朱 友裕(しゅ ゆうゆう、? - 904年 (天祐元年))は、後梁の太祖朱全忠の長男。封号は郴(彬)王。字は瑞夫。生母の名は不詳。また、次弟は早世したために、名は不詳である。少年時代から素質が優れ、特に騎射に優れており、また寛容な人物だったという。そのために父からも、重臣たちからも将来を期待されていた。各地で転戦を繰り返し、中和年間に勇猛な突厥沙陀部を率いた李克用が、黄巣の武将で華州で籠城している黄鄴と戦っているために、父とともに李克用を援助するために宣武府に駐屯した。李克用の沙陀部の軍勢は、黄鄴の軍勢に射撃したが命中しなかった。かわって父の命で派遣された朱友裕が黄鄴を軍勢に射撃すると見事に命中して、これを壊滅させた。これを見た将兵は大いに驚愕して、李克用も朱友裕に良質の矢を差し出して、その腕を試した。すると朱友裕は百矢を射ても外すことはなかったという。そのために、父から絶賛されて検校左僕射、衙内都指揮使に任じられた。その間に父は蔡州節度使秦宗権を攻め滅ぼしていた。892年に敵対する朱瑾を石仏山で撃破し、朱瑾は敗走した。892年、石仏山で敵対した朱瑾が敗走すると、朱全忠の仮子朱友恭は右竜武都統の氏叔琮とともに、故意に朱瑾を見逃したと朱全忠を批判した。激怒した朱全忠は朱友恭の兵権を剥奪しようとした。このとき使者が誤って朱友恭ではなく、朱友裕のもとに朱全忠の書信を渡した。これを見た朱友裕は不安になったが、これを聞いた嫡母の張夫人(朱全忠の本妻)が手を差し伸べて、庶出子の彬王を懸命に助命したために、難を逃れた。数年後、許州にいた彬王は、たび重なる乱世で民が疲労して憔悴すると、それを案じて救済活動を奨励した。その結果、民は安定して3万戸余が形成され、父からその功績を誉められた。903年2月、父が鎮擁国将軍を兼務すると、友裕は要衝の後衛府を統括し、鎮国節度使に任じられた。904年5月に父から行営都統に任じられて、李茂貞、王建、李継徽を討伐するために、岐州と邠州に向かった。同年7月、父と共に楊崇本の討伐に従軍するが、途中で病を発し、10月に若くして病死した。頼りになる長男の死を聞いた朱全忠は大いに悲しみ、慟哭したという。907年3月に、父が唐を滅ぼしてが帝位につくと、郴(彬)王としての爵位を贈られた。友裕には嗣子がなかったという。伯父従兄(朱全昱の子)従兄(朱存の子)彼らの名が『新唐書』に詳しく記されている。不詳(梁書 巻十二 宗室列伝)
出典:wikipedia
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