内藤 克俊(ないとう かつとし、1895年2月25日 - 1969年9月27日)は、広島県広島市本川町(現・中区本川町)出身のレスリング選手。1924年パリオリンピックで銅メダルを獲得し、日本レスリング史上初のオリンピックメダリストとなった。 生後半年で陸軍将校の父を亡くす。広島済美国民学校入学後に母も急逝、台湾に嫁いだ長姉を頼って海を渡り、そこで柔道を始めた。台北一中(現・建国中学)、鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)を経て、米国・ペンシルベニア州立大学に留学、農学カレッジとして出発した同学の建学以来、工学部、地球・鉱物科学部等と共に同学の学術活動を引張って来た農学部に入学し、園芸学を専攻した。講道館柔道二段だった内藤は、そこで柔道に似たレスリングを発見、大学でレスリング部のキャプテンとなると、全米学生チャンピオンにもなり「タイガー内藤」と異名をとった。排日運動が激しくなったこの時代、日本人がアメリカの大学のスポーツ部のキャプテンに就任したのも、内藤の人望があったからこそといわれるが、在学当時、学長宅に寄宿させてもらっていた事も、これを裏付けている。排日移民法が施行した1924年、米国代表として国際試合に出場する事が不可能となったため、学長は、駐米日本大使に日本代表として出場させるよう進言し、これを受け、駐米大使の推薦でパリオリンピック日本代表となった内藤は、ニューヨークからパリの大会会場へ向かった。米国社会で日本人移民の増加を封じるための排日移民法制定を望む世論の高まりで、外務省の進言に基づき、日本政府は日米間の摩擦を和らげるべく、留学生内藤を「日本代表選手」として派遣する、という高度な政治的理由をもって、内藤を日本選手団に加えたともいわれる。レスリングは第1回大会から行われていたが、日本では柔道の亜流と考えられて軽視されていた。このため当時、日本ではレスリングは行われていなかった。パリへ向かう船内の練習で手の指を痛め、思うように動けず、フリースタイルフェザー級3回戦で、米国の大会では負けたことの無かったリードに判定で敗れた。リードは金メダル。しかし敗者復活戦と3位決定戦に勝ち、日本レスリング初参加で初のメダル(銅メダル)を獲得した。この大会、日本選手の参加は陸上・水泳・テニスと内藤のレスリング、全23人で、うち唯一のメダル獲得となり、前回のアントワープオリンピックのテニス・シングルスとダブルスで獲得した銀2個に次ぎ3個目のメダルとなった。日本初の銀メダルは、アントワープの熊谷一弥が第1号で、日本初の銅メダルはこの内藤となる。また金メダル第1号は4年後、1928年アムステルダムオリンピックの織田幹雄のため、オリンピックでの日本の金メダルと銅メダル獲得第1号は広島出身者となる。内藤は五輪後、一旦は帰国し早稲田大学専門部出身の柔道家・石黒敬七と意気投合、東京都文京区の講道館にて、日本で初めてのレスリング講習会を催す。レスリングは柔道界に新風を巻き起こし、陸軍戸山学校からも指導を委嘱された。しかしこれらの胎動は実を結ぶことなく、母校・鹿児島大学にレスリング部を創設する機会にも恵まれなかった。同年のうちに当時日本の植民地だった台湾に渡り製糖会社に就職。ここでレスリングとの縁を切ってしまう。内藤が講道館に蒔いたレスリングの種は、その後も細かいながらも命脈を保ち、1928年のアムステルダムオリンピックには、ライト級の新免伊助が出場したが、レスリングの練習をしたのは大会直前に英国でわずか15日間というにわか仕込みで、一回戦判定負けを喫し、早々と姿を消した。所詮は「裸柔道」という感覚でしかレスリングを捉えていなかったのである。内藤は台湾在住の後1928年、夫人と長男とともにブラジルへ移住。北米大卒で五輪メダリストだと吹聴するなと家族に諭した。ブラジル開拓事業に人生を捧げ、当地で柔道場を開いて指導したといわれる。ブラジルで最初に柔道と剣道を纏めた組織であった伯國柔劒道聯盟が発足したのは1933年だったが、内藤が発起人の一人であった事が「伯國柔劒道聯盟趣意書」で分かる。また、同連盟が同年11月に発行した「武徳」という雑誌には柔道三段、と載っている。1964年東京オリンピックの際にレスリング協会からの招きで来日した。ブラジルでは、園芸の分野でも成功し、後年、同国産業協会会長に就任した。日本国内のレスリングは、1929年に早稲田大学柔道部が米国へ遠征し、メンバーの1人であった八田一朗が帰国後大学にレスリング部を作ったことを始まりとする。以降、日本レスリングはオリンピックで金メダルを計20個を獲るなど、世界に名を轟かせていった。1995年5月5日、日本ペンステート同窓会(会長 本田博)は、記録に残る最初のペンシルベニア州立大学日本人卒業生でもある内藤克俊の偉業を称え、ブラジル及び日本から長男内藤克寛夫妻らの親族を迎え、内藤克俊プラーク(plaque)をジョアブ・トーマス(Joab L. Thomas)学長臨席の元で、同学に献呈した。この内藤が「日本レスリングの始祖」だとする見方もあるがその評価は難しい。内藤の偉業が、日本レスリング協会という組織が誕生する8年も前のことであるためで、偉人とはいっても、協会とは関係のない人だと考えている人もいる。日本で、まだレスリングをやってない時代にメダルを獲って、日本でレスリングを普及させることなく、ブラジルに行ってしまったため、日本レスリングの発展には、内藤はほとんど関与していない。ただし、上部団体の日本オリンピック委員会(JOC)〜日本体育協会の中では毅然と日本スポーツ界創世記のオリンピックメダリストとして栄光の人である。
出典:wikipedia
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