『ドラえもん』は、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』を原作とする日本テレビ動画制作のテレビアニメである。『ドラえもん』のアニメには以下の3作品が存在する。これらを区別する呼称は公式には発表されていないが、アニメ誌では2005年4月より放送中のシリーズを『ドラえもん(新・第2期)』としている。ウィキペディアではそれにならい、1973年に放送されたシリーズを第1作、1979年より放送されているシリーズをまとめて第2作とする。また第2作において、1979年から2005年3月まで放送されたシリーズを第1期、2005年4月から放送中のシリーズを第2期とする。本記事では第1作について記述する。ファンからは、その後放送されたテレビアニメと区別するために「旧ドラ」「日テレ(NTV)版ドラえもん」「日本テレビ版ドラえもん」などと呼ばれることがある。本作は日本テレビ動画の渡邊清(別名・新倉雅美)らによって企画が立ち上げられた。渡邊は当初、硬派任侠物の『少年次郎長三国志』のアニメ化を切望したが、企画が頓挫。つなぎ番組として本作が放映されることになった経緯がある。一方、当時『小学二年生』編集長だった小学館の井川浩は、新潟のアニメ制作会社が制作するテレビアニメの原作を推薦するよう日本テレビのプロデューサーから頼まれて人気の高かった『ドラえもん』と『かあさん星』(谷ゆきこ作)を推薦したことを証言しているほか、日本テレビプロデューサーだった川口晴年は、チーフプロデューサーの藤井賢祐が企画を提出した後に、読売新聞から派遣された専務が会議で日本テレビ動画で制作することを有無を言わさない形で決めたと証言している。1972年に手塚プロダクションを退社した真佐美ジュン(本作では本名の「下崎闊」名義で参加)は、日本テレビ動画制作のテレビアニメ『モンシェリCoCo』を手伝った(ただし、真佐美は製作側との金銭的トラブルにより放映当初に制作主任を降板している)。真佐美によると日本テレビ動画では『モンシェリCoCo』の後作品として企画の1つに『ドラえもん』があり、1972年7月以前には『ドラえもん』の企画が既に存在していたという。『ドラえもん』に企画が絞られた頃、中野サンプラザ近くの高級焼肉店で、同社日本テレビ版ドラえもんの制作担当を日本テレビ動画の佐々木一雄プロデューサーに依頼された。真佐美は原作を初めて見た際、子供たちに夢を与える内容で、真佐美はアニメの世界に入ってから常に「子供に夢のある作品を」という精神があった。真佐美と佐々木は「今後このスタジオから、将来のアニメ界を背負っていくような人材を育てていこう」と将来の夢を語り合い、快く協力することを約束。1972年11月に日本テレビ動画へ入社した。真佐美が演出を担当したパイロットフィルムのメインとなるヘリトンボで空を飛べるという、夢のシーンの紹介では、作画スタッフらも童心に返って一生懸命昼夜を問わず作り上げたシーンだったと述べている。真佐美ジュンは、「当時『ドラえもん』をアニメ化するのは凄い冒険で、今でこそ国民的漫画だが、当時は単行本も出てないので、子供でも『ドラえもん』を読んでるのは学年誌を買ってもらってる一部の子供だけ。他の週刊漫画のアニメ化とはわけが違う」と述べている。メインスタッフには旧虫プロダクション出身のメンバーが集い、アニメ制作は日本テレビ動画の東京および新潟スタジオと、幾つかのグロス請けスタジオがローテーションを組んでスタートした。チーフディレクターは上梨満雄であった。上梨を選んだ真佐美ジュンは、その理由として「一人の演出家が全体の流れを統一したほうが原作者の意向を反映出来るため。そして全体を任せられて、若手で力のある演出家を選びたかったから」と述べている。しかし実際には原作者からの注文や要望はほとんどなかったとされ、上梨も最後まで原作者と会うことはなかった。当初、ドラえもんの声は富田耕生が担当した。現在放送中のアニメ第2作とはイメージが異なるが、当時のスタッフは、ドラえもんというキャラクターに「世話好きなおじさん」というイメージを抱いていたことから、動物役なども多く演じていた富田に初めから配役するよう決めていたという。現在放送中のアニメ第2作に比較して、色指定のコントラストは穏やかであった。これは、1973年当時のアニメの多くが一度35mmネガフィルムで撮影し、その後、16mmポジフィルムに転写してテレシネスコープで放映するという物だったのに対し、本作は直接16mmフィルムで撮影していたことにも起因する。キャラクターの声を担当した野沢雅子や肝付兼太は本作をモノクロ作品だと記憶しているが、実際にはカラー作品である。1973年4月1日、事前に制作されていたパイロットフィルムを流用し再構成した「出た!ドラえもんの巻」を第1話として放映が開始された 。半年間という当時としては比較的短期間の放送であったため、「不人気で打ち切り」という噂が一般化していたが、実際には元々2クールの放送契約であった。低学年向けの雑誌に掲載された作品はページ数が少ない上にストーリー性が薄く、アニメ化すると尺が余ってしまうため、原作を元にしつつアニメオリジナルの要素を随所に入れていき、放送後半にはオリジナル要素がかなり増えたという。当時は原作漫画の連載が開始されてから3年程度で、原作のストックも少なくすぐに使い終わり、放送が継続されていたとしたらオリジナルストーリー主体になっただろうと真佐美ジュンは証言している。なお、原作不足のためテレビ用に書き起こしたオリジナル設定は原作者の承諾済みであったとされる。小学生向けの原作で製作された本作は、対象年齢が低かったこともあり、当初は視聴率で苦戦したとされる。番組は2クールの契約であったが、ある程度の視聴率が確保出来ればその後も継続するという契約であった。1クール終了間際に制作会議が招集され、日本テレビ側は視聴率10%を超えれば放送を継続するとした。真佐美ジュンによると、放送2クール目に入ると、『小学五年生』、『小学六年生』での連載が開始されたこともあり、原作では数回しか登場せず、作者自ら公式に存在を「なかったこと」にしたアヒル型ロボット「ガチャ子」をレギュラー入りさせるなどスラップスティック要素を強調したという。また、番組の対象年齢の引き上げと「世話好きなおじさん」然としたドラえもんの年齢イメージを下げることを目的に、ドラえもんの声を担当していた富田耕生を降板させ、2代目となる野沢雅子に交代するなどのテコ入れを図った。これらのテコ入れの甲斐があもあり、徐々に視聴率も上がっていたと真佐美ジュンは述べている。当時の制作スタッフは音声まで入った完成フィルムを惜しげもなく全面リテイクするなど、クオリティの向上には常に真摯に取り組んでいたという。収益自体も黒字で、スタッフらは、千葉県房総半島にある日本テレビの保養所に招かれ豪華な接待を受け、3クール目に延長する予定もあったという。「後半上昇した」とされていた視聴率について、安藤健二が初回放映時の関東地区におけるビデオリサーチのデータを調査した結果では、序盤の第1回、6回、8回で10%近い数値を記録した後、第11回から16回までが5 - 6%前後と低迷、その後第20回前後に上昇に転じるものの序盤の水準に届いた程度で、25回までは再び下落し、最終回で少し上がったものの、全26回で最高が9.1%と一度も10%を超えることはなく、平均が6.6%であった。主演声優が交代した前半と後半を比較すると、前半の平均7.2%に対して後半は6.6%と従来の説とは反対に後半の方が低く、安藤は声優交代は「裏目に出たようだ」と評している。2クール終了間際の1973年8月中旬、日本テレビ動画の実質的経営者(社長と自称)だった渡邊清(新倉雅美)が突然失踪した。真佐美ジュンによると、渡邊が失踪する直前に日本テレビのプロデューサーから「日本テレビ動画が消滅するという話が下請から出ている。それが本当なら下請側は死活問題なので、入金の保証があるまで納品しないという状況になっている。その話は本当か?」と聞かれ、真佐美は否定したが「絶対に放送に穴はあけないでくれ」と釘を刺されたという。真佐美は下請側に対しても「もし何かあったら俺が責任を取る」と説得しに回ったという。その後、経営を引き継いだ同社の会長(登記上の代表取締役だった、新潟総合テレビ役員の稲庭左武郎を指すとみられる)はアニメ会社の経営に無関心な人物で、「もう止めよう」の一言で会社は解散したと真佐美ジュンは述べている。解散について、真佐美ジュンは前身の東京テレビ動画時代からの赤字を本作で得た収益で補填できたことに加え、「その前にいろんなことをやられて懲り」た稲庭が、渡邊の失踪を機に「少しでも赤字が埋まったところで」解散したと述べている。一方美術監督の川本征平は渡邊の失踪の理由を「次回作が決まらずに資金ショートしたからではないか」と安藤健二の取材に答えている。会社の解散という混乱の中、同年9月30日放送の「さようならドラえもんの巻」を作り上げ最終話とし、半年で終了となった。最終回は自転車が漕げなかったのび太が泣きながら自転車を漕ぐ練習をする姿を、未来の世界に帰ったドラえもんがタイムテレビで見守るところで物語が終わる。最終回ラストのアイキャッチは「次回もお楽しみに」として終了させており、これは制作主任の真佐美による演出であった。これを疑問に思った制作進行の木沢富士夫に、真佐美は「こんな形で日本テレビ動画のドラえもんは終わってしまったがスタッフのみんなは、まだ続けたかった。もう一度日本テレビ動画で同じスタッフと一緒に『ドラえもん』の続編を製作したい思いを込め“次回をおたのしみ“にしたんだ」と意図を明かしている。また番組最後の「おわり」のカットでドラえもんの丸い手から黄色い小鳥が飛び立っていくシーンがあり、これにも続編製作の希望として「再会」の意味が込められている。その後、残された旧作スタッフは債権処理などに追われ、ついに日本テレビ動画が再建されることはなかった。しかし、6年後に他局他社ではあるものの現在のテレビ朝日版によって「続編」は実現し、旧作を考慮したのかテレビ朝日版の第1話は「未来の国からはるばると」という原作第1話のエピソードを避け、通常のエピソードの1本である『ゆめの町ノビタランド』とした。これが普通に本編から始まっている所からも、まるで第1作の続編を意識したかのような形がとられ、両者の間で受け渡しがあったかのような構図になっている。残された日本テレビ動画のスタッフらは、グロス請け先の支払い金を充てるために会社の備品など売れるものは全て売り払い、社屋引き払いのため本作に関する資料やセル画のほとんどを止むを得ず廃棄処分したという。しかし、実際には、川本征平のように全く支払われなかった外注スタッフもおり、川本は日本テレビのプロデューサーに「制作費は既に日本テレビ動画に支払っているから、これ以上は払えない」と言われたという。また、川本によると少なくとも日本テレビ動画が外注したアトリエローク(川本が主催)とスタジオじゃっくには最終2話分のギャラが未だに支払われていない。この件に関して「私の後任のプロデューサーは局と外注スタッフとの板ばさみになって非常に苦労された」という企画当初のプロデューサーである川口晴年の証言も存在する。真佐美ジュンは最終回が放映された9月30日の夜、日本テレビ動画の解散に伴う社屋引き払いのためセル画や絵コンテなどの制作資料を、浦和市(現・さいたま市)内の荒川河川敷で止むを得ず焼却処分したと証言している。このような理由から、結果的に本作の資料は当時のスタッフが個人的に所有している一部のものを除いて、ほぼ現存しないとみられている。様々な想いを馳せたライトバン一杯に詰まったセル画、せりふ台本、絵コンテ、カット表、シナリオ原本、色見本、色指定キャラクター集、現金出納帳が目の前で燃えていったことを、真佐美は「わが子を荼毘に付す気持ちでした」と、当時置かれた心境を回想している。放送終了後も藤子・F・不二雄は後述する作品内容への評価とは別に、個々のスタッフの姿勢に対しては好意的であり、真佐美が放送終了後に藤子本人に会いに行った際には「是非またやろうよ」と言って握手してもらったと述べている。日本テレビ動画解散後、元スタッフらは田無市西原のアパートに日本テレビ動画の労働組合を作り、失業保険を受け取りながら管財人との交渉の拠点としていた。その後、元スタッフらは就職先が決まったり、仕事を廃業して田舎に帰ったりしていたので、日本テレビ動画の労働組合は1975年3月に活動を終結した。本作のフィルムは放送終了後も日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されることもあった。再放送はテレビ朝日系でアニメ第2作の放送が開始される1979年までの5年余りの間に、日本テレビ平日朝の再放送枠『おーい!まんがだヨー』(関東ローカル)をはじめ、地方局などで比較的多く行われていた。フィルムは日本テレビでの管理期間終了後、散逸して行方不明になっていたと思われていたが、安藤健二の調査により1995年にIMAGICAが横浜工場を閉鎖する際の在庫整理で後半16話分のネガフィルムが発見され、保管されていることが判明した。ただし、日本テレビ動画の著作権の引継ぎ手が不明なため、宙に浮いた状態となっている(現存状況については後述)。編成上、日曜夜7時枠は日本テレビ制作枠から読売テレビ制作枠に切り替えられ、元々月曜夜7時半に放送されていた「全日本歌謡選手権」が移動、空いた月曜夜7時半枠は一旦日本テレビ制作枠に変更し、木曜夜7時半に放送していた「ほんものは誰だ?!」が移動した。木曜夜7時半枠は夜8時に放送していた「木曜スペシャル」を枠拡大するように変更された。なお日曜夜7時枠でアニメが放送されたのは、1968年4月7日から1969年9月まで放送された「ディズニーランド」以来だが、「ディズニーランド」は「海外作品」、「1時間番組」、「実写と併用」であったため、「国産」、「30分作品」、「オールアニメ」は「ドラえもん」が開局以来初めてであった。その後同枠では1989年に「シティーハンター3」、1991年に「シティーハンター'91」がそれぞれ放送されるが、いずれも読売テレビ制作作品であるため、日本テレビ制作作品は「ドラえもん」が唯一となった。本作の声優を担当した声優の一部は、シンエイ版にも主要人物を演じており、太田淑子はのび太からセワシ、小原乃梨子はのび太のママからのび太、肝付兼太はジャイアンからスネ夫。我成先生(のび太のクラス担任)を担当した加藤治は同じく先生を担当していた時期がある。劇場版では、富田耕生は『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』においてポセイドンを演じているほか、野沢雅子は『ドラえもん のび太の宇宙漂流記』でログを、『ドラえもん のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜』で少年のび助を演じた。また1983年の(シンエイ版)実写アニメ合成の特別番組『ドラえもん・ヨーロッパ鉄道の旅』では、しゃべるひみつ道具キャラクター「なんでもナレーター」の声として登場している。また、野沢はシンエイ版のテーマ曲「ドラえもんのうた」「ドラえもん音頭」のキングレコード版カバー音源にてドラえもんの声を担当した(初出は1980年発売の2枚組オムニバスLP『最新アニメ主題歌ベスト28』K13A-71/2である)。現在では再放送はもとより、テレビ番組などで紹介されることはほとんどない(まれに紹介されても詳しい説明は全くない)。その理由と経緯については、安藤健二の著書『封印作品の憂鬱』において小学館関係者などの証言が詳しく述べられている。原作者の藤子・F・不二雄は本作の内容に否定的であったとされる(雑誌やムック本などのドラえもんの年表にも本作のことが掲載されていないケースが多い)。このアニメ化は、前記のように日本テレビのプロデューサーからの小学館への申し入れによって決まったとされ、当初藤子・F・不二雄は日本テレビから寄せられた依頼に応じて舞台となる街や野比家の設定に使う絵を制作会社に送ったりしたが、それに対する反応がまったくなかったと前記の井川浩は述べている。その一方で、制作主任であった真佐美ジュンによると、藤子・F・不二雄との打ち合わせに関しては、当初は真佐美が喫茶店で当たっていたと証言しており、「原作者からの注文や要望は最後までなかった」と述べている。その後、藤子・F・不二雄は次第に仕事の都合から出向いてまで打ち合わせを行える暇がなくなり、その際には当時藤子・F・不二雄と共に「藤子不二雄」として活動していたため、名義上は本作の原作者の一人だった藤子不二雄と校正などの打ち合わせをしたという。藤子・F・不二雄とのパイプ役には文芸担当の徳丸正夫が「演出的センスを持っていて人当たりがよく辛抱強い」という理由から「原作者との校閲係」に選ばれ、藤子・F・不二雄との「脚本」「絵コンテ」「キャラクター設定」「色指定の校閲」のパイプ役として打ち合わせにあたっていたという。徳丸正夫は打ち合わせをするため、24時間スタジオ・ゼロに待機して、空いた時間を使って藤子・F・不二雄と常に校閲を行っていたという。これらの点は、井川浩ら「原作者や小学館とは没交渉のままアニメ制作が進められた」という小学館関係者の証言とは大きく食い違っている。放映中に制作会社が突然解散したことで残されたスタッフは債権処理などに追われた。そのためか「番組が打ち切られた報せが小学館に来なかった」と、井川浩は述べている。当時の漫画界では「アニメが終わったら原作も終わる」というのが常識であり、そのため『ドラえもん』も一時は連載を終わらせ新キャラクターと入れ替えようという話が小学館から出ていたという。自作『ドラえもん』に愛着のあった藤子・F・不二雄は、それを押し切る形で新連載である『みきおとミキオ』との2本立ての形で連載を続行したが、1974年より刊行が始まった『ドラえもん』の単行本が予想外の大ヒットとなったため、『みきおとミキオ』の連載は1年で打ち切られた。1979年、アニメ第2作1期が放送が開始された頃、7月から8月にかけて藤子・F・不二雄の故郷でもある富山県の富山テレビ(フジテレビ系列)で本作が再放送されたが、9回目の放送で打ち切られた。元小学館専務の赤座登はこの件について、富山県での再放送の情報が小学館や藤子スタジオに入った時、藤子・F・不二雄は憤慨し、「私が作った原作のイメージと違うし、放送してほしくない。できたら何とかしてほしい」と述べ、これを受けて小学館と藤子スタジオは日本テレビ版の契約書がない(作成していなかった)ことを確認し、「口頭契約は最初の放映の許諾にとどまる」という弁護士の見解を得てから、原作者の意向に沿って、小学館と藤子スタジオの連名で、放送中止を求める警告状を内容証明郵便で富山テレビに送ったと証言している。一方、テレビ朝日元編成担当の高橋浩は自著『視聴率15%を保証します!』(小学館、2014年)の中で「せっかく放送開始したのに日本テレビの旧作『ドラえもん』が再放送されると子どもたちが混乱してしまう恐れがあるので小学館に旧作を封印してもらいました」と証言しており、赤座証言の「藤子・F・不二雄本人が再放送に激怒して放送中止を依頼した」という内容と真っ向から食い違うなど、依然として情報が錯綜している。小学館プロダクション関係者は安藤の取材に「"仮に『日テレ版』の露出があったところで(中略)現行の『ドラえもん』のイメージを損ねるマイナス露出でしかないんですよ。原作者や権利者サイドに特にメリットがないため、露出に向けて積極的に動くことはないでしょうね。基本的には触れてはいけないものという感じです"」と述べ、安藤は「今のテレビ朝日版のイメージが唯一のもので、それ以外のものを出す必要はない」という「ビジネスの論理」の存在を指摘している。また、それ以外の「封印」理由に「制作会社の解散から著作権の扱いが曖昧」のうえ「当時の資料が乏しいため公式でも内容を取り扱いにくい」という問題がある。 藤子プロおよび小学館が監修発刊したムック『ドラえ本3』(小学館、2000年)には写真入りで本作がわずかに解説されており、「原作のイメージと違っていて半年で終了した幻の番組」と紹介されている。こうした公式サイドによる否定的な見解の慣例化や、雑な偽物のセル画が出回る上、誤った情報や事実無根のデマ、資料の焼却、フィルムの散逸などから情報、露出の非常に乏しい作品となっていた。2000年代に入って元スタッフの真佐美ジュンが自らのWEBサイト上で正確な情報を公開するまでは誤った情報が公式に伝わっており、チーフディレクターが上梨満雄でなく大貫信夫とされていた。なおスタッフ情報が間違って伝わっていた理由に日本テレビ動画が解散して当時のスタッフや状況の調査が困難になった末、1978年に杉山卓(元・虫プロダクション)が執筆した『テレビアニメ全集』(秋元文庫)において日本テレビ動画の前作品『モンシェリCoCo』のスタッフ情報を引用したためであろうと真佐美ジュンは述べている。2004年末、日本テレビで放送されていた教養番組『特命リサーチ200X』において真佐美ジュンの所蔵している映像を放送する企画があったが、明確な理由が示されずにオンエアには至らなかった。2006年には、藤子不二雄FCネオ・ユートピア会報誌43号(2006年12月発行、2009年08月改訂発行)にて本作の特集が行われ、チーフディレクターであった上梨満雄のインタビューや、真佐美が提供したオープニング絵コンテ、第1回スケジュール表、サブタイトルリスト、スタッフ・キャストデータ、作画設定資料、フィルムストーリー、中間報告書などの資料が掲載された。真佐美ジュンは自身の所持するフィルムを元に無償での上映会を行っていたが、藤子プロから上映会を中止するよう要求された。真佐美側は「非営利」「無償」「無報酬」の上映会であれば、著作権者の許可を得ずに開催可能(著作権法第38条1項)であること、現在の作品自体の権利状況において上映に問題が無いことを訴えたが、結果的に両者の交渉は決裂してしまった。2013年3月には野沢雅子が日本テレビ『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』のインタビューで実に40年ぶりに「ぼくドラえもん。」とドラえもんの声を演じている。また、野沢雅子はNHK総合テレビ『あさイチ』(2015年7月10日放送)でも、「モノクロだったんです」「出すの早すぎたんでしょうね、そんなに長く続かなかった」などと僅かではあるがこの作品について証言している(番組内ではモノクロだと述べているが、実際はカラーである)。そして番組の最後には「今日もごきげんよう」とドラえもんの声を演じている。本作のプロットは「笑いとペーソスあふれる人情ドタバタ喜劇」というものだった。製作にあたり、ドラえもんの色を決めるのに、真佐美ジュンは『小学二年生』編集長の井川浩や『小学五年生』の坂本副編集長、『小学三年生』の上野編集者らと会い、原作者に修正など無いか見てもらうためのゲラを渡され、3色刷のカラーページを参考にして色指定を行ったという。原作の3色刷カラーページのドラえもんが青色であったので、青いドラえもんを何色か作り藤子Fの校閲を受け青色に決定した。しかし青色にしてしまったため、空の色と一緒になってしまい、作画スタッフは背景に雲を入れるなどして対処したという。第1話「出た!ドラえもんの巻」(1973年4月1日放送)には、相手の頭も体も弱くさせるクルクルパー光線銃という秘密兵器が登場している。第1話の原作は『小学一年生』1970年11月号掲載の「クルパーでんぱのまき」に改定を加えたものであり、原作の「クルパーでんぱ」と同様の効果を及ぼす。アニメ版ではガチャ子でなくドラえもんが使用した。後に真佐美は、今では放送不可能な名称だが、当時はまったく問題なかったと述べている。真佐美ジュンは、スタッフに虫プロ出身者が多数在籍していたため、のび太が通う小学校の設定は虫プロ近くの小学校がモデルで、スネ夫の家は「明らかに手塚先生の自宅がイメージ」と述べている。初期原作の設定やアニメオリジナル設定を用いているので、第2作以降とは異なる設定が複数存在する。所属事務所別では青二プロダクションとテアトル・エコーが協力している。他内容は「ドラえもんが未来からやってくる」という原作第1話を意識した作品で、シンエイ動画版のパイロット版にも第1話にも「ドラえもんが未来からやってくる」といった内容が描かれなかったのに対し、本作はドラえもんとのび太の出会いを描いた物語となっている。パイロット版の演出は制作主任の下崎闊(真佐美ジュン)と日本テレビ動画の佐々木一雄が担当し、設定やシナリオは文芸担当の徳丸正夫が用意したという。本作のチーフディレクターを担当した上梨満雄は2006年のインタビューでパイロット版の製作には不参加だった事を打ち明けている。サブタイトルクレジット部では、ドラえもんが四次元ポケットからボードを取り出した所で、ドラえもんのナレーションで「○○の巻。」と読み上げる。なおサブタイトルが「の巻」で構成されているのは、本作が唯一。関東地区の平均視聴率は6.6%、最高視聴率は9.1%(ビデオリサーチ調べ)。第16回と第17回の間の7月22日は、「オールスターゲーム・第2戦」中継(大阪球場。読売テレビ制作。枠は19:00 - 21:25)のため休止。系列については放送当時のもの。石川県、長野県、岡山県、佐賀県での放送状況は不明。一部地域では、本放送時代とは別の局で放送されていたが、その局も記載する。放送終了後、フィルムは制作局の日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されたりしていたが、日本テレビでの管理期間終了後に散逸したとされている。さらに、事実上の封印措置と制作会社の消滅という事象も重なり、現在はネガはもとよりコピーポジフィルム保管先も不明(或いは散逸)といえる状況である。テレビアニメ作品の著作権は通常、制作プロダクションが保持することになっているが、制作会社である日本テレビ動画の消滅により本作の著作権は、不明瞭のままになっている。本作の印象から日本放送映画→東京テレビ動画→日本テレビ動画までの作品全ての版権が不明瞭になっていると誤解されることがあるが、日本テレビ動画作品にはビデオ化や再放送の行われた作品が多数存在するため、現在でも同社から作品の版権を引き継いで管理している者が存在するとみられる。元スタッフの真佐美ジュンが個人的に保管している8話分のラッシュフィルムのほか、本作の現像を担当した東洋現像所(現:IMAGICA)に保管されている第18回、第20回 - 第26回のネガフィルムの現存が確認されている。真佐美の保管しているラッシュフィルムは、現像して上がってきたフィルムをリテイクした未放送の16ミリフィルムであり、実際の放送に使用されたものではない。なお、IMAGICAでは、日本テレビ動画の前身にあたる東京テレビ動画が製作した劇場用作品の『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』のネガフィルムも発見された。こちらは、2005年ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で上映が行われたことがある。1973年公開の山本晋也監督のピンク映画「ドキュメントポルノ 続・痴漢」(プリマ企画)では、開始後34分付近の男性医師がアパートの女性の住む部屋を覗くシーンで、背景のモノクロテレビの画面に本作の映像が写り込んでおり、動く映像を30秒ほど見ることができる。その後、裏番組の「マジンガーZ」にチャンネルが変えられている(音声は別録音されたと思われる「ワンサくん」のものを使用)。日本テレビ動画が『ドラえもん』を企画しなかったら、それまで多くの藤子アニメを製作した東京ムービーが『新オバケのQ太郎』の後番組として製作する可能性があったという。日本テレビ動画が本作を企画した1972年には、ピー・プロダクションのうしおそうじによるフジテレビをキー局とした、もう一つの『ドラえもん』の企画があったとされる。作者の藤子不二雄両人もピープロに訪れ「実写でやろう」と同意。この際にドラえもんの声優として挙がっていたのが、奇しくも大山のぶ代だった。大山の起用は、先にピープロ制作のアニメ『ハリスの旋風』での演技を見込まれてのことだった。既にドラえもんの着ぐるみまで試作されていたものの、この企画がどの程度具体化し、どの時点で頓挫したかについては不明。本作終了後、1976年から江崎グリコの「アーモンドグリコ」の内箱にドラえもんや里中満智子のイラストが掲載されていたが、この時テレビCMに登場したドラえもんは、本作後期の野沢雅子が担当していた。
出典:wikipedia
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