鹿島 忠(かしま ただし、1961年10月7日 - )は、鹿児島県薩摩川内市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。鹿児島実業時代は夏の甲子園にエースとして2年連続出場し、1978年は1回戦で静岡に3-4で惜敗。1979年も1回戦で相可に2-4で敗退。高校の1年上に定岡徹久、同期に栄村忠広がいた。卒業後は鹿児島鉄道管理局に進み、エースとして活躍。この時のチームメートに西村徳文、森田芳彦がいた。1982年のドラフト1位で中日ドラゴンズへ入団。当初は本格派右腕投手として期待され、1986年には9試合に先発して3勝を記録。1987年は伸び悩み、星野仙一監督に二軍行きを命じられる。1988年からは中継ぎとして起用され、同年のリーグ優勝に貢献。安定した投球を買われ、右の重要な中継ぎ要員として息長く活躍。球団歴代10位となる405試合に登板し、1996年限りで現役を引退。その後はテレビ愛知、東海ラジオ解説者・中日スポーツ評論家(1997年 - 2000年)を経て、中日で一軍投手コーチ(2001年 - 2002年)・二軍投手コーチ(2003年)を務めた。中日退団後は2度目の東海ラジオ解説者・中日スポーツ評論家(2004年)を経て、楽天で二軍投手コーチ(2005年)・一軍投手コーチ(2006年)を務めた。楽天コーチ時代、ベンチで野村克也監督の近くに座ることが多かったことから、試合中のぼやきを耳にすることが多かった。コーチ引退直後のラジオ番組に出演した際、楽天コーチ時代の話をする場合、野村監督のモノマネをすることが多かった。2007年からは東海テレビ・東海ラジオ解説者を務めている(2011年のみ本数契約扱いでテレビ愛知の解説も担当)。その傍ら、2015年4月からは母校・鹿児島実業高の臨時コーチ(月1回程度の指導)も務めている。1990年5月24日のナゴヤ球場での中日対巨人戦で、バンス・ローへの槙原寛己の危険投球に抗議していた星野仙一監督が、当時巨人のコーチだった松原誠のヤジに激怒し、無関係だった水野雄仁にビンタを食らわせたことから乱闘に発展した。この時無関係な中日のベニー・ディステファーノが大暴れし、当事者ではないのに1人だけ退場となった。この試合でその後鹿島がクロマティの頭部付近に投球し、もう1度乱闘が発生している。鹿島は危険投球で退場処分となったがこの時もベンチに下がる際にクロマティをにらみながら頭を指差す仕草をしていた。
出典:wikipedia
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