『近代能楽集』(きんだいのうがくしゅう)は、三島由紀夫の戯曲集。能の謡曲を近代劇に翻案したもので、国内のみならず海外でも舞台芸術として好評な作品群である。自由に時間と空間を超える能楽の特質を生かし、独自の前衛的世界を醸し出しているこれらの作品群は、写実的な近代演劇では描ききれない形而上学的な主題や、純化した人間の情念を象徴的に表現している。1956年(昭和31年)4月30日に新潮社より刊行されたものには、「邯鄲(かんたん)」「綾の鼓(あやのつづみ)」「卒塔婆小町(そとばこまち)」「葵上(あおいのうえ)」「班女(はんじょ)」の5曲が収録され、1968年(昭和43年)3月25日刊行の新潮文庫版には、「道成寺(どうじょうじ)」「熊野(ゆや)」「弱法師(よろぼし)」の3曲を加えた全8曲が収録された。「源氏供養(げんじくよう)」という9作目も発表されたが、三島が自分の意思で廃曲とした。翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:Five Modern Noh Plays)をはじめ、イタリア(伊題:Cinque nō moderni)、フランス(仏題:Cinq nôs modernes)など世界各国で行われている。三島由紀夫は少年時代から歌舞伎や能楽に親しんでいたが、近代能の創作動機については、明治・大正期の劇作家・郡虎彦が能の『鉄輪(かなわ)』『道成寺』『清姫』を原作そのままの時代の筋と、ホフマンスタール風なアレンジで近代的一幕物にしていたことからヒントを得たとし、自身の翻案意図との違いについては以下のように説明している。能は舞台装置がほとんどなく、いわば「無の空間」で、何の制限も無しにドラマが展開されるが、三島はその感覚を取り入れ、一般的な近代劇とは異質な独自の新しい演劇世界を設定した。なお、番外編として、1957年(昭和32年)に企画されたニューヨーク上演用に、『卒塔婆小町』『葵上』『班女』の3曲を繋ぐ場面を新たに創作し、構成・加筆して統一的な芝居にした『Long After Love』(邦題:恋を求めて幾年月)という3幕物の戯曲もある。タイトルは、〈恋のずっと後〉と〈恋を慕う〉という二つの意味を兼ねてつけられ、前者の意味は『卒塔婆小町』にあり、後者の意味は『葵上』と『班女』にある。また、『葵上』と『卒塔婆小町』の間にはさむものとして、狂言『附子』をアレンジした『附子(ぶす)』もある。この2曲は1957年(昭和32年)10月に創作された。三島の近代能は、能を世界に紹介した、という点においてその功績は大きい。中でも『卒塔婆小町』への評価は国内と同様に高く、『班女』も海外で人気が高い。ドイツでも『邯鄲』が高く評価され、「三島ブーム」が起きた。ドナルド・キーンは、郡虎彦の「近代能」は能の構造や空間を無視していたために「近代的」であったが「能」ではないとし、三島の能は原典の詞章や筋に拘ってはいないが、その伝統を受け継ぎ、翻案というよりも「能のココロにインスパイアされた新作」で、「すばらしい二十世紀の文学を拵えた」と解説している。特に『卒塔婆小町』は、ドナルド・キーンも「日本の新劇の最高峰」と評しているように、総じて「傑作」と称されることが多く、詩人の台詞の〈やつと思い出した。うん。……さうだ、君は九十九のおばあさんだつたんだ〉では、時間の流れを逆転させ、80年先の「未来の記憶」が蘇るといった斬新な世界を創り出していると松本徹は解説している。1950年(昭和25年)、雑誌『人間』10月号に掲載された。三島は、原典『邯鄲』との違いについて、〈解釈は一見顛倒してゐるが、それは生活感情が顛倒してゐるせいで、謡曲の作者も現代に生れてゐれば、かういふ主題の展開法をとつたであらう〉とし、現代化するにあたり主題の展開を変化させている。18歳の次郎は、幼少の頃に自分の面倒をみて辞めて行った女中で乳母の菊の家を訪ねてみた。可愛がっていたお坊ちゃまとの10年ぶりの再会に喜ぶ菊。次郎は菊の家に邯鄲という里から来た枕があると噂で聞いてやって来たのだった。その不思議な枕は菊の家系が代々宝物にしていたもので、その枕で寝て夢から覚めると、何もかも虚しく馬鹿らしくなってしまうという。菊の旦那もその邯鄲の枕で寝てから家出してしまっていた。それ以来、菊の家の庭の花が咲かなくなってしまった。人生が始まらないうちから、すでに世の中が馬鹿らしいと思っている次郎は、自分にはその枕の効き目はないことを試してみたかったのだった。次郎は邯鄲の枕で眠りについた。夢の中で次郎は美女や踊子たちに、ちやほやされるが冷たくあしらう。そして秘書も現われ、次郎は自分が社長であることを知らされた。しかし次郎は全財産を放り出し寄付したので、秘書の気回しで政治家となる。そしていつの間にか独裁者とされていた。しかし端から夢を生きていない次郎は夢の中で寝てばかりだった。老国手に化けていた邯鄲の里の精霊は、このままでは、「現世のはかなさを知る」という教訓が次郎にもたらされないと考え、次郎を服毒死させて目が覚めるという筋書きに変えようとする。しかし次郎は、「夢のなかだって僕たちは自由です。生きようとしたって生きまいとしたって、あなたの知ったことじゃないじゃないか」と精霊の説教を聞き入れず、死ぬのを拒む。「邯鄲の枕」の教訓を与える任務が果たされないことに怒った精霊は、このまま次郎を生かして返すわけにはいかず、「あんたは一度だってこの世で生きようとしたことがないんだ。つまり生きながら死んでいる身なんだ」と迫るが、次郎は「僕は生きたいんだ」と言って毒薬をはねつけた。朝、目が覚めた次郎を見た菊は、そこに変らない罪のない可愛らしい顔を見るが、亭主のように自分を見捨てて、さすらいの旅に出てしまうのかと不安になった。しかし次郎はずっと菊と一緒にここにいると誓う。そして辺りを見ると、庭の一面にきれいな百合や薔薇、桜草やすみれや菊の花々が咲いていたのだった。1951年(昭和26年)、雑誌『中央公論』1月号に掲載された。原典の『綾鼓』は、最後まで庭掃き老人の女御に対する恨みや執着があるが、三島は幕切れの華子の台詞に〈美女の奢りと気位〉を終結させて現代化し、〈このセリフを言ふときの華子は、恋愛が約束する全世界以上のものを期待してゐる。恋が捧げうるすべてのものの、そのもう一つ先が、華子は欲しい。この奢りの前に、岩吉の亡霊も、万斛の怨みを抱いて破れ去るほかない〉としている。ビルの3階にある法律事務所で働く老小間使・本田岩吉は、真向かいのビル3階の洋裁店を訪れる華子に一目惚れをし、想いを寄せている。岩吉は事務員の加代子に、華子への恋文を毎日届けてもらい、もう100通になっていた。ある日、その手紙を読んだ華子の取り巻きの客たちは、岩吉に音の出ない芝居用の、皮のかわりに綾が張ってある鼓を渡し、もし窓越しに鼓の音が届けば華子が想いを叶えるという悪戯を思いついた。そして窓から鼓と手紙を岩吉の窓へ投げ送った。華子はその悪戯を黙認していた。岩吉は喜び勇んで鼓を打つが、どこを打っても音は鳴らず、からかわれたことを知る。そして向かいの窓のあざけりの笑いを聞き、絶望して窓から身を投げた。1週間後の深夜、岩吉の亡霊に呼ばれ、華子は洋裁店に来た。華子は岩吉が想い描いていたような貴婦人ではなく、元娼婦のような女だったが、岩吉の亡霊は再び華子への恋を証明するために鼓を鳴らす。鼓は鳴ったが、華子は「きこえません」と冷たくあしらった。岩吉の亡霊は鼓を打ち続けたが、100回目で諦め消え去って行った。そのあと華子は、「あたくしにもきこえたのに、あと一つ打ちさえすれば」とぽつり言う。1952年(昭和27年)、雑誌『群像』1月号に掲載された。三島は〈時間と空間を超越した詩のダイメンション〉を舞台に実現しようという近代能楽の試みに触れ、原典の『卒塔婆小町』を翻案した主題については、〈作者自身の芸術家としての決心の詩的告白〉だという点で『邯鄲』と同じとし、〈詩人のやうな青春を自分の内にひとまづ殺すところから、九十九歳の小町のやうな不屈な永劫の青春を志すことが、芸術家たるの道だと愚弄してゐるわけである」と語っている。そして作品の意図について、〈現代における観念劇と詩劇とのアマルガム〉であるとし、台詞には〈無韻の詩〉が流れ、舞台には〈詩的情緒の醸成のもうひとつ奥に、硬い単純な形而上学的主題〉が存在しなければならないとしている。夜の公園のモク(煙草の吸殻)拾いの老婆が、ベンチの恋人たちの邪魔をしながら拾ったモクを数えている。それを見ていたほろ酔いの詩人が老婆に声をかける。詩人は、ベンチで抱擁している若いカップルたちを生の高みにいると言うのに対し、老婆は、「あいつらは死んでるんだ」、「生きているのは、あんた、こちらさまだよ」と言う。そのうち老婆は自分が昔、小町と呼ばれた女だと言い、「私を美しいと云った男はみんな死んじまった。だから、今じゃ私はこう考える、私を美しいと云う男は、みんなきっと死ぬんだと」と説明した。笑う詩人に老婆は、80年前、参謀本部の深草少尉が自分の許に通ってきたこと、鹿鳴館の舞台のことを語り出す。すると、公園は鹿鳴館の舞台に変貌し、舞踏会に招かれた男女が小町の美貌を褒めそやす。詩人(深草少尉)は19歳の令嬢となった美しい小町とワルツを踊り、小町(老婆)の制止も聞かず、「何かをきれいだと思ったら、きれいだと言うさ、たとえ死んでも」と宣言し、「君は美しい」と言ってしまう。そして、「僕は又きっと君に会うだろう、百年もすれば、おんなじところで…」と言い死ぬ。「もう百年」と老婆が言う。すると、再び舞台が公園のベンチに戻る。死んだ詩人は警官たちに運ばれ、99歳の皺だらけの老婆は、またモクの数を数えはじめる。1954年(昭和29年)、雑誌『新潮』1月号に掲載された。葵の死の結末は、能の『葵上』よりも、大元の原典である『源氏物語』の第9帖「葵」に沿っている。三島は主題について、ヒロインの〈嫉妬に集中させてゐる〉とし、〈殊にラストの、生霊と現身の電話の声とが交錯するところは、スリラー劇的な興味をねらつてゐる〉と説明している。入院して毎夜うなされ苦しむ妻・葵のもとへ、美貌の夫・若林光が見舞いに訪れた。看護婦によると毎晩見舞いに来るブルジョア風の女がいるという。光が病室にいると、和服姿に黒い手袋をつけた六条康子が現れた。光と康子はかつて恋仲であった。毎夜、葵を苦しめていたのは嫉妬心に駆られた六条康子の生霊であった。康子(生霊)は光の気持ちを自分のほうへ向けようとする。病室に、かつて2人で乗った湖上のヨットが現われ、康子は幸福だった昔の思い出を語り出す。その不思議な魔力によって、一瞬、妻の葵のことを忘れそうになった光だったが、葵のうめき声で我にかえり、康子の愛を拒絶する。康子は消えていった。病室の光はふと思いついて、六条康子の家に電話をかけた。康子(生身)は電話に出て、ずっと家で寝ていたと言う。その時、病室のドアの外から、さっきの康子(生霊)が、忘れた黒手袋をとって頂戴と光に声をかけた。受話器をそのままにして光は病室から出て行った。そして受話器から康子(生身)の、「何の用なの? もしもし、光さん、もしもし」という声が響く中、突然、葵が苦しみ出し床の上に転がり落ちて死ぬ。1955年(昭和30年)、雑誌『新潮』1月号に掲載された。原典『班女』のシテの〈豊かな表現〉について三島は、〈孤独なままで、その感情の振幅だけで、劇を作り上げて〉いて、〈心理解剖もせず、分析もせずに、捨てられた女の嗟嘆が、そのまま劇的クライマックスまで、持つて行かれてしまふのである〉と賛嘆している。そして同じような性質を持つヒロインが描かれた『欲望という名の電車』の〈アメリカの色きちがひ〉と比し、〈日本中世の色きちがひ〉は〈品格〉があるとして、近代劇の狂女は他の登場人物と〈おなじ次元の上で対立を余儀なくされる〉が、『班女』の狂女は、〈他の登場人物の住んでゐる世間から、狂気によつて高く飛翔した。あるひは深く沈潜した、一種の神なのであつた〉と解説している。また、自作の『班女』にも愛着があるとし、そのシテには、リルケの『マルテの手記』で描かれているポルトガルの尼僧などの「愛する女性」の面影、リルケが描いたサフォーの女性イメージを重ねたとしている。画家志望の40歳の女・本田実子は不安であった。彼女の家に住まわせている美女・花子の古風なロマンスのことが新聞記事になってしまったからだ。花子はかつてひとりの男・吉雄を愛し、扇を交換した。いつか会えることを願って駅のベンチで男を待ち続けているうちに狂気に陥ってしまっていた。狂女・花子が扇を手に、来る日も来る日も駅で吉雄を待っている。その記事がいずれ吉雄の目にとまり、二人が再会してしまうのではないかと実子は恐れた。実子は花子の美しさを愛し、その美を独占し続けるつもりで、花子を描いた絵だけは一切発表しなかった。世間から花子を遠ざけるため、実子は花子を旅行に誘うが、花子は聞く耳をもたない。ずっとここであの人を待っていると言う。新聞記事をみた吉雄が扇をもって実子の家を訪れた。実子は必死に吉雄を家に入れまいと妨害するが、花子が部屋から現われ吉雄と対面する。しかし、吉雄を見た狂女・花子は、あなたは吉雄さんのお顔ではないと言う。吉雄は失意のうちに去って行く。そして再び、花子の待つ人生、実子の何も待たない人生が続く。1957年(昭和32年)、雑誌『新潮』1月号に掲載された。三島は原典の『道成寺』の〈目に見える巨大な主題〉の鐘と、〈無限の効果〉を出す乱拍子が要で、〈一にも二にも鐘であつて、すべては単純で力強い主題に集中してをり、しかも鐘は、煩悩と解脱を二つながら象徴してゐる〉と解説しているが、それは自身の『道成寺』の、〈世界もその中に呑み込まれて〉しまいそうな巨大な衣裳箪笥と、〈能の小鼓を打つごとき奇異なる掛声と小鼓や大鼓に似た打楽器の音、横笛に似た音などが起り、下段の値踏みのセリフに応じて、能の乱拍子の効果を出す〉という演出の意図と繋がっている。古道具屋で骨董家具の競売が行われている。商品として出されたのは、巨大な洋風衣裳箪笥。何百着の衣裳を入れてもまだ余るほどの、とても巨大で高品質の衣裳箪笥であった。客が次々と高額で入札しているところへ、踊り子と称する美しい娘・清子がやって来て、その箪笥は3000円の値打ちしかないと言い放った。清子はこの箪笥の出所を暴露する。かつてこの箪笥は、資産家・桜山家の夫人が若い愛人・安をかくまうために使っていたこと、そしてそのことに気づいた桜山が、中に隠れていた安をピストルで銃殺し、箪笥が血まみれになったことを、清子は話し出した。客たちは教えてくれた清子にお礼を言いながら、次々と帰ってゆく。怒った骨董店の主人に、清子は話の続きを聞かせる。箪笥の中で殺された青年・安は清子の恋人でもあった。彼女はこの箪笥を手に入れるためにやってきたのだ。その箪笥の中で恋人を思いながら、愛されなかった自分の若い美しい顔が醜く変貌することを願っているのだという。しかし主人は50000円以下では箪笥を売ろうとしない。すると清子は箪笥の中へ入って鍵をかけてしまった。清子は手に硫酸の小瓶を持っていた。やがて箪笥の中から清子は、硫酸をかぶらず、美しい顔のまま出てきた。四方の鏡の中で焼けただれた顔の幻影を見たが、その時に清子は、どんな怖ろしい悲しみも嫉妬も怒りの思いも、それだけでは人間の顔を変貌することができないのだと悟り、自然と和解することにしたのだという。そして、もう箪笥はいらないと言って、名刺をもらってナンパされた競売客の男の1人に会いに骨董店をあとにする。1959年(昭和34年)、雑誌『聲』4月号に掲載された。なお、この4年前に歌舞伎舞踊化もしているが、その際に三島は原典の『熊野』の〈わかりにくくなる要素〉をわかりやすくするために、宗盛の性格を〈思ひきり闊達な、享楽好きの、豪放な〉男性に仕立てたとしている。美しい女・熊野(ユヤ)は、大実業家の宗盛に愛人としてかこわれ、豪勢なマンションで暮していた。ある春の桜の季節、ユヤは、母親の病気を理由に、実家の北海道に帰らせてくれと宗盛に願い出ていた。部屋は片付いており、既に旅行の支度もできている。しかし宗盛は、今日は花見に行こうとしきりに誘った。今日の盛りの桜の花は今という時間にしか見られないのだと言い、美しい盛りのユヤを伴って花見をしたいと言って、母の危篤に一刻も早く駆けつけたいというユヤの申し出を聞き入れない。ユヤの友人・朝子が現われて、ユヤの母からの手紙を持ってくる。そこには死ぬ前に一目、娘に会いたいという母の心情が切々と綴られていた。その手紙を聞かされても、宗盛はユヤを花見に誘うが、バルコニーで話しているうちに雨もようとなり、ユヤは宗盛の許可を得て旅立ちに向けて部屋を出ようとする。そこへ、宗盛の秘書である山田が入って来た。ユヤの母親・マサも一緒だった。マサは小太りで元気そうである。マサは山田にすべて白状していた。母親が病気という話はユヤの仕組んだ嘘だった。ユヤには、北海道の自衛隊で働く恋人・薫がいたのだった。本当の母親もユヤが15歳のときにすでに死亡していた。ユヤは恋人に会うために宗盛に嘘の里帰りの理由を考えたのだった。薫とは結婚を約束していて、愛人稼業は結婚資金のためであったことも、すべて山田が調べてきていた。マサや山田らが部屋を出て、ユヤと宗盛が2人きりになった。しかし、宗盛は怒らない。マンションの外では、雨が降って、遠くの桜が濡れていた。ユヤは、「ひどい雨ね。今日はお花見ができなくて残念」と言うと、宗盛は、捲きついていたユヤの腕をとき、手を握ったまま、「いや、俺はすばらしい花見をしたよ。……俺は実にいい花見をした」とユヤを遠くから見つめるようにして言った。1960年(昭和35年)、雑誌『聲』7月号に掲載された。原典の『弱法師』では、夕日を「極楽」と見ているが、この戯曲『弱法師』では「地獄」を見たという違いとなっている。三島は自作について、〈終末観に腰をすえた少年が、いかに大人の世界に復讐するか〉という話だとし、最後の台詞は、〈現実的なもの全部に対する敗北〉を意味していると説明している。晩夏の午後の家庭裁判所の一室で、川島、高安の2組の夫婦が俊徳の親権を争っている。俊徳は高安夫妻の子供であった。しかし、5歳の時、空襲の戦火の中で両親とはぐれ、火で目を焼かれて失明し浮浪児となっているところを川島夫妻に拾われ、15年間育てられて20歳になっていた。2組の話し合いの決着がつかず、調停委員の桜間級子は俊徳を部屋に呼ぶ。俊徳は育ての親の川島夫妻を奴隷のように扱い、肉親の愛情を訴えようとする高安夫妻も虫けらのように扱って、「僕は裸の囚人ですね?」と聞き、自分の言うことになんでも同意しなければ親としての資格はないと言う。埒が明かないので、桜間級子は親たちを別室に引き取らせ、俊徳とだけで話をする。そのときちょうど夕日が沈むところで、級子は西窓に夕焼けを見る。俊徳はその夕焼けを地獄の東門へ沈んでゆく、僕にも見えると言い、「あれはこの世のおわりの景色なんです」と、戦火の地獄の思い出を激しく語り出す。そして級子に向かって、「この世のおわりを見たね?」と同意を求める。級子はしばらくの躊躇の後、「いいえ、見ないわ」と否定した。俊徳は反発し級子を邪険にするが、彼女は「ずっとあなたのそばにいる」と言う。俊徳はやや落着きを取り戻し、店屋物の食事を級子に頼む。そして、電灯をつけて部屋から出て行く級子に向かい、「僕ってね、……どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」と呟く。1962年(昭和37年)、雑誌『文藝』3月号に掲載された。三島はこの曲を廃曲にし、生前は単行本収録および上演は拒否していた。〈題材としてアダプトすることがまちがいだった〉と三島は三好行雄との対談で回顧している。海を見渡す浦田岬の崖上の松林に美人作家・野添紫の文学碑が立っている。晩春の午後、2人の文学青年が手に小説「春の潮」を携えてやって来た。「春の潮」は野添紫の大ベストセラー小説で、主人公は絶世の美男・藤倉光。光は54人の女性に愛されながらも、最後はこの浦田岬の崖の上から身を投げて自殺するという物語であった。作者の野添紫は、この小説を書き財産を手に入れたところで、子宮ガンで死んでしまったのであった。2人の文学青年は文学碑の前で、「春の潮」の主人公・藤倉光がまるで実在した人間かのように、光がなぜ死んだのかを熱く語り合い、光が身を投げたコースを辿ってみよう、などと言っていた。あたりが暗くなり春雷が轟きはじめた。2人があわてて見物を急ぎ、あっちだ、こっちだと言いながらコースを回っているとき、文学碑の後ろからスラックスに丸首セーターを着た1人の中年の女が現われた。そして碑の上にぞんざいに腰かけ、足を組んで煙草をふかした。あたりがまた明るくなり、文学碑の前に戻ってきた2人の青年は女を見ておどろく。青年たちから誰かと問われても、女はただ、「私はこの石碑に座る権利のある女」としか答えず、石碑のほとりに2人を招き、肩に手をかけ、「ここから見ててごらん、本当の光を見せてあげる」と言った。見ると、「春の潮」の主人公・光が夕映えに照らされた松かげから現れた。2人はすごい美男子の光に感動し、小説の光の容姿の描写を暗誦して見ていると、光は松のまわりをぐるぐる廻ったあと、崖から身を投げた。しかし、また松林から光が現われた。そして何度も同じことをくり返した。やがて青年2人は、女の話ぶりや説明から、彼女が野添紫の霊だとわかる。野添紫は自分が死んだのは、読者の皆が実在を信じたがった主人公を創り出しながらも、その主人公を救ってやらなかった報いのためだと語りだした。そして紫は、小説を書くことは実在のまねごとをして人をたぶらかすこと、それは罪だと私は知っていたから、せめて私は救済のまねごとまでは遠慮したのに、それが却って天の妬みを受けたのだと言った。なぜなら、光のような救済の輝きだけを身に浴びて、救済を拒否するような人間こそ、天は創りたくても創れず、それが創れるのは芸術家だけだから、それが天を怒らせるのだと言った。紫が子宮ガンの苦しみを文学的に語っている最中、観光バスで来た団体客が近づいてくる音がし、紫は石碑のうしろへ消えていった。青年2人は、また松のかげから光が現れたのを発見するが、落ち着いてよく見ると、それは回転式灯台の光りであった。紫から受け取った血だらけのハンカチも、真っ白なままに戻っていた。2人は、「だまされた、文学なんかとは縁切りだ」と言い、持っていた本を捨てる。そして、観光バスの団体客たちが、文学碑の前でガイドの朗々とした説明を聞いているのを見て、青年2人は、「ははははは」と笑い出す。1971年(昭和46年)、雑誌『中央公論』5月号に掲載された。ニューヨーク公演用に、『卒塔婆小町』『葵上』『班女』の3曲に、繋ぎの場面を入れた多幕物。I. SOTOBA・KOMACHIII. カーテン前III. LADY・AOIIV. 公園V. HANJO1971年(昭和46年)、雑誌『中央公論』4月号に掲載された。ニューヨーク公演用に、近代能を並べる単調さを避けるために創作されたもので、原典は狂言の『附子』である。当初は狂言の『花子』も候補に挙がっていた。ニューヨークの3rdアヴェニューにある高級アンティーク店・Duke Laspootinov(デューク・ラスプーチノフ)には、初老のケチな主人と2人の若者の店員・Keichi と Chiz がいた。ある日の午後5時ごろ、主人はカクテル・パーティーに行くから、閉店まで留守番をするように2人の店員に言って出かけて行った。2人は、主人が大事にしまっている、毒が入っているという東洋風の瓶を開けて見る。その瓶はアイスボックスの仕掛けとなっていて、中にはキャビアとレモンが入っていた。2人は主人の葡萄酒も持ってきてキャビアをどんどん食べてしまった。主人が帰ってきた。そして、空の酒瓶がころがり困っている2人を見て怒り出した。2人は店の高価な陶器を主人に次々と投げつけ、タピストリーを引き裂きながら逃げ回った。2人が店から逃げて行き、店には、両手に壊れやすい物を一杯かかえて身動きできずに立っている主人が残された。その傍の変なポーズの仏像と全く同じポーズで。
出典:wikipedia
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