上田 馬之助(うえだ うまのすけ)は、プロレスラーのリングネーム。同名を名乗ったプロレスラーは過去に2人存在する。上田 馬之助(うえだ うまのすけ、1940年6月20日 - 2011年12月21日、本名上田 裕司(うえだ ひろし))は、愛知県海部郡(現在の弥富市)出身のプロレスラー、大相撲力士。大相撲時代は追手風部屋を経て間垣部屋に所属、海部錦(あまにしき)の四股名で最高位は序二段19枚目。プロレスラーとしては、長年ヒールとして活躍し、頭髪をまだら金髪に「その後全て金髪となる」染めた姿は「まだら狼」「金狼」の異名をとった。1958年、大同工業高校を中退して追手風部屋に入門、1958年5月場所に初土俵を踏み、同年9月には部屋付き親方の間垣親方が分家独立するのに伴って間垣部屋に移る。当時の四股名は上田山(うえだやま)であったが、のちに海部錦(あまにしき)に改名した。1960年、追手風部屋に同期入門した林幸一(のちのミスター林)の誘いで力士を廃業して日本プロレスに入門、1961年4月に名古屋市金山体育館における平井光明戦でデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門したジャイアント馬場やアントニオ猪木の影に隠れ地味な存在だった。だがダブル・リストロックを得意技とし、道場内での関節技スパーリング(上田いわく「極めっこ」)や真剣勝負(同「冷たい試合」 通称「ガチンコ」)には自信があったと本人は語っている。しかし、当時の上田の試合には派手さがなかったため、観客が眠ってしまうことがしばしばあったらしく、そのために眠狂四郎というあだ名をつけられていた。1966年にアメリカに渡り、テネシー、テキサス、ジョージアなどの南部を主戦場に、プロフェッサー・イトーまたはミスター・イトーのリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1968年12月12日にはアマリロにてシャチ横内と組み、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスからテキサス西部版のNWA世界タッグ王座を奪取。1970年1月23日にはオクラホマ地区でダニー・ホッジを破り、NWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得したとされていたが、上田本人は「自分の反則負けであり、タイトルは奪取していない」と証言している。1970年3月に帰国したが、ここでも馬場、猪木、坂口征二らの影に隠れ、大きな活躍はできなかった。1971年末の猪木追放騒動では、猪木の計画を日プロ幹部に密告したといわれる(後述)。馬場に次いで坂口も日プロ離脱を表明した直後の1973年3月6日、愛知県体育館にて大木金太郎と組んでジョニー・バレンタイン&キラー・カール・クラップを破り、インターナショナル・タッグ王座を獲得。念願の国内初戴冠を果たしたが、4月18日の焼津でのフリッツ・フォン・エリック&キラー・カール・クラップとの防衛戦に敗れ王座陥落。その2日後に日プロは崩壊した。その後、大木らとともに全日本プロレスへ移籍したが(正式には日本テレビとの3年契約の上、全日本プロレスへ派遣されていた)、前座扱いのマッチメイクなど待遇面の不満のため(異説あり)、日本テレビとの契約を残したまま事実上のフリーランスとなる。日本テレビとの契約には同局の許可なく国内他団体への参戦を禁止する条項が含まれていたため、新日本プロレスや国際プロレスには参戦できず、活路を求め渡米し、南部地区を中心に転戦した。1974年からはオクラホマやルイジアナを拠点とする中南部のNWAトライステート地区(後にビル・ワットが主宰するMSWAの前身テリトリー)を主戦場に活動。因縁のダニー・ホッジをはじめ、グリズリー・スミス、ルーク・ブラウン、ボブ・スウィータン、フランク・グーディッシュなどと対戦し、若手時代のボブ・バックランドから勝利を収めている。1976年元日、アメリカから馬場、猪木、ラッシャー木村への挑戦を表明(日本テレビとの契約が同年3月31日まで残っていたため、3人への挑戦時期を4月1日以降としていた)。馬場、猪木は拒否したが、木村が国際プロレス代表の吉原功と協議の上、上田の挑戦を受諾したことにより、同年5月に国際プロレスに参戦。6月11日の古河大会で木村からIWA世界ヘビー級王座を奪取したが、7月28日の銚子大会における木村との金網デスマッチでのリターンマッチが没収試合となり、一度も防衛することのないままタイトルを剥奪された。同年7月7日には大阪府立体育館にて、国際プロレスに逆上陸したサンダー杉山と組んでグレート草津&マイティ井上のIWA世界タッグ王座にも挑戦している。この国際プロレス参戦時、上田は前髪を金色に染めた「まだら狼」へと変身(のちに髪全体を染め「金狼」と呼ばれるようになる)、反則攻撃主体の凶悪ファイトに徹し、日本マットでは初の本格的な日本人ヒールとして注目を集めた。1977年1月に新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成し、2月2日に大阪府立体育館にて坂口征二&ストロング小林からNWA北米タッグ王座を奪取、一躍トップヒールとなった。その後、シンとは仲間割れもあったが、長く悪の名コンビとして日本マットを血で染め続けることになる。1978年2月8日には日本武道館にて、因縁深い猪木との釘板デスマッチが実現(11分2秒 上田のTKO負け)。仲間割れしたシンとの決着戦は、同年9月19日に大阪府立体育館で行われ、猪木がレフェリーを務めるも、試合途中より上田・シンとも猪木を急襲。裁定は無効試合となったが、以降はシンと和解し、再び共同戦線を張った。尚、上田VSシンは、大阪府立体育館で行われた新日本プロレスの興行で初の超満員札止めとなった。1978年暮れには杉山、ヒロ・マツダ、マサ斎藤らフリーの日本人レスラーたちと狼軍団を結成、プレ日本選手権において新日勢と抗争を展開した。春に開催されるMSGシリーズにも出場し、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとも対戦したが、1979年からはやや戦績を落とし、坂口との北米ヘビー級王座をめぐる抗争がメインとなった。同時期に国際プロレスにも再び参戦し、1979年4月20日(富山市体育館)と9月29日(横浜文化体育館)の2回にわたり、木村のIWA世界ヘビー級王座に再挑戦。マイティ井上&アニマル浜口が保持するIWA世界タッグ王座にも、同年4月21日に高岡にてマサ斎藤、10月5日に後楽園ホールにて大木金太郎、11月14日には諏訪にてヤス・フジイをパートナーに3回挑戦した(諏訪大会は金網タッグ・デスマッチで開催)。1980年10月4日の近江八幡大会では、同年に国際プロレスに入団した大木が日本プロレス崩壊後も保持していたインターナショナル・ヘビー級王座に、来日中止となったエドワード・カーペンティアの代役として挑戦している。国際プロレスでは、選手会を除名された鶴見五郎、ジョー・ルダックやアレックス・スミルノフ、モンゴリアン・ストンパーなどの外国人ヒールとも共闘した。アメリカでの活動も続け、ロサンゼルスではチャボ・ゲレロ、アル・マドリル、ブッチャー・ブラニガンらと対戦、アンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも行われ、ブル・ラモスともタッグを組んだ。1980年下期には同地区において、オックス・ベーカー&ジ・エンフォーサーのマネージャー役を務めていたこともある。1981年に再び全日本プロレスへ、先に移籍したタイガー・ジェット・シンを追うように参戦。暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦にも、同年と1983年にシン、1982年にはスーパー・デストロイヤーと組んで出場。久々の対決となるザ・ファンクスをはじめ、ザ・シーク&マーク・ルーイン、ハーリー・レイス&ラリー・ヘニング、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビ、ミル・マスカラス&ドス・カラスのマスカラス・ブラザースなどの強豪チームと対戦した。1983年3月3日には後楽園ホールでジャイアント馬場との遺恨試合が行われ、馬場のアームブリーカー・ドロップの連発でレフェリーストップ負けを喫している。同年7月26日には福岡スポーツセンターにて、シンとのコンビで馬場&ジャンボ鶴田を下し、10年ぶりにインターナショナル・タッグ王座に返り咲いた。1984年6月14日には、全日正規軍(馬場、鶴田、天龍源一郎、プリンス・トンガ)対シン軍団(シン、上田、鶴見、バズ・タイラー)の4対4による日本初のエリミネーション・マッチにも出場している。1985年、新日本プロレスの試合会場に突如スーツ姿で現れ、猪木に花束を渡すなどをして新日に再参戦。一時期はマシーン軍団やヒロ斎藤と共闘していたが仲間割れし、カルガリーハリケーンズの離脱後に新日正規軍入り。1986年3月26日、東京都体育館で行われたUWF軍との5対5のエリミネーション・マッチでは、前田日明と心中して場外に飛び降り、両者リングアウトに持ち込んで前田を失格させるという活躍を見せた。試合では前田のキック攻撃を何発も耐え抜き、ハイキックを側頭部に受けながらもダウンすることなく、勢いをつけたフライング・ニールキックでようやく倒れた。当時は上田のシュートでの強さはさほど認知されておらず、その上田が当時最強といわれた前田の蹴りを平然と受けきってみせたことで観客席からは大きなどよめきが起こった。前田から側頭部へのハイキックを受けたことについて、「40年近いレスラー生活で唯一の油断だった」と後年の著書で記している。なお、当時の上田の入場テーマ曲には、のちに三沢光晴も使った『スパルタンX』が使用されていた。その後、1990年代はNOWやIWAジャパンなどのインディー団体を転戦した。1996年3月、IWAジャパンのシリーズ最終戦が行われた仙台市から東京への帰京中、東北自動車道で交通事故に遭遇。助手席の上田はフロントガラスを突き破り、車外に投げ出され アスファルトに叩きつけられる大事故だったが一命を取り留めた。上田本人は車が衝突した瞬間以降のことは記憶に残っていなかったという。その事故により頸椎損傷の大怪我を負い、胸下不随となり車椅子での生活を余儀なくされた。1998年4月16日に上田がリハビリ中の熊本市で「力道山OB会」主催による、上田馬之助現役引退記念大会が開かれ、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、「リサイクルショップ上田屋」を経営。地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っていた。2008年には近年のリハビリ生活がドキュメンタリー番組「生きる×2」で放映された。2009年には、大分のローカルプロレス団体であるプロレスリングFTO所属のプロレスラーであるVINNIが、初代の同意の下「上田馬之助」の名前を襲名することを発表。同年7月5日に大分市内で襲名式が開かれ、上田本人は体調不良のため姿を見せなかったものの、立会人を真樹日佐夫が務めたほか、夫人より上田が現役当時使用していた竹刀とガウンが手渡された。2011年12月21日、誤嚥による窒息で死去。。常に竹刀を片手にし、レスラー人生の大半を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。上田は「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告していた。一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、このことに気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり(ただし当時の「興行」はプロレスに限らず良くも悪くも現在の価値観で言う暴力団の影響を免れることは有り得なかった)、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない」としている。また、馬場の自伝においては、猪木の行動は日本プロレス経営改善の名を借りた乗っ取り計画だったとされ、これに関係していた上田を馬場が詰問したら「上田が全部しゃべったんです」との記述がある。雑誌ゴングの元編集長竹内宏介(馬場の側近としても有名だった)も「馬場が上田を詰問・上田が真相を告白・馬場が幹部に報告」という経緯で著書を書いている。ユセフ・トルコも自著での猪木の弟、猪木啓介との対談で「いや、あれを上層部にいったのは間違いなく上田」と語っており、元日本プロレスの経理部長である三澤正和も「実際の会議で猪木さんが『馬之助、テメェ、よくもばらしやがったな』と言っていた」と証言している。ただ2007年1月から5月にかけて東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」「証拠となるメモも残っている」と語っている(但しそのメモが公開されることはついになかった)。猪木の日本プロレス除名並びに新日本プロレス旗揚げまでの経過は以下の通りである。いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、「新日本プロレス」を旗揚げした猪木、「全日本プロレス」を起こした馬場が日本プロレスから離脱、客の呼べる両エース、中継を行っていた日本テレビとNETテレビ(現・テレビ朝日)をそれぞれ失った日本プロレスは崩壊した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でその行動にはスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。ユセフ・トルコの話では、札幌大会で選手会が猪木を襲撃する計画があったという。最終的に猪木は、本来の控室ではなく、トルコが用意した別の控室へ向かったために難を逃れている(本来の控室には選手がすでに待ち伏せていた)。後に上田は、「あの時、私は裏切り者にされた。一度猪木に経緯を説明したい。いかに私が日本プロレス幹部からいじめられていたことを」と雑誌のインタビューで答え、自身の引退興行の際にも「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。猪木側に付いていた山本小鉄は、「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。また1992年に大熊元司が没した際、上田に不信感を抱く馬場は大熊の訃報すら伝えなかったため、上田は「祝儀不祝儀の付き合いも断つのか」と涙ながらに激怒した。
出典:wikipedia
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