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万里の長城

万里の長城(ばんりのちょうじょう、、, 、満州語: , 転写: šanggiyan jase)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、新・世界七不思議にも選ばれている。2009年4月18日の中華人民共和国国家文物局の発表により東端の遼寧省虎山から西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8kmとされていたが、2012年6月5日に総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmと発表された。ただし現存する人工壁の延長は6,259.6kmであり、また、全長にわたって同じ規格で作られているわけではなく、場所によって高さや幅や材料などが異なっている。英語をはじめとする漢字文化圏以外の言語では、「(中国の)大きな壁」を意味する訳が充てられている。モンゴル語や満州語では「白い壁」と呼ばれる。秦の始皇帝の構築した長城が認識されているが、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。戦国時代には外敵に備えるために戦国七雄のすべての国が長城を建設していた。北方の敵に備えるためのものだけではなく、斉や韓、魏や楚のように北方遊牧民族と接していない国も、特に警戒すべき国境に長城を作っていた。そのなかで、北の異民族に備えるために北の国境に長城の建設を行っていたのは燕、趙、秦の3ヶ国であった。始皇帝は中華を統一後に中国の中にある長城を取り壊すと、北に作られた3ヶ国の長城を繋げて大長城としたのである。この時の長城は版築により粘土質の土を固めて築いた建造物であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、場所にもよるが多くの区間はそれほど高くない城壁(幅3~5m、高さ約2m)だったという。また現在の物よりかなり北に設置されて、その東端は朝鮮半島に及んだ。長城は前漢にも引き継がれ、武帝の時代にさらに延長される。匈奴を追って領土を拡張したことで、長城は新しく得た河西回廊を守る形で西に延長され、玉門関まで拡張された。後漢の半ばごろには放棄され、三国時代には長城防衛は行われていなかった。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、華北を統一した鮮卑族の北魏はさらに北からの遊牧民族の来襲を警戒すると、漢代長城より南寄りの現在の線に新しく長城を築いた。これは東西分裂後の北斉にも引き継がれ、北斉を倒した隋もこの長城を維持した。唐王朝は長城防衛そのものを放棄すると、その後の五代十国や宋王朝もこの方針を引き継いだため、長城はしばらく中国史から姿を消す。長城が復活を遂げたのは、女真の建国した金の時代であった。金はさらに北方からの襲撃を恐れ、大興安嶺の線に沿って界壕と呼ばれる長大な空堀を掘った。界壕の内側には掘った土を盛り上げて城を築き、ここで実質的に長城防衛が復活した。ところが、界壕はモンゴル人の建国したモンゴル帝国によって難なく突破され、長城を越えて侵入したモンゴルによって金は滅亡した。モンゴル人の元は長城を築かず、南方から興った中国人の王朝である明が元王朝を北方の草原へ駆逐しても、首都を南の南京に置いた朱元璋は長城を復活しなかった。長城防衛を復活させたのは明の第3代皇帝である永楽帝である。首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移した永楽帝は、元の再来に備えて長城を強化する必要に迫られ、北方国境全域において長城を建設することで、長城はようやく現在の形になった。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、実際は草原の中に建っている。これは元の時代に北方の草原と南方の農耕を一体とした社会・経済が成立し、明も自国内でそれを実現すべく、北方への勢力拡大を行なっていたからである。そのため北方民族も南方の農耕民族の物産を必要としており、長城沿いに交易所がいくつも設けられた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。明末に満洲族(女真)が勃興して後金を建国すると、明との間で長城の東端を巡り死闘が繰り返された。後金は明に対して有利に戦いを進めるも、名将袁崇煥に阻まれ長城の東端の山海関を抜くことができなかった。袁崇煥は後金の謀略にかかった明の崇禎帝に誅殺された。その後に明は李自成に滅ぼされ、後金から改名していた清は、明の遺臣の呉三桂の手引きにより山海関を越え、清の中国支配が始まった。現在、万里の長城は中華人民共和国政府によって重要な歴史的文化財として保護されており、世界遺産にも登録されている。しかし観光用に整備された一部の他は、かなりの部分が明代に建設されて以降整備されることもなく、そのまま崩落するに任せている(観光客向けに整備されていない長城は野長城と呼ばれる)。近年は整備されていない野長城としての趣を評価する向きもあるが、ただでさえ崩落が進み危険な野長城にわざわざ登って荒らしたり遭難したりする観光客がいるため、野長城に登ることが2006年施行の「長城保護条例」で禁止された。しかし未だに野長城に登ろうとする観光客が大量にいるほか(観光用に整備されていない長城は険しい山中にあるため山に入る時点で危険であり、2011年には北京市だけで49件の事故・9人が死亡、2012年には日本人ツアーが野長城の付近の山で遭難して死亡する事件があった。中国の法令に違反しているため、ツアーでも絶対に登ってはいけない)、地元住民が万里の長城のレンガを建築資材用に盗んだり、骨董品として販売するなどし、破壊が進んでいる。また、長城がダム工事により一部沈んだり、道路建設により分断もされている。観光客の多い北京市近郊などでは、心無い観光客による落書きや立ち入り禁止を無視しての遭難が絶えない一方で、潤沢な予算によって続々と長城の復興が進んでいるが、その他の長城、特に中華人民共和国でもっとも貧しい地域の1つである甘粛省や陝西省では、地元住民による略奪の他、現地当局にまともな予算も専門家もいないことから雑な修復がされたりしており、(ほとんど現存していない秦代、漢代までの物を含めると総延長2万キロを超える)万里の長城の全面保存を主張する「中国長城学会」は目の前の現実に頭を悩ませている。2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告があった。2009年4月18日、中華人民共和国国家文物局は万里の長城の総延長を従来の6,352km(東端は河北省山海関とされていた)から8,851.8kmに修正発表した。毎日新聞によるとのろし台5723カ所も確認され、煉瓦などでできた人工壁6259.6kmに加え、くぼみや塹壕部分の359.7km、崖などの険しい地形2232.5kmが含まれたことから延びたとみられるとしている。2012年6月5日、中華人民共和国国家文物局は、秦代、漢代など他時代を含んで調査した所、万里の長城の総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmであったと発表した。2016年9月23日、長城の一部が修復作業の際に業者がコンクリートで平らに塗り固めていたことが判明した。中国国内でも「爆破したほうがまし」など怒りの声が挙がっている。後に中国政府も「歴史的な容姿が著しく損なわれた」として、修復作業に関わった業者の責任者らを処分する方針を示している。※東から西の順。※北京近辺で訪問できる場所「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認するのはきわめて困難である。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した楊利偉飛行士が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中国の教科書からこの節は正式に削除された。2004年には中国系アメリカ人のリロイ・チャオ飛行士が国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで万里の長城を撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。

出典:wikipedia

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