柴田氏(しばたし)は、日本の氏族。大伴柴田臣の氏族や柴田勝家ら清和源氏斯波氏の庶流氏族などがある。織田信長の重臣を務めた柴田勝家の血筋。始祖の柴田修理大夫義勝は越後国柴田(現在の新潟県新発田市)の人で、同地の地名をもって家号としたという。また、尾張国愛知郡一色城に拠るといい、『尾張志』に城主として柴田源六の名が見える。城下の一色村にある神蔵寺には柴田源六源勝重、在世の折、同寺を建立し、雲岫麟棟和尚を招待して開祖とするという。勝重の没年は文亀3年(1503年)であるといい、戒名は霊元院殿天信了運大居士であるという。戦国時代の武将・柴田勝家は隣村の村上村の人であるといい、もし勝重の裔であれば孫か曽孫かと推定される。一方で、勝家は義勝の孫との記述もあり、その系譜は必ずしも十分明らかとはいえない。太田亮は越後国新発田の出であれば佐々木氏の同族ということになるがはたしてその通りか、少なくとも義勝の孫という系譜については甚だ疑わしいと指摘している。勝家は若くして、家老として尾張の織田信秀・信長親子に仕えた。天正10年(1582年)に、織田信長とその跡継ぎの信忠が本能寺の変で急死すると、信長の跡継ぎをめぐり羽柴秀吉と対立する。天正11年(1583年)には、賤ヶ岳の戦いで秀吉と戦うが敗れ、その後居城の北ノ庄城で自害、勝家筋の柴田氏は滅びた。なお、勝家の養子である柴田勝政(佐久間盛次の三男)の子勝重が徳川家康に仕えており、その後も江戸幕府の旗本として柴田の家名を残した。寛政8年(1796年)には、柴田勝房が柴田氏の代々の歴史を刻んだ碑を春清寺に建立している。柴田勝家時代の柴田氏定紋の図案については不明だが、『寛政重修諸家譜』に載る江戸時代の柴田氏の定紋は、「丸に二つ雁金」、替紋は「五瓜に唐花」とある。「長篠合戦図屏風」(大阪城天守閣蔵)に描かれた勝家の陣旗には、丸なしの「二つ雁金」が描かれている。柴田氏使用の雁金は、上の一羽の口を開いて描く。「丸に二つ雁金」の図案は増山氏の「増山雁金」に似るが、増山雁金は傾けて描く。
出典:wikipedia
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