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きたぐに (列車)

きたぐには、大阪駅 - 新潟駅間を東海道本線・北陸本線・信越本線経由で運転していた夜行急行列車である。本項では京阪神と信越地方を北陸本線経由で運転されていた夜行優等列車の沿革についても記す。当初は日本国有鉄道(国鉄)によって運転され、1987年4月1日の国鉄分割民営化以降は西日本旅客鉄道(JR西日本)と東日本旅客鉄道(JR東日本)の2社にまたがる運転となった。1947年に大阪駅 - 青森駅間で運転を再開した急行507・508列車が「きたぐに」のルーツである。この急行は1950年11月8日に「日本海」の列車名が与えられたが、1968年10月1日から運転を開始した大阪駅 - 青森駅間の寝台特急(ブルートレイン)に「日本海」の名称が使用されるようになったため、大阪駅 - 新潟駅間の急行列車は「日本海」から「きたぐに」に改称された。1982年に上越新幹線が開業したことに伴い、昼行列車としての側面が大きかった新潟駅以北を特急「いなほ」として分離し、大阪駅 - 新潟駅間の夜行急行列車となった。利用者の減少を理由として、2012年3月17日のダイヤ改正で定期列車としての運転を終了した。同年4月以降は繁忙期に臨時列車として2012年-2013年の年末年始まで設定され、その後使用車両である583系電車の老朽化を理由に運行が廃止されることとなった。愛称の「きたぐに」は北陸地方を指す北国(ほっこく)の訓読みとされている。583系のヘッドマークでは列車名と「佐渡おけさを踊る人と北陸地方の地図」が表示されている。定期列車時代は米原駅経由での運転であり、新潟行きの新津駅 - 新潟駅間は快速列車として運転された。大阪・京都方面と北陸本線を直通する優等列車の中では、ほかの列車が湖西線経由での運転である中、この列車は米原駅経由で運転される最後の列車となっていた。山科駅 - 近江塩津駅間が経路特定区間であるため、運賃・料金は湖西線経由で計算された(湖西線#乗車制度の特例を参照)。冬季は日本海沿岸を走る一部区間において強風や雪害の被害に遭いやすく、運休や大幅な遅延が発生する場合があった。車掌は、全区間をJR西日本の大阪車掌区が担当していた。2012年3月のダイヤ改正による臨時化後は運転経路が従来の米原駅経由から湖西線経由に変更されるとともに、下り列車の新津駅 → 新潟駅間で実施していた快速列車化も廃止され、全区間が急行列車としての運転に変更された。列車ダイヤは大阪駅発着時刻は変わらないものの、下り列車の新潟駅到着時刻は大幅に繰り上がって6時54分着となった。定期「きたぐに」廃止の影響として、大阪から北陸方面への最終列車が約2時間半繰り上がって「サンダーバード」45号になったことで、列車利用を前提とした大阪での夜遅くまでの滞在および北陸方面への深夜移動が不可能となった。この件についてJR西日本金沢支社は「申し訳ないが、利用客の低迷で採算が合わない」と理解を求めている。京都総合運転所(のちの吹田総合車両所京都支所)に所属する583系電車が使用され、1994年12月3日に「はくつる」の定期列車が24系客車に変更されて以来、583系電車が定期列車として運用に充当される唯一の列車であった。列車は普通車自由席、グリーン車指定席と、A寝台車およびB寝台車が連結された10両編成で運転されたが、多客期にはB寝台車が2両増結されて12両編成で運転された。A寝台は開放式2段、B寝台は開放式3段である。1973年10月1日から、大阪駅 - 青森駅間の普通座席車に12系客車を使用するようになった。しかし12系客車にはグリーン車がないことから、一般形客車であるスロフ62形が主に連結されていた。また、大阪駅 - 新潟駅間に連結した寝台車は10系寝台車のままで、新潟駅で増解結が行われていた。1978年に一般形客車のグリーン車の連結を終了し、1982年に14系客車化して座席車と寝台車の混結を実施。1985年3月14日から583系電車に変更されている。かつてはサロンとテーブルが設置されているグリーン車(サロ581形100番台)が組み込まれ運用されていたが、2010年までに廃車され、現存しない。2012年の臨時化後はグリーン車指定席1両とB寝台車6両のみとなり、A寝台と自由席の設定は無くなった。これにより、かつての583系電車を使用する寝台特急と同様、1両のグリーン車を除き全車寝台という編成になったが、「寝台急行」としては扱われておらず、時刻表に「寝台急行」のマークも表記されていない。定期列車時代は、乗車券のほかには割安な急行券のみで長距離を利用できるため、時には自由席が非常に混みあって繁忙期には全区間着席できない場合や、寝台券・グリーン券の売り切れも生じた。グリーン車や寝台車は高速バスにはない快適性を求める長距離客の利用が中心である一方、自由席においては大阪発新潟行では彦根駅・米原駅・長浜駅・福井県方面への最終列車として、通勤需要にも利用されていた。新潟県内では、直江津駅で北越急行ほくほく線の始発列車となる快速越後湯沢行に接続し、長岡駅では上越新幹線に接続し、北陸方面から上越新幹線上り東京行き列車に連絡するため、新潟県内での上越新幹線への乗り換えには信越本線経由とほくほく線経由の2通りのルートが利用可能であった。富山駅では、富山地方鉄道の立山方面の始発列車に乗り継いで立山黒部アルペンルートに向かう利用客や、夏場には富山駅から折立登山口への直行バスに乗車するために利用する登山客なども多くみられた。冬場には、少数であるが南小谷・白馬方面や、妙高高原方面へのスキー客にも利用されていた。新潟県内では朝ラッシュ時間帯に新潟駅に到着するため、長岡駅から通勤需要が活性化しビジネス客などで増え始め、快速列車となる新津駅からは通勤・通学客の利用が多かった。また用務客にとっても便利な上に、自動車利用では新潟市街地の渋滞遅延が発生しやすい時間帯に新潟駅に到着するために直江津駅や柏崎駅からの乗車客も多かった。快速区間の新津駅と亀田駅から乗車できるのは普通車自由席の4両のみで、グリーン車・寝台車には乗車不可であった。新潟発大阪行は長岡駅で東京発新潟行の最終「Maxとき」353号から接続し、北陸方面への最終列車となっていた。また上越新幹線の利用客だけでなく新潟市から長岡市・柏崎市などへ帰宅する用務客の利用も多かった。さらに新潟方面以外でも、京都駅・大阪駅へ早朝に到着できるため、北陸地方からの関西国際空港利用客にも早出の便として利用されていた。京都駅では同一ホームにて草津発関西空港行特急「はるか」と接続した。しかし、JR西日本によると乗客数はJR発足時の1987年と比較して2010年代では約半分に減少しており、2010年度の平均乗車人数(1本当たり)は約120人であった。定期列車廃止間近の乗車率は約3割であった。乗客は大阪-敦賀間と直江津-新潟間に集中するようになり、夜行列車としてはさほど利用されなくなったものと推測される。国鉄時代では、1971年10月1日から1972年夏まで、大阪駅 - 富山駅 - 直江津駅 - 長野駅 - 松本駅 - 名古屋駅 - 大阪駅間で「アルペン」が運転されていた。「アルペン」は、直江津駅を境に夜行列車として運行され、北陸本線を先に経由する列車を1号とし、中央本線を先に経由する列車を2号として1往復が運転されていた。国鉄分割民営化後は、JR西日本が冬季において京阪神地区から信州方面へのスキー客の獲得を目指すために、1987年度から「シュプール号」の運転が行われ、翌年度以降も実施された。夏季は「シュプール号」の運転に対して、立山黒部アルペンルートや長野県方面への登山やトレッキングのアクセスとして、1988年の夏から「リゾート'88白馬」「リゾート'88信越」などの夜行列車が、1997年度冬期には長野オリンピックが開催されたことから、「白馬・栂池」が姫路駅 - 白馬駅間(北陸本線経由)でキハ181系7両編成で1往復運転されていた。2001年の夏には大阪駅 - 信濃大町駅間で、往路は夜行の「リゾート白馬アルプス」として、復路は昼行の「リゾート白馬アルプス」として1往復が、2002年の夏には夜行列車として「信州トレッキング号」などが大阪駅 - 妙高高原駅間で運転されていた。

出典:wikipedia

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