マシンガン打線(マシンガンだせん)は、1990年代末期の横浜ベイスターズの打線の愛称である。1999年には当時の日本記録となるチーム打率.294を記録した。マシンガン打線が登場する前までは、日本プロ野球での強力打線と言えば長距離打者を中心とした打線が一般的なイメージであった。しかし、マシンガン打線はミートやバットコントロールに長けた中距離打者による、一発の脅威よりも集中打を売りとした攻撃が特徴であった。その得点の挙げ方が本塁打によるものではなく、単打や二塁打の連続によって相手投手に間断なく畳みかけてビッグイニングを作るスタイルであり、何かの拍子で一度引き金が引かれたら離すまで止まらない機関銃の掃射をイメージさせるものであったことから、いつしか「マシンガン打線」と呼ばれるようになったものである。なおメディアで「マシンガン打線」という言葉を初めて使用したのは日刊スポーツとされる。こうした打線が形成された背景として、この時期の監督であった権藤博は「長打力でホームランを打つチームではないから、誰かがランナーに出なければ、続かない」としている。また、元々ミートのうまい選手が多いという素地があり、さらに選手の自主性を重んずる権藤の方針が選手を自主練習に向けたということも挙げられる。チームが日本一になったの1試合平均得点は4.72。本塁打が少ないものの、安打を積み重ねていくことで、時に1イニングで試合の趨勢を決定付けるほどの大量得点を奪った点が特徴である。1番から5番(相手が左投手なら6番まで)まで左打者と右打者が交互に並んだ「ジグザグ打線」であったため、相手が左投手の場合でも右投手に比べ若干苦手にした部分はあったが、攻撃能力が極端に低下することはなかった。監督の権藤は投手にアウトを贈ってしまう犠牲バントを忌避したため、強硬なヒッティング策がかえって併殺などの裏目に出たケースもしばしばあった。また、権藤監督時代はリーグ最多残塁数を記録しているが、本塁打が少なく出塁が多かったことの証左である。ただし、マシンガン打線にも苦手とする投手が存在した。特に石井一久は天敵とも呼べる存在であり、優勝した1998年には終盤戦にことごとく石井が投入されてマジック減らしに苦心させられたという因縁がある。ただし、石井に押さえ込まれているのはシーズン開幕や終盤戦が多く、それ以外では石井を打ち込んで勝っている試合も何度かある。これは、勝負どころで強さを発揮する石井自身の特性も関係している。一方、1998年に横浜とマッチレースを演じた中日の野口茂樹は、8月までは対横浜戦6戦5勝負けなしと抜群の相性を見せていたが、ここぞという9月に入ると一転して横浜戦3戦全敗を喫してしまった。2桁安打試合や2桁得点試合が幾度となく生まれた。この年は相手に先制を許しても3、4点程度のビハインドであれば簡単に逆転したが、その象徴ともいえるのが7月15日、横浜スタジアムで巨人を相手に、序盤につけられた7点のビハインドを、佐伯のボークの打ち直し本塁打などを含む両軍ノーガードの打ち合いのシーソーゲームの末、13-12でサヨナラ勝利した試合である。このゲームは、両チームの合計得点が25点、合計安打数は40本(両軍20本ずつ)という壮絶な内容であった。その後もマシンガン打線は打ち続け、5月に広島を抜いて首位に躍り出て以降、一度もその座を譲ることなく38年ぶりのリーグ優勝(136試合79勝56敗1分)を果たす。また、日本シリーズでも第5戦でシリーズ最多記録となる1試合20安打、シリーズ史上2位の記録となる1試合17得点の記録を作るなど、6試合までのシリーズでは最多タイ記録となる36得点の猛打を見せ、西武を4勝2敗で退けた。このシーズンのマシンガン打線は以下のような布陣であった。チーム打率:.277(リーグ1位)、得点:642点(リーグ1位)、本塁打:100本(リーグ3位)、二塁打:235本(リーグ1位)、三塁打:23本(リーグ1位)。6番は相手が右投手の時は佐伯、左投手の時は中根仁が起用された。7番・進藤達哉、8番・谷繁の打順も多かった。またシーズン前半は本塁打を連発して好調だった谷繁が6番に入ることもあった。特にローズは、自らの打撃成績に加え、他の選手の「手本」としての影響も及ぼしていたという。ただし、もちろん1998年の優勝はマシンガン打線だけの功績ではなく、それまでチームのウィーク・ポイントであった投手陣が、先発・中継ぎとも大崩れせず終始安定した働きを見せたこと、抑えの切り札である佐々木主浩が絶頂期にあったこと、さらには谷繁、駒田、ローズ、進藤、石井と全員がこの年のゴールデングラブ賞を受賞した内野陣が非常に高い守備力を持っていたことなど、さまざまな要因が組み合わさった結果であった。マシンガン打線の数字上の最高到達点は、優勝翌年の1999年であった。特に、ローズが打率.369(当時右打者歴代最高打率)、192安打(当時セ・リーグ記録)、153打点(歴代2位)という驚異的な数字を残し、チームもシーズン打率.294を記録して当時の日本記録(2003年にDH制のあるダイエーがチーム打率.297を記録して日本記録を更新したため、現在はセ・リーグ記録)を更新。ちなみに野手のみで計算すると、チーム打率は.303にもなる。総本塁打数はリーグ5位の140本であったものの、得点もリーグ1位の711得点を記録した。このシーズンは主力投手陣が相次ぐ故障、不振によって崩壊状態に陥ったために連覇を逃し3位(135試合71勝64敗)に終わったものの、打撃では2桁安打試合数が1桁安打試合数を上回るという驚異的なシーズンであった。二塁打:246本(リーグ1位)、三塁打:20本(リーグ3位)。翌2000年も、金城が首位打者と新人王を同時獲得して台頭するなどリーグ1位となるチーム打率.277を記録。9月7日の広島戦で5回、当時日本タイ記録となる1イニング13得点を、初めて本塁打なしで記録した。チームはなんとか3位(136試合69勝66敗1分)に滑り込んだが、鈴木尚典の打棒に陰りが見えるようになり、4年ぶりに打率3割を割り込んだ。波留も怪我をして戦線離脱をし、駒田、佐伯も打撃不振に陥る。このため、これまでのようにレギュラーメンバーが固定できなくなり、前年ほどのつながりのある爆発的な攻撃は見られなくなった。結局得点は576点でリーグ4位に落ち込んだ。本塁打:103本(リーグ最下位)、二塁打:213本(リーグ2位)、三塁打:19本(リーグ4位)。オフにはローズと駒田が退団、進藤が移籍。波留も翌年早々に移籍をする。2001年に、西武の黄金時代を築いた森祇晶が監督に就任。緻密な野球を志向する森は、チームの戦略をサイン・プレーを中心としたものに転換させる。マシンガン打線の象徴的存在であった新4番打者の鈴木も、本塁打を狙うようになって打撃に狂いが生まれ、また後ろに控えていたローズを失ったことにより相手チームの警戒も厳しくなり、さらに成績を落とす。初の打率3割を記録した佐伯、初の20本塁打を記録した谷繁、移籍組の小川博文、種田仁らのいぶし銀の活躍などもあり、2001年こそリーグ4位となるチーム打率.267(560得点・リーグ4位、94本塁打・リーグ5位、203二塁打・リーグ2位、16三塁打・リーグ3位)を維持し、チームも3位(140試合69勝67敗4分、勝率では4位だがこの年のみ勝利数で順位を決定していたため)に滑り込んだものの、谷繁がFA移籍をした翌2002年には、チーム打率はリーグ最低の.240(472得点、97本塁打はともにリーグ最下位、196二塁打・リーグ5位、10三塁打・リーグ最下位)まで低下し、マシンガン打線の面影は失われていった。チームも86敗(140試合49勝5分)を記録するなど最下位を独走し、森監督はシーズン途中で休養に追い込まれた。それでもしばらくの間は、横浜打線が大量得点をすると実況アナウンサーや新聞記者等が決まったように「かつてのマシンガン打線を髣髴とさせるような攻撃」とコメントするなど、マシンガン打線は横浜ベイスターズの強力な球団イメージとして残った。2008年には内川聖一が打率.378を記録して1999年のローズの右打者最高打率の記録を塗り替えるなど、優秀な中距離打者を輩出するチームの伝統を垣間見せるが、2003年以降の横浜打線は、多村仁、T・ウッズ、村田修一、吉村裕基といった長距離打者が多く活躍する代わりに巧打者タイプが減る(たとえば2003年はチーム本塁打192本でリーグ2位も、打率.258はリーグ最下位、563得点はリーグ5位、二塁打も192本でリーグ5位。翌2004年もリーグ2位の194本塁打を記録。また、2003年から2009年まで120本塁打以上を記録)など、その攻撃スタイルは大きく変貌を遂げた。また、その間に石井と鈴木が2008年オフに、佐伯も2010年オフに退団をするなど、マシンガン打線全盛期であった1997年~1999年当時の一軍メンバーは全員が現役を去り、その存在は過去のものとなっていった。
出典:wikipedia
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