回ることがある。4月には暑季と呼ばれる非常に暑い気候となり、夏を迎える。ただし半島部東海岸は年間を通じて降水量が多く、気温も高い。76県とバンコク首都府に分かれている。ウタイターニー県 - ウッタラディット県 - カムペーンペット県 - スコータイ県 - ターク県 - チエンマイ県 - チエンラーイ県 - ナーン県 - ナコーンサワン県 - パヤオ県 - ピッサヌローク県 - ピチット県 - プレー県 - ペッチャブーン県 - メーホンソーン県 - ラムパーン県 - ラムプーン県アーントーン県 - アユタヤ県 - カーンチャナブリー県 - サケーオ県 - サムットサーコーン県 - サムットソンクラーム県 - サムットプラーカーン県 - サラブリー県 - シンブリー県 - スパンブリー県 - チャイナート県 - チャチューンサオ県 - チャンタブリー県 - チョンブリー県 - トラート県 - ナコーンナーヨック県 - ナコーンパトム県 - ノンタブリー県 - パトゥムターニー県 - バンコク(県ではない) - プラーチーンブリー県 - プラチュワップキーリーカン県 - ペッチャブリー県 - ラーチャブリー県 - ラヨーン県 - ロッブリー県アムナートチャルーン県 - ウドーンターニー県 - ウボンラーチャターニー県 - カーラシン県 - コーンケーン県 - サコンナコーン県 - シーサケート県 - スリン県 - チャイヤプーム県 - ブリーラム県 - ナコーンパノム県 - ナコーンラーチャシーマー県 - ノーンカーイ県 - ノーンブワラムプー県 - ブンカーン県 - マハーサーラカーム県 - ムックダーハーン県 - ヤソートーン県 - ルーイ県 - ローイエット県クラビー県 - サトゥーン県 - スラートターニー県 - ソンクラー県 - チュムポーン県 - トラン県 - ナコーンシータンマラート県 - ナラーティワート県 - パッターニー県 - パッタルン県 - パンガー県 - プーケット県 - ヤラー県 - ラノーン県参考:チャンワット以下の都市は人口5万人以上を有し、3,000人/km²の人口密度を持つ市街地(いわゆるテーサバーンナコーン)を有する郡(アムプー)を記載する。また、以下は経済的な発展のため特殊な法律によって自治が許されている地域である。左側通行である。そのため、日本からの輸入車が数多く走っている。国内諸都市を結ぶ交通機関としては、鉄道よりも公共輸送公社によるバスの方が発達している。長距離区間では、夜行バスの運行も多い。都市交通もバンコクを除くほとんどの都市では小型トラックを改造して作ったバス(ソンテウ)が一般的である。東南アジアにおけるタクシーの典型的かつ古典的なイメージは、三輪式の自転車である。タイ語ではサムロー(三輪の意)というが、バンコクの都市部においては、交通の発達により円滑な交通の妨げになるとして乗り入れが禁止されてしまった。しかし地方においては、いまだ現役で活躍しているのを見ることができる。ほかに三輪のものとしては、エンジンのついたサムロー(トゥクトゥクとも)があり、これもバンコクの名物といってよい存在であったが、交通の発達により実用的な観点からは主役の座を降りたと言ってよい。ただし、タクシーに積みきれないような大きさのものでもトゥクトゥクなら積めたり、小回りが効き渋滞や細い道をすり抜けたりできるため重宝される場合もある。現在では、主に観光客向けの乗り物として利用されている。地方では、三輪エンジンつきのものが現在でも主たるタクシーとして利用されているが、その形状はバンコクでみられるものとは異なり、オートバイの前部に荷台をつけた、より形状の簡易なものが多い。バンコクなどの都市部におけるタクシーの主役は、エアコンディショナー付きのメータータクシーとなっており、さまざまな会社のタクシーが色とりどりのカラーリングを施したタクシーを走らせている。車種はトヨタ・カローラ アルティスや日産・サニーなどの日本車が中心である。なお、バンコク市内のタクシーは、安全性と排気ガス規制の観点から一定年数が経つと新車へ代替しなければならないこともあり、比較的きれいな車が多い。初乗り料金は35バーツで一般にトゥクトゥクより割安である。なお、バンコクにおいて乗車拒否、メーターの使用拒否は違法であるが、未だ旅行者が乗車する場合や、時間帯などによってはメーターを使わず、高めの料金を提示する運転手もいる。習慣的に乗車前に行き先を伝え、メーター使用を確認したうえで乗車したほうが良い。タイ国有鉄道による鉄道網が国内の主要都市の間を結んでいる。また隣国のマレーシアやその先のシンガポールとの間はマレー鉄道で繋がっている。さらにラオス、カンボジア国境へも鉄道路線があり、メコン川流域圏開発構想に伴い両国への延伸計画もある。日本で使用されなくなった客車が輸出され使用されている。ブルートレインは現地でも「JRクラス」と呼ばれ、割増料金が必要であるにも関わらず、高い快適性から人気がある。バンコク市内では、深刻な交通渋滞を解消するため、1999年12月5日にバンコク・スカイトレイン(BTS)と呼ばれる高架鉄道、2004年にバンコク・メトロ(MRT)と呼ばれる地下鉄が相次いで開通した。また、スワンナプーム国際空港に向かうエアポート・レール・リンクが2010年8月23日に開業し、2014年度に部分開通するレッドラインなど都市交通がとても便利になってきている。かつてバンコクは運河や水路が多く水運が発達しており、「東洋のヴェニス」と謳われたこともあったが、いまではその多くが埋め立てられて道路となってしまった。しかし、現在でもチャオプラヤー川や一部の運河では乗り合い船が数多く運行されており、慢性的な道路の交通渋滞を避けることのできる交通機関として、一定の需要がある。またタイ北部の国境を流れるメコン川では、2001年6月にタイ、ラオス、ミャンマー、中華人民共和国との間で瀾滄江−メコン川商船通航協定が結ばれ、流域各国間の通商路として利用されつつある。首都のバンコクやチェンマイ、プーケットなどの国内の主要都市の間は、半官半民のタイ国際航空や格安航空会社のタイ・エアアジアやオリエント・タイ航空、バンコク・エアウェイズなどの航空会社で結ばれている他、これらの航空会社が諸外国の主要都市との間を結んでいる。特にスワンナプーム国際空港はアジアのハブ空港の一つとして、世界中の航空会社が乗り入れる他、ヨーロッパとオーストラリアとの間を結ぶ「カンガルー・ルート」の中継地の1つとして利用されている。スワンナプーム国際空港の開港以前に使われていたドンムアン空港は、一時期国内線専用空港となっていたが、格安航空会社向けに再び国際空港としての機能を再開させた。また、クアラルンプールやシンガポールなどの東南アジアの主要都市からもバンコクへの乗り入れ便は多く、一部 チェンマイ、ハートヤイ、プーケットなどへの便もある。日本とタイ間は、札幌、東京/成田、東京/羽田、大阪、名古屋、福岡とバンコクを結ぶ定期便が就航している。日本航空と全日空、タイ国際航空といった両国の主要航空会社やデルタ航空が1日1便から数便の直行便を運行している他、香港や台北経由で行くこともできる。日本の住友商事や電源開発などの建設により火力発電所が稼働している。またタイ国家原子力技術研究所・タイ原子力平和利用事務局によって原子力発電所の建設が研究・検討されている。2010年11月22日にタイ発電公社(EGAT)が日本原子力発電と原子力発電技術協力協定を締結。タイでは2000年以降携帯電話加入者が急増し、国際電気通信連合 (ITU)によると2005年の時点で携帯電話加入者数の割合は、タイの人口100人に対して42.98人となっている。主な携帯電話事業者として、Advanced Info Service (AIS)やTotal Access Communication (DTAC)があり、この2社の携帯電話市場におけるシェアは80%を超えている。また、2002年に事業参入したTrue(当初 True Move)も着実に加入者を獲得しており、事業者間のシェア獲得競争は激しくなっている。GSM方式が主流となっており、プリペイドサービス利用者数も増加傾向にある。その一方で固定電話の事情はあまりよくない。首都バンコクではともかく、地方では一般加入電話の設置に1-2か月ほど待たされることが多い。また回線も確保が困難である上、雑音混入や混線が頻繁に起こる。このことはタイでの携帯電話普及が進む背景となっている。また日本の通信ベンチャーであるa2network社が、日本語表記の携帯電話で、日本語メールやSMSに対応したベリーモバイルというブランド名で携帯電話MVNOとして展開しており、同国長期滞在者を中心にサービスを行っている。インターネットについては、かつてはタイ通信公社(CAT)がインターネット接続事業者の株式の提供を受けてISP免許を交付する形で、事実上市場を独占・支配していたが、1997年の世界貿易機関 (WTO) 基本電気通信交渉における合意に基づいて、2005年にタイのインターネット市場が正式に自由化された。現在では多くの事業者が市場に参入している。バンコクにはインターネットカフェが多数あり、その多くでは日本語に対応している。また都市部のホテルや空港では無線LANが充実している。そのうえ、近年ではブロードバンド整備が進められており、都市部ではADSLサービスが普及しつつあるが、回線が混雑することが多く速度は遅い。また地方でのインターネット接続環境の整備は遅れており、都市部、特に首都バンコクとの格差は大きい。情報技術・通信省(MICT)は不敬罪、反逆罪に抵触する可能性のあるものや、ポルノサイトなどを遮断することがあり、タイではインターネット上の表現の自由が事実上規制・制限されているといえる。なお、ほとんどがポルノサイトであるが、タイのインターネットにおける表現の自由を訴える民間機関FACTは、2006年の軍事クーデター以降、MICTの遮断したサイト数が急激に増えていることを指摘している。2010年8月にはウィキリークスへのアクセス制限を開始した。公式には非常事態令を根拠としているが詳細は不明。タイ族75%、華人14%、その他マレー系、インド系、モン族、カレン族などがいる。タイで話されている主な言語として、タイ語、北タイ語、南タイ語、イーサーン語、閩南語(潮州語)、クメール語()、ジャウィ語がある。1962年以降は名字法や名称に関連したすべての法律を廃止して仏暦2505年個人名法が成立した。名の付けるときは国王の名前と類似したものや下賜されたことのないラーチャティンナナーム、意味のない単語、10音節以上を持つ語などを用いる以外、自由に名前を付けることが許されている。姓に関しては、以前は結婚により夫の姓を名乗ることが義務付けられていたが、2004年にタイの憲法裁判所から「夫の姓を名乗るとする条項は違憲である」違憲判決がなされた。その後2005年に個人名法の12条が改正され、結婚した組の姓について「男性の姓を名乗る」、「女性の姓を名乗る」、「新たに名字を作成する」、「それぞれ自らの姓を名乗る(夫婦別姓)」の方法が認められている。仏教(南方上座部仏教)95%、イスラム教4%、キリスト教、他にヒンドゥー教、シーク教、道教など。王室を始め、タイ国内のほとんどは仏教徒で占められている。そのほとんどは上座部仏教であり、それにヒンドゥー教や、精霊信仰を加味した独特の仏教になっている。紀年法は西暦も併用されているが、現在もタイ仏暦(仏滅紀元、タイ暦)が主に使用されている。上座部仏教徒の男子は一生に一度は出家するものとされている。南部やバンコク、チェンマイ、チェンラーイなどの地域ではムスリムも見ることができる。特に深南部三県のマレー系住民のほぼすべてがイスラム教徒である。中部のチャンタブリー県やバンコクなどには、コーチシナのカトリック禁制によって19世紀初頭やベトナム戦争時に逃れてきたベトナム人グループを中心にキリスト教徒も多い。古くからのタイの大きな経済問題として違法産業などが上げられる(参考:タイの違法産業、タイの出稼ぎ産業)。この違法産業の原因は国民全体の貧富の差が激しいためと見られたこともあり、これに対して1960年代頃よりタイ政府は「貧困の撲滅」に力を入れ始めた。これを受け、特に教育の分野において、1970年代初め頃から急激に改善が進められ、識字率は1995年の時点で95%を超え、アジアの中でも特に識字率が高い日本やシンガポールなどと並び、世界的に高度な水準を誇っている。タイの教育制度は6年間の初等学校、3年間の前期中等学校、3年間の後期中等学校となっている。なお、義務教育は前期中等学校までの9年間である。経済の急成長を背景に近年では高等教育への進学率が高まっており、2003年には大学進学率が35.8%(教育省教育委員会の統計)になるなど、東南アジア諸国においても高い率を誇る。なお、通信教育による高等教育も盛んである。平和な国と言われることもあるが、タイ国家警察の「タイ国犯罪統計2010年」によると、殺人事件(未遂含む)の発生件数が8,932件、強盗(傷害を伴う窃盗含む)の発生件数が758件、強姦事件の発生件数が4,255件となっており、性犯罪は米国と同等規模、アイスランドやイギリスよりは少ない。2007年〜2010年の世界平和度指数では、調査対象の149ヵ国の中で124位と低い評価を受けており、平和度が低い国とされる。観光客の犯罪被害状況は多種多様であり、集団スリ、抱きつきスリ、置き引き、長距離バスでの盗難、睡眠薬強盗などがある。タイ保健省によると、タイ国内で報告があったエイズ患者は1984年9月から2011年11月で累計37万6690人であり、死者は9万8721人。HIV感染者は推定100万人以上に上るとみられている。これは同性愛者が避妊具をつけないことなどが問題などとも言われることがある。礼儀作法の多くは国法で規定されている。挨拶をするときには、ワイと呼ばれる合掌をする。タイでは今も階級が細かく分かれており(タイの階級も参照)、階級以外にも相手との関係などによって異なった種類のワイの作法が求められる。また、ヒンドゥー色の強い様々な風習や礼儀作法が存在する。寺院に入る際、肌の露出が高い服は拝観を拒否される。女性が僧侶の身体に触るのは禁忌である。毎日、8時と18時の2回、バンコク中心部のフワランポーン駅やBTS等公共機関などでは、国旗掲揚・降納と同時に国歌がスピーカーから流される。国歌が流れる間は、その場にて脱帽し直立不動の体勢をとらねばならない。そうしなかった場合、不敬罪に問われ警察官に逮捕される場合がある。また、チャクリー王朝(タイ王室)に対する国民の尊崇の念は非常に高い。王室批判等をすると同じく不敬罪に問われることがある(タイの国歌・タイの王室歌も参照)。また、映画作品の上映の前には『王室賛歌』が上映される。この時も脱帽の上直立不動の姿勢を取らないと、不敬罪に問われることがある。トムヤムクンやパッタイなどのタイ料理は、先進国を中心に世界的にポピュラーなものとなっている。そのスパイシーかつバラエティに富む味と健康的な素材は日本や欧米諸国を始めとする多くの国で高い人気を得て、特に北米、ヨーロッパにおいては1960年代、1970年代頃から1990年代にかけて急速にタイ料理店の出店が進んだことが研究者により報告されている。また、タクシン前首相により、「Kitchen of the World」プロジェクトが開始され、タイ料理店の国際展開を推進されている。日本ではブームになった1990年代以降、人気外国料理の定番となっており、都市部を中心にタイ料理レストランが多く存在する他、「ゲウチャイ」や「ジャイタイ」、「コカレストラン」などのチェーン店の展開や、多くのスーパーマーケットでタイ料理の素材が販売されている。タイ国内には都市部を中心に非常に沢山の屋台があり、どこにでもみられる一人分5バーツ程度の菓子類や麺類などの軽食から、また場所によってはツバメの巣やフカヒレスープなどの高級料理まで、様々な味を楽しむことができる。タイへのリピーター観光客の中にはこの屋台での食事を楽しみにしている人が多いが、路上で営業するという事情から必ずしも衛生的と言い切れない面もあり、慣れない人は食あたりを起こす場合もあるとされる。デパートには必ずと言っていいほどフードコート(食券式のセルフサービス食堂)が併設されている。高級ブランドのブティックばかりが入居する非常にしゃれたデパートにもフードコートはある。屋台よりは若干割高だがそれでも30バーツ程度から食事をすることができ、衛生的にも屋台よりは安心できる印象を与える店も多い。熱帯気候に属するタイは果物の種類も豊富であり、また美味である。特にタイで最も暑い時期とされる4月は、ドリアン、マンゴーなどが市場に出揃う。この季節をタイ人は「ドリアンの季節」や「マンゴーの季節」とさえ呼んでいる。タイでは、日本料理がブームとなり、国内に600店以上の日本料理店があるという。市場規模は50億バーツ強。ブームの背景には、「日本の食材=身体に良い」という日本料理への良いイメージが関係しているという。食材としてはワサビが人気。これについては、辛いものが好きなタイ人にとってワサビは日本料理を自分たち好みの味にしてくれるから、という指摘がある。タイ文学に於いては上座部仏教の「業」の思想が長らく主題とされ、また、釈迦の前世譚であるパーリ語経典『ジャータカ』が中世以来人気を集めてきたタタ・ヤンやパーミーなどの歌手は日本でもCDをリリースしオリコンの上位にランクされるなどヒットしている。近年はタイで制作された映画が日本へ輸出されることが多く、2000年以降2006年までに日本で公開されたタイ映画は25作品を数える。「アタック・ナンバーハーフ」や「マッハ!!!!!!!!」などのタイ映画が全国で公開され若者を中心にヒットした。特撮映画では円谷プロダクションの合作、「ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団」や「ジャンボーグA&ジャイアント」などが有名。「ハヌマーンと5人の仮面ライダー」も有名な作品である。タイ王国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が2件存在する。祝祭日は以下の通りである。土曜日または日曜日と祝祭日が重なった場合、翌日以降で最初の平日は振替休日となる。なお、タイの紀年法について西暦も併用されているが、ラーマ6世によって1912年に導入された仏滅紀元(仏暦)が主に使用されている。導入された当初は太陰暦であったが、仏滅紀元2483年(1940年)にその年が9月でうち切られ、グレゴリオ暦(太陽暦)との誤差が修正されたため、現在は西暦との間で日にちのずれがない。国技のムエタイはスポーツとしての勝敗だけではなくに賭けとしての関心も高い。総合格闘技の興行はムエタイのイメージを損ない、1999年ボクシング法に触れるものとして、2012年3月27日以降は開催を禁止されている(同法施行に則って世界プロムエタイ連盟創立された)。一方、プロレス興行についてはWWEなど国外の団体が興行を打っていたが、2012年には日本出身のさくらえみが中心たる我闘雲舞、オーストラリア出身のTNTが中心たるTWFとともに国内を拠点とする二つの団体が相次いで旗揚げされた。タイ王国においてボクシングもまた人気の高いスポーツのひとつ。世界最大の団体であるWBCの直系ABCOの本部が首都バンコクに置かれている。他にセパタクローやサッカー(タイ・プレミアリーグ)も盛んであり、元ヴァンフォーレ甲府の青山直晃らJリーガーが多く所属している。また、夕方の公園などではエアロビクスやバドミントンなどに興じる市民をみる事ができる。また、モーターリゼーションが進みつつある近年は、パタヤなどに本格的なサーキットが建設され、自動車やオートバイレースなどのモータースポーツが盛んになってきている。古くはアジア人初のF1ドライバーであり、世界的に著名なレーシングドライバーであるプリンス・ビラの出身国でもある。

出典:wikipedia

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