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神慈秀明会

神慈秀明会(しんじしゅうめいかい)は、日本の宗教法人の名称である。「神」は教団での表記は旧字体だが、登記上は新字体を使用している。同教団は世界救世教から、昭和45年(1970年)3月1日に独立したことで生まれた。すなわち、世界救世教の分派教団である。独立前の前身は、世界救世教の一所属団体であり、当時の世界救世教内で最大の教会であった世界救世教秀明教会(せかいきゅうせいきょうしゅうめいきょうかい)である。そのため、法人の登記上の設立日は1952年9月9日になっている。神慈秀明会の教祖は、世界救世教の教祖である岡田茂吉である。また、この教団の立教者(開祖)は、世界救世教秀明教会の会長であった小山美秀子である。小山美秀子は、神慈秀明会の立教をしたものの、自身は教祖とはならず、立教時にはすでに死去していた岡田茂吉を、神慈秀明会の教祖として立てた。この教団は、世界救世教の分派教団の中では最大規模の団体であり、公称信者数は35万人とされている。本部は、滋賀県甲賀市信楽町。山中に約30万坪以上の境内を有する。この境内のことを神苑(みその)と呼ぶ。神苑内にはミノル・ヤマサキの設計した、富士山型の礼拝堂ホール(教祖殿)と、イオ・ミン・ペイ(I.M.ペイ)の設計した三味線の撥の形のベルタワー(カリヨン塔)があり、秀逸な建築物として有名であり、興味も持たれるのだが、神苑敷地内は原則として信者のみが立ち入り可能であり、地域の住民や一般人が自由に見学できるようにはなっていない。また、神苑の近接地に「MIHO MUSEUM」という美術館を建設しており、こちらは一般人に教団所蔵の美術品を公開している。詳細は#建設の節、ならびに、MIHO MUSEUMの項目を参照。基本的な教義は、世界救世教のものを継承している。継承している基本的な教義とは、神道形式を踏襲した祭祀や礼拝の方法、教祖である岡田茂吉を、神と人の融合した姿・神人合一の存在として精神的支柱に据えている事、浄霊という手かざしの宗教儀式を行う事、教義上、美術、芸術鑑賞を重要視している事、自然農法という、教祖考案の農業を推奨する事などである。さらに神慈秀明会は、世界救世教を敵視する教義(離脱の神意)も別途有している。この教義によると、神慈秀明会は、世界救世教ほか他の分派教団を、教祖の教義に沿っていない間違った道を進んでいるとし、他教団を認めず、神慈秀明会の離脱だけが唯一正しい離脱であり、神慈秀明会だけが唯一の正当な教祖の後継団体であると主張している。また、唯一選ばれた団体であるという自負が、この教団の活動の重要な原動力となっていた。だが現実的には、この教団は岡田茂吉教祖の記した教義のうち5%にも満たない量しか信者に公開しておらず、教祖に関する資料なども他教団に比べ著しく乏しい。その結果、信者は教祖の経歴や評伝、思想や功績などをあまり知らない。また、教団は教義の詳細な内容部分においても、教義に沿わない独自の解釈や方法を多く採用している。そのため、神慈秀明会独自の教義や活動内容や、思想、価値観には、教祖による教義上との問題点や矛盾点が多く発見されており、現在においては、唯一正統な後継団体という主張には教団内外から疑問をもたれている。詳細は#離脱の神意の節を参照。これらの事は、神慈秀明会が岡田茂吉を教祖としながらも、実際には岡田茂吉の影響が薄弱な教団であることを物語っている。そしてこの教団には、その特徴形成において教祖以上に多大な影響力を発揮した人物が別に存在する。それは、強力なカリスマ性と強い布教指導力を持った、教団開祖小山美秀子会主や、小山荘吉前会長らである。教団は会の創始者である小山美秀子を、神に選ばれた特別かつ絶対的な存在であるかのごとく事実上位置づけており、教団において小山美秀子の信仰的教導は、教祖の教義以上の影響力を有していた。しかし実際には、小山美秀子はキリスト教の影響を強く受けており、岡田茂吉教祖の教義とは大きく異なる信仰観の持ち主であった。また、小山荘吉前会長の信仰的教導をみると、教祖の教義への知識が著しく欠落していたのだろうと思われるものが散見される。そのため、小山美秀子、小山荘吉らの宗教的教導を比較検証してみると、岡田茂吉教祖が説いた教義や思想と大きく矛盾していたり、正反対の教えも多かった。だが、前述の通り教義の大部分が非公開である上、離脱の神意の教義のため教祖の教えを有する世界救世教に近付くことが出来なかったため、神慈秀明会の信者らは、小山美秀子、小山荘吉たちの教導と教祖の教義とを比較検証するすべを持たず、教祖のあらゆる弟子たちの中で、唯一小山美秀子や小山荘吉だけが、教祖の教えを正しく説くことが出来るとする教団のふれこみをそのまま信じるしか無かった。そんな、小山美秀子会主、小山荘吉前会長による強力な統率の元、急激な発展を遂げた同教団は、世界救世教からの独立後、時間がたつごとに徐々に教祖の影響が薄れてゆき、教団はいわば小山家流とも言えるような独自の方向に大きく塗り替えられ、教祖の影響が強い他の世界救世教系教団とは異質な教団に変化していった。詳細は#会主信仰の節を参照。そして、小山家流の文化や思想に塗り替えられた神慈秀明会は、後に内外から多くの批判を浴びる旧体制と呼ばれる時代を生み出すことになる。旧体制とは、1970年の独立から1996年末までをさす。この時代に神慈秀明会は、会主、会長の強力なカリスマ性と布教指導力の元、教団に入信することで起こるようになるとされる奇跡、奇瑞を宣伝の要として、「あなたの健康と幸せをお祈りさせてください」という声かけや、路上や駅前での手かざし(浄霊)などで当時有名になった活発な布教活動を行うことで信者数を大幅に増やし、本部境内(神苑)や美術館等の大規模な建設も行い、その建設の資金源となる献金の積極的な推進などを信者らに行った。この時期に同教団は大きな発展を遂げたが、活発が行きすぎて過激化、非常識化した布教活動や献金活動が、報道などには至らなかったが様々な社会問題を水面下でおこしていた。1996年末、秀明会某拠点における非常識な活動が、偶然にもある外部の有力者に漏れてしまう。これが当時竣工間近だったMIHO MUSEUMにとって重大な問題に発展してしまう。その問題解決のために二代目である現会長、小山弘子により、それまでの体制が急遽変更されることとなる。1997年からの新体制以降は、社会問題の原因になりがちだった、過激化した布教活動や献金活動などを制限、活動は全盛期に比べかなり沈静化した。しかし、教団活動の沈静化にもかかわらず、この教団に対するネット上などでの批判はいまだに活発である。それは、多数の被害者を出したとされる旧体制に対して、会として責任の所在を明確にしておらず、正式な謝罪や補償などをしていないこと。教団は旧体制時代の存在を、反省すべきものとしてとらえるどころか無かったこととして黙殺しようとしていること。そのため、一部の個人や拠点においても旧体制の反省が無く、旧体制時代式の行動(外での浄霊実践やノルマ設定や強力な献金活動)をいまだに改めない者がおり、教団としてもそういうものに注意を促す体制が無いこと。さらには、立教の意義を説く教義である離脱の神意に発見された、教義の根本を覆すような多数の重大な虚偽や、旧体制時代に行われてきた教導が、教祖の教義と多数の矛盾を有している事などに対する説明責任を全く果たしていないなどのさまざまな理由からである。詳細は#旧体制から新体制への節を参照。現在の神慈秀明会は、布教を行っていないため信者の増加はほとんどみられないばかりか、教師職や職員を含む有力な古参信者らの退会や、教祖が本当に説いた教えを求めての世界救世教系他教団への改宗者の続出、一般信者の活動意欲の低減化などが近年の傾向としてみられる。神慈秀明会の教団施設建設において、住民からの反対運動が時々発生している。1995年の長野県松本市における最初の建設反対運動において、反対運動が功を奏し、建設阻止にいたったドキュメンタリーは、後に書籍として出版され、神慈秀明会に限らないさまざまなカルト宗教の建設反対運動における参考書として活用されている。2005年に神奈川県横浜市青葉区に発生した施設建設反対運動は教団の施設の建設阻止に成功したが、2006年に発生した神奈川県横浜市戸塚区内における横浜集会所の建設においては、住民の反対署名を5000名以上集めた建設反対運動が行われるも、教団は建設を強行し、2007年に施設は完成した。2007年には、山口県周南市において、住民の反対署名を4000名以上集めた集会所建設反対運動が行われ、教団は建設を断念した。2008年現在、宮崎県宮崎市において、11000人もの署名を集めた集会所建設反対運動が進行中である。2006年には、大阪国税局の税務調査を受け、相続税など計約16億円の申告漏れの指摘や、施設工事に絡んだ1億円の不正なお金の流れなどが、朝日新聞をはじめとして全国的に取り上げられたことより、教団創始者の一族である小山家が、信者の自己犠牲(#自己放棄)による献金から50億円近い個人資産を形成していたことが発覚し、新たな批判を受けている。詳細は、#報道の節を参照。教祖は世界救世教教祖の岡田茂吉。信者は「明主様(めいしゅさま)」と呼ぶ。神慈秀明会の信仰は「明主様信仰」と言われており、岡田は教祖であると同時に、信仰の対象でもある。教団創始者は小山美秀子。信者は「会主様(かいしゅさま)」と呼ぶ。世界救世教から独立を実行した開祖という立場であり教祖ではないが、神慈秀明会では事実上教祖以上の尊敬対象になっている。会主は会長よりも上位の役職であり、おそらく美秀子のためにだけ存在する役職である。彼女の死後、2代目会主には誰も就任していない。現会長(代表役員)は美秀子の長女である小山弘子。前会長の小山荘吉は美秀子の長男。荘吉が48歳の若さで急逝したため、会主の美秀子は急遽、布教、信仰経験のない弘子を会の代表に任命した。信者はかつて荘吉を「会長先生」と呼んでいたが、荘吉の没後は弘子を「会長先生」と呼び、荘吉については「命様(みことさま)」と呼ぶようになった。役職には、教師(資格者)、助教師、世話人、準世話人がある。世話人とは、一定の信者を導く事でなれる。導いた信者をグループ化し、信仰的な世話をする。助教師は、複数の世話人を統括する。教師は複数の助教師を統括したり、参拝所の運営をしており、階層的な組織を構成する。教師の役職はすべて本部の職員で、一部の助教師も職員の者がいる。また、教師にも階位が3段階あり、支部長、拠点長などと呼ばれる。神慈秀明会ではおひかりと呼ばれるお守りを授かることで入信(にゅうしん)する。入信すると信者となり、第三講(新入信者会)と呼ばれる本部参拝によって本信者となる。入信していない人は未信者と呼ぶ。なお、くもり信者とは、退会した信者のことではなく、不熱心で活動に参加しない信者や、教団に批判的な姿勢をとる信者のことをさす名称である。信者は、青年部(未婚の若い男女)、学生部(中・高校生)、ジュニア部(幼児、小学生)、男子部(既婚の男性、または若くない男性)に所属する。青年部は、さらに大学生部と、成人部(大学生ではない若い男女)に分けられる。なお、既婚の女性が所属する部(婦人部など)は、なぜか存在せず、一般と呼ばれ、部としてはあつかわれなかった。信者数は、現在は公称35万人となっている(2006年4月19日の報道より)。一時は、文部省文化庁発行の宗教年鑑で44万人と記載された事があったが、1997年より布教活動を行わなくなった後、退会者は増えるも入信者はいない状況が長く続いており、減少したと思われる。なお、神慈秀明会の最大の祭典であり信者ならばたいてい参拝する記念大祭の参拝者数を実働信者数であると考えると、実質の実働信者は2~3万人程度と考えられる。また、参考までに、1970年の独立当時の信者数は、1万人強だったと言われている。1990年代を中心に街頭や駅前などで不特定の人間に「あなたの健康と幸せをお祈りさせて下さい」と声をかけ、浄霊(手かざし)による布教活動をしていた。その際、被験者に「明主様ありがとうございます」と三回唱えて下さいと指示した。参拝所は、本部以下、その規模により、支所、支部、出張所、集会所、グループ、と分類される。グループ以外は責任者として本部公認の教師が常駐し管理される。参拝所は、日本全国で、最大時100カ所を越えていた。本部:〒529-1814 滋賀県甲賀市信楽町田代 ヰカキ353-8-2上記が正式な住所だが、団体としては信楽町以下を「神苑2」という通称で表記している。国から認められている訳ではないが、郵便物などは一応届く。なお、信者らが称する「本部」とは、滋賀県信楽町の神苑の事を指す。神慈秀明会の登記上および実務上の本部は、京都府京都市左京区鹿ケ谷下宮ノ前町20の神慈秀明会京都支部内にある。黄島支所:〒701-4302 岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓黄島全域を所有しており、定期航路はない。貝殻をイメージした黄島神殿などの建物がある。支部:札幌・東京・千葉・名古屋・滋賀・京都・奈良・豊中・神崎・玉手山・西宮・神戸・本山・姫路・福山・広島・高知・福岡・熊本出張所:旭川・青森・秋田・仙台・水戸・さいたま・八王子・横浜・さがみ・松本・新潟・富山・金沢・岐阜・静岡・浜松・豊橋・豊田・須磨・岡山・米子・徳山・山口・高松・徳島・松山・長崎・宮崎集会所・センター:山形・日立・足立・鳥取・鹿児島・沖縄※他、上記に属する参拝所が別途存在。岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年12月23日 - 1955年2月10日)は、世界救世教の教祖であり、小山美秀子によって神慈秀明会の教祖に推戴された。小山 美秀子(こやま みほこ、1910年5月15日 - 2003年11月29日)は、神慈秀明会の創始者であり、初代会主。教祖ではない。「美秀子」という名は、岡田茂吉による改名である。1910年(明治43年)、大阪の河崎家において、孝造とツネの二女として生誕。1928年(昭和3年)に大阪府立清水谷高等女学校を卒業後、東京の自由学園(羽仁もと子学園長)高等部に進学、卒業。この時期、キリスト教を基盤とする羽仁の思想に共鳴し、キリスト教の信仰精神を培った。1935年(昭和10年)、小山晃吉と結婚。二男一女をもうけるが、長女・弘子の懐妊時において妊娠腎の診断を受け、これをきっかけに岡田の弟子である川上吉子より、岡田式神霊指圧療法の施術を受けた。翌1936年(昭和11年)3月23日、川上より講習を受け、同治療の治療師となる資格を得た。その後、岡田の活動が治療から宗教に変化するに従い、美秀子の活動も治療師から布教師へと変化し、京都府京都市左京区鹿ヶ谷において世界救世教秀明教会の看板を掲げ、初代会長に就任した。世界救世教秀明教会は、はじめ小さな教会であったが、岡田の死後に信者数を飛躍的に伸ばし、当時の世界救世教内で最大の教会となった。その功績を買われ、世界救世教在籍時代は、男性中心の傾向を持つ世界救世教においては珍しく、常任理事、および布教部長という要職に就任した。美秀子が世界救世教本部の役員に就任するにあたり、世界救世教秀明教会の会長職を長男・荘吉に委譲した。神慈秀明会の独立後は、美秀子と荘吉の2本柱で教団を教導していた。昭和59年の荘吉の急逝により、信仰経験のなかった長女・弘子を2代会長に急遽任命するも、信仰的な教導は美秀子が一人で行っていた。2003年(平成15年)、老衰で死去。死去の5年ほど前まで、神慈秀明会の教導やMIHO MUSEUMに展示する美術品の購入などを行っていた。小山 荘吉(こやま そうきち、1936年4月8日 - 1984年7月11日)は、神慈秀明会の初代会長。「荘吉」という名は、岡田茂吉による改名である。昭和11年4月8日、小山晃吉と美秀子の長男として、兵庫県芦屋で生誕。同志社大学経済学部卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校経営学科に2年間留学。昭和42年12月、世界救世教秀明教会の2代会長に就任。神慈秀明会になってからは、信仰的な教導を行いながら、神苑建設の推進(#建設)をするなど、多忙な日々を送っていた。昭和59年、脳出血のため急逝。48歳の若さだった。小山 弘子(こやま ひろこ、1940年 - )は、神慈秀明会の2代会長であり、現会長。小山美秀子、小山荘吉とは異なり、「弘子」という名は本名である。昭和59年に荘吉が死去するまでは、弘子は神慈秀明会の役員として名は連ねていたが、運営に深く関わっていたわけではなく、布教、信仰経験もない、平凡な一般人として生活をしていた。荘吉が死去し、美秀子によって2代会長に急遽任命されてからは、多忙な生活となった。主な実績は、MIHO MUSEUMの建設の推進と美術品収集。#インターフェイス活動への参加、そして、体制変更の実現である。(*)「世界救世教」という名称は1950年(昭和25年)からだが、便宜上、このように解説している。礼拝対象は教祖岡田茂吉が書いたとされる「大光明」の文字を神体としたもの、および、教祖の写真である。主催神は「大光明(みろくおおみかみ)」である。また、岡田茂吉を「神人合一」の存在とし、教祖でありながら信仰の対象でもあるとする。教祖の神名は「おしえみおやぬしの神」である。 副次的な祭神として、みろく大黒天がある。智福寿の加護があるとされている。信者は、自宅にご神体を奉斎し、家と、その家がある地域の幸福を願う。先祖の慰霊として仏壇内に教祖岡田茂吉が描いたとされる「十一面千手観音像」の絵を奉斎することで先祖供養を行う。信者は、礼拝時に、日本神道で一般的に使用されている天津祝詞(あまつのりと)や、教祖が観音経を元に制作した独自の祝詞である善言讃詞(ぜんげんさんじ)を唱える。この宗教は、祝詞を唱えるため、一応、神道に分類されるが、教義には仏教の観音が出てきたり、ユダヤ教やキリスト教のメシア思想があったりと、様々な宗教思想を複合している。信者は、入信時に「おひかり」と呼ばれる、絹の袋で作られたお守り状のものを受け取り、首にかける。おひかりの授与をもって入信と見なされる。おひかりの授与を無しに会に入会するような制度は存在しない。神慈秀明会の宗教儀式である浄霊は、このおひかりを首にかけていることで可能となる。この教団の主な教えは、信者がこの教団の活動に参加することで、様々な不幸に対し、神の力による奇跡が起こり、幸福になるということを説くものである。精神面や人生観に関する教えを説く事は少なく、活動主体の団体である。この教団の目標は、「人類救済、地上天国建設」であったが、後述する体制の変更後は、「世界平和を祈る」というものにトーンダウンしている。なお、この節で解説した、神慈秀明会が行う信仰の姿は、世界救世教のそれとほとんど同一である。教祖・岡田茂吉の教義には、信者に課すべき戒律は存在しない。むしろ岡田茂吉は、戒律がない宗教であることを重要な特徴として説いていた。だが神慈秀明会には、自主的に定めた戒律が存在する。それは、毎月1日に発行される会報である「秀明紙」を勉強するための1時間程度の勉強会、秀明紙勉強会(しゅうめいしべんきょうかい、略称:秀勉(しゅうべん))に、月に一回参加することであり、これが同教団唯一の戒律として定められている。なお、現在の神慈秀明会には会費制度が存在せず、同勉強会に参加することをもって会費のかわりとされている。さらに神慈秀明会には、戒律とは別に、信者が守らなければいけないさまざまな制約事項が存在する。教団や信者らはこれらを戒律とは呼んでいないが、常識的な見地からみると、宗教的戒律と呼ぶにふさわしいほどの十分な厳しさをもった制約事項であると言える。神慈秀明会の信者が必ず所有するおひかりというお守り状の信仰的アイテムの取り扱いについて、神慈秀明会はさまざまなルールを設けている。これについては、おひかりの節を参照のこと。神慈秀明会には、離脱の神意の教義に基づいた禁止事項と、それを破ったときに科せられるペナルティが存在する。これについては、禁止事項とペナルティの節を参照のことまた、神慈秀明会の#特徴である全体主義性や権威主義性の発揮による、信者に対する事実上の制限事項や禁止事項なども多数あり、これらのことから、神慈秀明会は、教祖・岡田茂吉の教えどおり戒律がない宗教であるとしながら、実際には多数の禁止事項や制限事項がある現状だという、ダブルスタンダードな状態を作り出している。芸術に触れることで、魂が清まり、人徳が向上するという教えに従い、教団は信者による芸術活動を積極的に推進している。華道、茶道、英会話、コーラスなどの文化教室を開催する。芸術活動の一環として、MIHO MUSEUMという美術館を建設し、所蔵の美術品を一般にも公開している。秀明太鼓という和太鼓の演奏グループを運営している。信者の中から有志を募り、和太鼓の奏者として育成する。秀明太鼓は、主に神慈秀明会が賛同、参画するさまざまな行事やイベントで、演奏活動を行う。技術レベルは非常に高く、日本のみならず、海外での演奏活動の実績も豊富である。教祖岡田茂吉が提唱した自然農法の理念に従って作られた、無農薬自然肥料の作物を、農家の信者が生産し、教団内で流通させている。また、農家ではない一般信者が、自然農法の農作業を手伝うことも、信仰上の奉仕活動および環境的な情操教育として推奨している。瀬戸内海の島のひとつである黄島に土地を所有しており、青少年育成のために、夏休みの期間、黄島の海岸を利用して、身体障害者や学生の信者を対象としたキャンプを行う。旧体制と呼ばれた過去の時代と、新体制と呼ばれている最近では、布教に対する姿勢が全く異なっている。最近の布教は、不自然な布教活動を廃し、受け身型の布教が主になっている。社会活動(#NGO活動、太鼓演奏、美術館など)を通じた教団の間接的宣伝や、信者の信仰姿勢に興味を持った人の自発的な入信などである。2008年現在、同教団に入会するには、教団信者による紹介による布教が原則となっている。過去の旧体制時代には、駅前・大学施設近辺などで「あなたの健康と幸せをお祈りさせて下さい」と、通行人に声をかけ、額に手をかざす宗教行為(浄霊)を行う街頭布教がたいへん積極的に行われていた。他にも旧体制時代の布教方法には、駅前で声をかけ、浄霊を行う駅前デモンストレーション(略称「駅デモ」)、大学のキャンパス内で浄霊を紹介する学内浄霊会、自宅を一軒一軒訪問して布教する戸別訪問などがあった。この団体では、宗教団体であるという事実や、神慈秀明会という名称を隠して布教するようなことは原則的に行わなかった。布教において宣伝をしていたことは、教団に入信することで多数発生するとされている奇跡、奇瑞現象や、建設中の建設物がいかに素晴らしい物であるかということ、そして、人類救済、地上天国建設などといった壮大な目標を実現する団体であるということであった。こういった積極的な布教は、最近では見受けることはほとんどない。同教団が現在、積極的な布教を行っていない理由は、1996年末に体制を一新し、教団の方針が変わったからである。詳細は後節、#旧体制から新体制へを参照のこと。神慈秀明会では、パンフレットのポスティングによる宣伝は、教義上の理由により、今も昔も行わない。神慈秀明会は、世界救世教からの独立以前である1960年から香港の布教を行っており、現在、香港には、布教所12箇所、約30000人の信者がいる。アメリカには、5箇所の布教所がある。台湾の台北に、3箇所の布教所がある。その他、小規模な布教所が、フランス、イギリス、フィリピン、カナダ、ドイツ、イタリア、ブラジルなどにある。以前の神慈秀明会は、活発な布教姿勢と旺盛な建設事業が特徴だったが、新体制に方針を一新した現在の神慈秀明会は、布教や建設よりも社会に貢献することに主眼を置いて活動を推進している。以下の記述は、体制の変更に関わらない、神慈秀明会のもつ普遍的な特徴である。新体制への方針変更前は、これらの特徴が非常に強く、変更後は、これがわずかに弱まった傾向がある。神慈秀明会から出版されている教学書。なお、これらの書物を読むことを拝読といい、拝読時には正座の姿勢を要求される。聖教書(せいきょうしょ)は教祖岡田茂吉が書いた論文調の教えの内、100篇を選抜して作られた神慈秀明会の聖典である。初版は昭和48年9月23日。入信後、「第三講」と呼ばれる本部参拝時に渡される。教祖は多筆多弁な人物であったため、彼の説いた教えは膨大にあるのだが、聖教書に掲載されている100篇の教えはそのうち5%にも満たない量にすぎない。しかも聖典としてまとめるために、聖教書の記述には多数の改変が加えられている。また、教祖の基本的な思想と、神慈秀明会において実際に行われてきた過激とも言えるさまざまな活動との間には矛盾する点が多数あるが、聖教書からは、そういった教祖の思想との矛盾点が発覚しかねない教えが、選別から意図的に排除されている。信者は、この聖教書の100篇だけで教祖の教えの基本がすべて網羅され、それ以外の教えは読む必要が無いとすら信じているが、実際には神慈秀明会の活動上の都合に合わせて意図的に選別され、改変された聖典であるとする研究も存在する(本節の#参考外部リンクを参照のこと)。秀明紙(しゅうめいし)は、毎月月初に信者に向けて発行される新聞型の機関誌。信者は同機関誌を無料で渡される。教団の指針や、信者の体験発表、教祖の教えなどが掲載されている。信者は、同会報を勉強する1時間程度の勉強会、秀明紙勉強会、略称秀勉(しゅうべん)への月一回の参加が義務づけられている。飛天(ひてん)は、神慈秀明会が独立して間もない昭和46年に交通事故死した、秀明教会の教師、岡田三栄子の思い出集である。昭和48年初版発行。この人物は、当時の教団における有力信者であり、会主小山美秀子の右腕的存在であったため、特別に思い出集の発行が行われたが、この書物の中に、『神慈秀明会の誇り』と名付けられた講義録が掲載されている。後に、神慈秀明会の特徴的な教義『離脱の神意』が、同書の『神慈秀明会の誇り』の内容をもとに作られた。この書物は単なる思い出集ではなく、この宗教の信仰を学ぶ上で重要な教本として扱われている。命様ご講話集(みことさまごこうわしゅう)は、小山荘吉前会長の講話録。 「素晴らしき世界 新しい人生」というのが正式な題名。第3巻まである。第1巻は昭和51年4月10日初版発行。第1巻には「かもめのジョナサン」「M.コルベ神父」「世界人の条件」という講話が掲載されており、この本が神慈秀明会の布教に多大な影響を与えた。神慈秀明会内で、「かもめのジョナサンの本」という場合は、いわゆる小説のかもめのジョナサンを指すのではなく、この書籍のことを指す。第2巻は平成6年7月11日初版発行。「神苑大建設」と題され、神苑建設に関する講話がまとめられている。第3巻は平成7年11月23日初版発行。「行動する青年に」と題され、秀明カレッジで話された、青年信者に向けられた講話がまとめられている。観音行(かんのんぎょう)は、 教祖岡田茂吉が書いた教えで、聖教書には載っていないものを数十篇収めてある書籍。この書物は新体制になってから発行されたものであるが、聖教書からは排除されていた神慈秀明会の旧体制時代の過激な活動と矛盾した教えが書かれている。この教えは、教団教師でも初めて知る内容であり、この教えと、旧体制時代の活動との矛盾を、教団教師ですら満足に説明できない状態を生み出している。そのため、信者の信仰上の混乱や旧体制の活動への批判の再燃となる可能性を危惧し、末端信者への配布を慎重にしている。資格者、助教師、世話人といった役職の上位順に配布され、末端信者への配布は現時点では見合わされている。浄霊(じょうれい)は、神慈秀明会が行う、手かざしによる癒しを目的とした宗教儀式である。神慈秀明会の浄霊は3分から5分で終了する。浄霊は浄霊を行う者と、浄霊を受ける者とが向かい合わせになり行う。神慈秀明会では、浄霊を行う前、および、浄霊が終わったとき、浄霊を行った者と受けた者が、手を合わせ、声をそろえて、「明主様ありがとうございます」を3回唱えることが作法になっている。浄霊を受ける者は、浄霊の儀式の間、目をつぶり、浄霊を行う者の開始と終了などの合図に従う。浄霊を行う者は、まず、相手の額に手をかざす。2分ほど経過したら、相手に頭を下げてもらうように促し、2分間ほど脳天に手をかざす。これで浄霊の儀式は終了する。神慈秀明会では、この浄霊を行う事で、相手の魂が浄まり、奇跡が起こり、病気が治り、悩みから解決されるとしている。浄霊は、入信時に教団から授与されるお守り状のおひかりを首にかけることで行えることになっている。おひかりは、浄霊を行う際に必要なものであり、浄霊を受ける側には、おひかりは必ずしも必要ない。神慈秀明会の浄霊は、世界救世教が行う浄霊がもとであるが、世界救世教のものとは、その作法に差異がある。世界救世教の浄霊は、頭部だけではなく、胴体部分にも、前後左右より手をかざす。また、浄霊の時間も神慈秀明会の浄霊より長いが、神慈秀明会の浄霊は額と脳天のみに、正面だけから手をかざし、5分程度で終了する。離脱の神意の教義では、神慈秀明会の浄霊作法こそが正しく、世界救世教の浄霊作法は間違いであると説いている。おひかりは、神慈秀明会への入信時に受け取る、絹の外袋に入ったおまもり状の信仰的アイテムである。信者はおひかりを首にかけることで浄霊を行うことが可能になる。おひかりの中に入っている物は、教祖が書いたとされる「光」「光明」「大光明」の三種類の紙片のコピーである。入信時にうけとるものには「光」が入っており、希望者は教修を受けることで「光明」を得ることが出来、資格試験を合格し、教師の役職を得た物は「大光明」を得る。より上位のおひかりの方が、浄霊の力が強いとされている。また、通常、浄霊は1対1で行うものだが「大光明」をかけたものは、集団浄霊と言われる、多人数への同時浄霊を行うことが出来るとされている。おひかりの袋、および紐は絹製である。希望者は、教団によって定められた金製の鎖に限り、紐として使用することが許される。おひかりを首に掛ける際は、おひかり本体が肌に触れるような、肌着の内側にかけなければならないとか、おひかりは定められた専用の釘や三方の上のみに安置することが許され、それ以外は許されないなど、神慈秀明会において、おひかりの取り扱いには、さまざまな規則や制限が存在する。これらの取り扱い上の規則を破り、教団が定める粗相をおこなってしまうと、後述するお詫びまたはご焼却とよばれる状態になる。お詫びとは、おひかりに教団が定めた粗相を働いたため、浄霊の力を失ってしまったおひかりに対し執り行う儀式を指す。その状態のおひかり、またはその信者の状態を指す言葉としても使われる。(用例:「私、今、おわびだから浄霊が出来ません」)おひかりは、粗末に扱うことで「おひかりにご無礼を働いた」とされる。この「ご無礼を働いた状態」のおひかりは、浄霊をする力が失われたとされ、「おわび」(または「お浄め」)といわれる儀式を行うまで、浄霊の力は復帰されないとされる。教団の定めるおひかりへの粗相とは、以下の物が代表的である。おわび状態のおひかりは、神前でおわびの儀式を行い、その不始末を神に謝罪することで浄霊の力は復活するとされるが、神慈秀明会では、単におわびするだけでは許されず、さまざまな信仰的約束を行うことが求められる。信仰的約束とは、参拝の約束、入信者を作る、献金を行うなどである。おわびの約束が信者と教団側とで折り合わない場合や、おわびの約束を実行してからでないとおわびの儀式を執り行わないと教団側が主張する場合なども多く存在し、なかなかおわびの儀式が行われない事も少なくない。行われた粗相がおわびに値するかどうかや、どのような約束を行うことでおわびの儀式を取り次ぐかなどの判断は、担当教師が行う。判断の際、おわびが繰り返されるごとに、要求する約束事を厳しくつり上げていくのが一般的である。また、先に信仰的な約束を果たさないと、おわびの儀式を行わないという判断をすることもある。なお、お詫びの儀式自体は、神前で祝詞を奏上するだけの簡単な物である。ご焼却とは、おひかりに教団が定めた、お詫びでは済まない粗相を働いたため、浄霊の力を永久に失ってしまったおひかりに対し執り行う焼却処理の儀式を指す。その状態のおひかり、またはその信者の状態を指す言葉としても使われる。ご焼却という儀式は、おわびでは済まない粗相が行われたおひかりを本部宛に全国から集め、それを一括焼却する儀式である。教団が定める、おわびでは済まない粗相の例は、以下の通りである。ご焼却の状態となったおひかりは、ご焼却の儀式を行う以外選択肢はなく、信者は、おひかりを再度受けるまで浄霊を行うことは出来ない。おひかりを受け取ることを拝受(はいじゅ)といい、ご焼却になったために再度受けることを再拝受(さいはいじゅ)というが、この再拝受が許可されるためにも、おわび以上に厳しい信仰的約束を求められることが多い。本節では、おひかりのお詫びとご焼却を解説したが、おひかり以外にも、神体や屏風観音など、教団から受けとる信仰的礼拝対象にも、おわびやご焼却の状態が存在する。これらのものがおわびになるもっとも多い理由は、虫の付着であろう。神体や屏風観音はおひかりよりも上位の信仰的アイテムなので、おひかり以上に厳しい信仰的約束が求められることが一般的である。神慈秀明会が滋賀県の山中に所有する、広さ30万坪以上の本部境内を神苑(みその)と呼ぶが、神慈秀明会は、この神苑内の建設を、多額の金銭と長い年月をかけて行った。これを神苑大建設(みそのだいけんせつ)と呼び、建設に信仰的な意義を設け、その資金となる献金を強く推奨していた。神苑大建設は、神慈秀明会における具体的な達成目標として、信徒の団結力や求心力の強化、活性化という意味で大きな役割を果たした。神苑境内は、鳥居にあたる神域門やみたらしなど、神社的な構造をしているが、建築物は日本的な雰囲気を残してはいるものの、有名な建築デザイナーによる洗練されたデザインと、当時の最先端技術を駆使した、現代的な建築が主である。神苑は、カリヨン塔の建設をもって完成とされた。※山中にあるため、周辺道路が土砂崩れや路肩破損などの場合行くことができなくなり、復旧するまでの行事は全て中止となる。神殿は、神慈秀明会において最高位のご神体が奉斎される建物である。白い大理石で覆われた8角形の建物であり、屋根の中心部に、リチャードリポート作成の「サンツリー」と呼ばれる彫刻が設置されている。教祖殿の奧にあり、教祖殿と廊下でつながっている。教義上の理由により、決められた一部の幹部信者しか入ることが出来ない。教祖殿は、信者が礼拝するための礼拝堂である。3000席以上の椅子席が設けられている。この建物は、ミノル・ヤマサキデザインにより、富士山をモチーフとした、4本の曲がった柱だけが天井を支えるという奇抜な造型をしていた。構造設計よりもデザインが先という一般的ではないアプローチだったが、坪井善勝東大名誉教授により、難易度の高い構造設計が成功し、建設が実現した。日本建築による迎賓館。この建物は信者に対してすら原則非公開であり、年数回程度の開帳のみで、自由に見学ができるようになっていない。I.M.ペイ設計、清水建設施工。ペイが日本国内で初めて手がけた建造物である。神苑大建設の終了後も、神慈秀明会の建設は続いた。MIHO MUSEUMの建設は、金額的な規模においては、美術品の収集も含めるため、神苑大建設を上回るとされている。2012年には、神苑の近接地に、MIHO美学院中等教育学校が開校した。神慈秀明会では、神苑建設の話を、神苑大建設(みそのだいけんせつ)となづけ、重要な教義として位置づけている。神慈秀明会の一部の信者の間では、神苑の完成をもって、「最後の審判」と呼ばれる、世界的な大災厄が来ると信じられていた。昭和58年の落慶までにかかった工事費用は、100億円とも150億円とも言われている。神慈秀明会では、奇跡または奇瑞(きずい)と呼ばれる現象が、非常に頻繁に起こる宗教として布教されていた。奇跡を気軽に体験出来るという所に興味を持った、好奇心、探求心旺盛な青年層や、奇跡が起こることで、本人や家族の難病重症が解決されるという可能性にかけた者などの入信が相次いだ。この宗教の教義では、無神論者に奇跡を体験させることで、神の存在を多くの人に認めさせようとすることを目的としていた。なお、神慈秀明会が新体制に変わり、積極的な布教活動が行われなくなるに従い、奇跡や奇瑞は著しく減ったものとみられている。奇跡(きせき)とは、神の力で難病が治癒されたり、大事故から免れるような御利益の事例の事である。奇跡を起こす物としては、#浄霊と、聖水(通称:#奇跡の水)がある。奇跡の多くは、毎月行われる本部の祭典において信者による体験談の形で発表され、それが会報「秀明」に掲載されることで信者内に広く伝わる。浄霊の儀式により、奇跡が起こった例が多数会報「秀明」に掲載されている。教義上、神慈秀明会では、同教団があらゆる宗教団体でもっともたくさんの奇跡が起こる宗教団体であると信じていた。神慈秀明会で発行される印刷物では、奇跡という表記が使われることが多く、奇蹟という表記が使われることはほとんど無い。神慈秀明会に入信したり、各種祭典への参拝を行うこと、布教活動に参加すること、また、高額の献金を行うことでも、さまざまな奇跡が起こった事例が会報「秀明」に多数掲載されている。特に#夏期布教において奇跡が多数起こるとされており、奇跡を体験したい青年部信者は夏期布教への参加が推奨された。会報に掲載されたもの以外でも、非常に多数の一般信者が奇跡を体験しており、日常的な現象になっていた。新興宗教にありがちな、虚偽による御利益の捏造のようなものではなかったことは、神慈秀明会に否定的な元信者であっても認めている。ただし、神慈秀明会には、発生した奇跡が本当に神の力による超自然現象か、それとも偶然や思いこみの産物なのかをきちんと見分けようとする風潮はなかった。したがって、偶然や思いこみ、プラシーボ効果によるものも奇跡の一つとして積極的に数えており、そのことが奇跡の発生事例数を水増ししていたといえる。この風潮がいきすぎ、会報「秀明」に、一信者が捏造した奇跡事例を、検証無く真実として掲載してしまった事件も発生した。なお、神慈秀明会と元信者との近年の裁判において、元信者側の「神慈秀明会は奇跡の話で多数の信者を集めていた」という主張に対し、神慈秀明会側は、弁護士に、そのような行為は行っていなかったと証言させている。神慈秀明会において聖水と位置づけられている水であり、これを塗布、または飲用することで、治病などの奇跡が起こるとされている。「聖水」、「奇跡の水」、「みたらしの水」などと呼ばれる。神慈秀明会本部への参拝時に、手と口をゆすぐ場所をみたらしと呼ぶが、そこで流れる水のことを聖水としている。世界救世教からの独立直後、神慈秀明会本部が京都にあったときは京都のみたらしの水、滋賀の神苑が完成直後から、神苑のみたらしの水が聖水となった。京都本部時代のみたらしの水は、京都市の水道水であり、滋賀の神苑のみたらしの水は、本部境内(神苑)のある山からのわき水を衛生基準に従い浄化処理したものであり、境内内で使用されている生活用水と同じ水である。信者は、参拝時にみたらしの水を専用の容器にくみ入れ、自宅に持って帰り、緊急時のために常備したり、日々の飲用に用いたりする。この水を飲用または塗布などすることで、奇跡が起こった例が会報「秀明」に多数掲載されている。昭和51年、神慈秀明会がローマ教皇庁のピネドリー枢機卿の訪問を受け入れた時、みたらしの水による奇跡の事例を伝えることで、枢機卿に深い印象を与えたとしている。みたらしの水の奇跡は、神慈秀明会の独立とともに発生するようになったとされている。これは、神慈秀明会の独立が正しい行為であるという事が神によって証明された証であると、#離脱の神意の教義では教えている。神慈秀明会の信者は、奇跡の他に、奇瑞(きずい)と呼ばれる現象を体験することがある。辞書によると、奇瑞は、めでたいことの前ぶれとして起こる不思議な現象。吉兆といった意味があるが、神慈秀明会における奇瑞とは、「物質の突然の出現や、起こりえない不思議な現象などの発生」を指す。奇瑞は、いわゆる御利益(ごりやく)とは異なり、病気の快癒や事故の回避など、利益(りえき)をもたらすようなものではない。この現象は奇跡同様、起こすことによって神がその存在を示すための現象とされている。神慈秀明会では、「神様が本当に現れるときは、色に、音に、味に、薫香に、温熱にあらわれる」としており、信者はこのような体験を神様が現れた証としてありがたがる。薫香(突然良い香りがすること)や光が見えるなどの事例、浄霊時に温熱を感じたりするなども多数報告されている。太陽の周りに虹の輪がかかったという事例や、祭典の瞬間の太陽黒点の写真映像が烏の姿をしていたような事例など、天候や天文学的な不思議現象も奇瑞として報告される。神慈秀明会の奇瑞は、一般信者も非常に多数の者が体験しており、日常的な現象になっていた。特に膨大に起こった奇瑞は、物質の突然の出現である。金粉、銀粉の突然の大量出現、ダイヤモンドの突然の出現、通称ゴールドと呼ばれる、金で出来た小さな彫刻の突然の出現などがある。金粉銀粉とは、文字通り、金や銀の粉が、突然出現する現象である。金や銀の物質は、粉状以外にも、薄い金箔の状態のものや、糸状のものや、小さな固まりのものも出現することがあった。金粉銀粉の出現箇所は、信者の身体や服の上、自宅の部屋の中、公園全体など、その場所も、出現の量も多岐にわたる。目撃者の目の前で金粉銀粉が徐々に増えていく目撃例も多数報告されている。ダイヤモンドの出現事例も非常に多かった。出現したダイヤモンドの多くは8角形のカットが施されており、下面に金箔が張られているものが一般的だった。出現したダイヤモンドを専門家に鑑定してもらうと、「これは地球上に存在していない物質だ。研究のため、1億円で売って欲しい」と言われた、という証言が会報に掲載された。信者は奇瑞の品物を、神の力による、非人工的な物質であると信じ、積極的な検証などは行わなかった。ゴールドの奇瑞とは、最大でも高さ1cm程度の、七福神や打ち出の小槌などの縁起物を彫った小さな金製の彫刻が、忽然と信者の元に出現するとされる現象である。金粉銀粉、ダイヤモンド、ゴールドといった物質の出現現象は、たいへん多くの信者が体験しており、今でも保有している信者を見つけることは容易である。物質出現の奇瑞は、一時の勢いは衰えたといえ、現在でも発生し続けている現象である。しかし、最近になって、この物質出現の奇瑞に対する批判的見解が増加してきた。近年、ダイヤモンドを保有している信者が宝石商などの専門家に鑑定を依頼したところ、安価なイミテーションであると鑑定された例が多数報告されている。その際、下面に張られている金箔は、模造品のダイヤモンドを輝かせるために一般的に行われている、人工的な鏡面処理であるとされている。ゴールドの奇瑞の彫刻も、金製であるとは確認出来ず、材質も、鋳型も、神社のお守りに入っている安価な工業製品と同等なものであるという検証が多数報告されている。これらのことから、信者がありがたがる奇瑞の品物は、人工物であり、安価な既製品にすぎないという否定的な見解が現在有力である。出現する品物が安価な工業既製品であることから、物質出現の奇瑞現象そのものも、教団が組織的に行った大規模な捏造工作ではないのか、と考える批判者も多いが、現在の所、同教団が奇瑞を捏造するために、そういった安価な既製品を組織的に撒いていたような告発や報告は存在しない。神慈秀明会に否定的で、反旗を翻した人物は非常に多く、中には会主会長の側近だった者もいるが、そのような人物からも、奇瑞の組織的な捏造があったという報告はない。また、出現事例はあまりにも膨大にあり、教団と利害関係を持たない末端信者や未信者の目撃者も非常に多数おり、出現箇所も出現状況も様々であるため、組織的に秘密裏のまま奇瑞現象を捏造工作することは、現実的には不可能であると思われる。どうやら、奇瑞現象において出現していたさまざまな物質は安価な工業既製品であることが多いが、それが忽然と奇跡的に現れていたらしいというのが、現在の平均的な見解である。このことを知った信者の中には、「たとえ品物が偽物であっても私には関係ない。私がそれをそのときに頂いたということに意味があるのだ」という理解をする者も多い。また、このことを知った批判者は、「もし神慈秀明会の神様が本当の神様なら、このような偽物をさも本物のように出すのだろうか」と、神慈秀明会の主催神の性質を疑っている。神慈秀明会では、1997年に活動方針の体制を一新した。1997年から現在までを新体制と呼ぶ。それ以前、立教の1970年から1996年末までを旧体制と呼ぶ。神慈秀明会は、新旧体制下において、活動内容や教団内の風潮、価値観などが全く異なっている。したがって神慈秀明会を客観的に理解するためには、旧体制と新体制の差異を知る必要がある。旧体制時代とは、人救いの名の下に神慈秀明会全体が、数の目標達成に邁進していた時代であった。旧体制時代における主な年間目標とは、参拝(大祭などへの参拝人数)、布教(年間の入信者)、献金(本部神殿や美術館建設のための資金)であった。旧体制時代、神慈秀明会の信者数は爆発的に増大し、文部省文化庁発表で最大44万人が報告されている。この時代は、大規模な建設と、その資金とするための献金の推進が活発であった。教団は施設建設のため献金を膨大に集め、豪華な神殿(推定金額150億円)や美術館(推定金額、建築費500億円、美術品購入費500億円)などの建築を実現した。無理な入信数や献金額を掲げたため、職場、学業を放棄しての布教活動や、無理な借金をしてまでの献金活動などが、「自己放棄」という名の教義の元、容認されており、実際に一部の支部で大規模に行われていた。駅前や大学施設などでの公的施設でも街頭布教が活発に行われたため、公的施設の管理法人とのトラブルも多発した。そんな旧体制の活動は、活動の現場においては、信者は、家族や会社、学校などとの間に様々なトラブルなどを起こしがちだったが、新聞や雑誌にそれらの活動が取り上げられて大々的に社会問題化することは、結果的に起こらなかった。そのため、当時の信者は、旧体制の活動が社会との間になんらかの問題を起こしがちであるとの認識を持っていなかった。しかし、実際には、家族などからの苦情が本部に集中していたことを、1996年末、小山弘子会長が、講話という形で初めて公にし、明らかにした。この講話において、神慈秀明会は、旧体制の活動の問題を公に認めた。神慈秀明会の方針変更の兆しは、1995年から徐々に現れていた。1996年にMIHO MUSEUMが開館する際、館長に予定されていた梅原猛より、「母体がこの状態では館長には就任できない」という通告があり、この時に小山弘子会長が、それまでの過激な布教献金体制への見直しをおこない、1997年から新体制として会の方針を一新した。それ以後は、過激な布教、献金活動は沈静化した。新体制発足時の1997年1月号の会報に、教団幹部から教団トップの小山弘子会長に対しての謝罪文が掲載された(信者に向けての謝罪文ではない)。夏休みを利用して日本中で布教活動を一斉に展開する#夏期布教、#カレッジ、エリート会と言った勉強会、拠点に合宿して布教をする自己放棄など、旧体制時代の神慈秀明会を特徴づけていたさまざまな活動や企画が1997年で一挙に中止、禁止された。新体制となったことで、旧体制時に末端信者に行ってきた指導は誤りであったと気づいて反省し、自主退職した教師職員がわずかだが存在した。また、新体制に伴い、教団の人事が一新した。各部の部長職は、それまで布教経験や信仰年数が長いものが選抜される傾向があったが、それに限らない選抜が行われるようになった。新体制とは、過激化した布教や献金の推進が社会問題化したことを受けて、それまでの教団の体質を見直し、本来あるべき姿を模索し、変わっていこうとする動きである。教団は、1970年の立教から1997年に至るまで布教および建設献金活動一辺倒であり、それ以外の活動方針を採用するなどということは、教団の歴史において初めての試みであった。名称こそ新体制とはいえ、それが始まった1997年当時は、旧体制の過激な活動を大至急一掃することが唯一最大の目的であり、その時点では、教団の新しい方針をどのように定めていくかが明確に決められていたわけではなかった。その後、新体制として採用すべき新しい活動方針が徐々に決定されていった。現在では、新体制とは、従来の目標数を大切にし社会を顧みない活動よりも、信者一人ひとりを大切にし、自然体で、社会へ受け入れられる活動を模索するものであるなどと理解されている。新体制では、積極的な布教や建設を行わないため、一時の勢いが衰えた感があるが、勢いの維持よりも「内容の充実」や「純粋・正直」「常識・社会との和合」などといった対外的なイメージの向上をめざしている。また、3つの芸術活動というスローガンを立て、社会に貢献することを目標としている。3つの芸術活動とは、浄霊による癒し(魂の芸術)、自然農法による心身の健康(農業の芸術)、そして美しい美術品や芸術に触れること(美の芸術)であり、これらの芸術活動によって豊かな#精神性を養い、社会への貢献を目指す。旧体制における教団の活動方針は明確であった。それは、「布教(入信者数)」「献金額」「参拝者数」の、年々の大幅向上を目指す、というものであり、毎年それが年末までに達成されることで人類が救済され、天変地異や大災厄を免れ、信者ひとりひとりの因縁(曇りという)がとれると考えられていた。また、旧体制当時の教団においては、他のあらゆる教義よりも、布教や建設にともなう献金の目標達成を最高の価値ある物と位置づけており、目標達成のためならば非常識な行動や教義に反する行動があっても黙認されたことも多かった。神慈秀明会では、年頭に、本年の献金額や入信者数の目標を教団に自己申告の形で約束し、それを年末までに達成しなくてはいけなかった。目標、または約束という形を取っているが、これは事実上のノルマであった。神慈秀明会では、「約束」という体裁で、毎年ノルマを課していた。神慈秀明会の教義では、約束の厳守、時間の励行と言われている(#聖教書「誠のあるなし」の教えより)。旧体制時代は、各支部、世話人グループにおいて、「自ら立てた目標」は、「神との約束」であり、必ず守らなくてはいけないという風潮であった。しかも年頭の目標は、「人は常に進歩向上を志さねばならない。特に信仰者にしてしかりである」という教え(聖教書「新人たれ」の教えより)に従い、必ず昨年度より多い目標を立てなくてはいけなかった。目標が達成出来ないときの罰則や、達成できたときの報償などは存在しなかったが、年末の式典において、全ての信者が尊敬してやまない会主小山美秀子に絶賛されるため、それを目標に各支部は決死の努力を行った。この活動を毎年繰り返したことが、神慈秀明会の規模拡大の原因であり、年々、活動が過激化した理由でもある。関東地方のある支部は、この目標を10年以上連続して達成した記録をもっているが、同時に、この支部がもっともたくさんの犠牲者を生み出した支部として現在批判されている。以下、旧体制時代にのみ使われた用語や文化について解説する。青年部の活動であり、8月の1ヶ月間、信者が、自分の所属する地域から離れた地域の参拝所に合宿して、布教活動を行うというイベント。神慈秀明会でもっとも奇跡が起こるイベントであるとされていた。現在は行われていない。参加期間は約1週間単位で4期に区切られていたが、約1ヶ月の全期連続参加が、学生、社会人問わず推奨された。夏期布教は多くの青年にとって、魅力的なイベントだった。そのため、会社員が夏期布教に全期(1ヶ月)参加したために、毎年8月になると、会社を自主退職したり解雇されてしまう例が相次いだ。参加者は、ユニフォームとして、専用のTシャツやポロシャツの購入と着用が義務づけられていた。信仰のために自分の都合や仕事や学業などの事情、ひいては命を放棄すること。転じて、学校や会社を休んだり、退学、退職して、合宿布教活動などを行うこと。旧体制時代は、これを行うことが誇りとされ、大いに推奨された。小山荘吉前会長は、「自己放棄とは自己解放である」と説いた。自己放棄という言葉を信仰的に善意に解釈すると、「自己を捨て、神の意志に自らをゆだねる」のような意味だと解釈できなくもないが、実際にはこの言葉は、会社や学業などの本業を休み、布教などの宗教活動に専念すること、の意味に使われることがほとんどだった。「自己放棄をしなさい」と言われることは、そのまま「会社や学校を休んで布教

出典:wikipedia

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