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軍服 (中華民国)

中華民国の軍服(ぐんぷく)とは、中華民国建国以降、中華民国軍で使用されている軍服である。中華人民共和国の軍服については、こちらを参照。中国の軍服は、列強諸国の進出により国土が租借地となったという複雑な背景を反映してか、様々な国の影響を受け独特の雰囲気を醸し出している。その中でも、特にイギリスやドイツ、そして良くも悪くも最も身近な列強国であった日本の影響が強く見られる。また、全体的に、国花である梅を意匠に盛り込んでいることも大きな特徴である。礼装は如何にも中国らしく装飾をふんだんにあしらった絢爛豪華なものである一方、常服は比較的シンプルであり、場合によっては階級章や兵科章一切を取り外すこともあった。第二次大戦後は、周辺諸国同様、三軍共にアメリカの影響を受けたものとなった。なお、これまで軍装の改正を行う際は陸海空各軍個別に制定を出していたが、2007年11月9日の「陸海空軍服制條例」より三軍纏めて通達を出す事となった。清朝の洋務運動の折、袁世凱は西洋式軍隊である新建陸軍を設立した。新軍の軍服は当初、昔ながらの民族衣装であるないしを西洋風にアレンジした中洋折衷の軍服であった。東洋の服飾の特徴である袖の裾は機能性重視のため絞り、洋服のシャツやズボンと同様の長さになった。袖には階級を示す袖章が配され、ベルトやブーツ、サーベルなども取り入れた。本格的な西洋式軍服が導入されたのは1905年であり、崩壊直前の1911年に再度改正がなされた。この時導入された制服の色はブルーグレーであり、以降長らくの間中国の軍服の色にブルーグレーが使われるきっかけとなった。常装は、当初日本海軍の第一種のように前ホック式の上衣で3つポケットがあるものであったが、これはまもなく廃止され代わって帝政ドイツの「」(Litewka)の影響を受けたと思われる上衣の前あわせが隠しボタンの簡易的なものへと変更された。布地はカーキ色で、階級は袖に配された黒のパイピングとボタンで表された。その意匠は、日露戦争時の日本陸軍の戦時服を髣髴とさせる。礼装は紺色で、上着はシングルとダブルの2種類が存在した。制帽はケピ帽と従来の清風のものが存在した。ケピ帽はのちにドイツ式の官帽に変更された。この制帽は常装・礼装共通である。将校の帽章は、二匹の龍が中央の宝玉を囲む意匠となっている下士官兵の階級は袖章のみで、肩章は所属部隊を表している。帽章は一匹の竜が前面を向いたデザイン。常装に関する改正である。これまで地味だった常装は、この改正でより洗練されたものとなった。上衣は上下ともに隠しポケット、生地の色はブルーグレー、ボタンは7つ。将校の場合、階級は襟と肩で表され、襟章は六芒星であらわされた階級章と、その上部の兵科章で構成された。兵科章には、アラビア数字で連隊もしくは大隊番号を表した隊号章が付く。帽章はより簡略化され、中央に宝玉を残すのみのものとなった。このわずか半年後に辛亥革命が起こり清朝は崩壊したため、この軍服は全部隊に行き渡ることなく廃止された。しかし、民国建国後に新型軍服が導入・本格的な増産に至るまでの間、帽章を取り換えたのみで引き続き着用され続けた。そのため、この軍服は清朝崩壊後に着用する機会が増したという何とも皮肉な結果となった。清帝室の近衛兵たる禁衛軍には、独自の軍服を採用された。1908年制式では、軍衣の地質は茶褐色、軍帽の鉢巻および襟は黒もしくは赤で、帽章・記章も独特の物であった。当時としては珍しい折り襟で、襟は黒。肩章は、通常部隊がドイツ式に対しロシア式であった。1911年の改正後はドイツ式となり、カーキの軍衣で袖に赤いパイピングが入り、襟は布地と同色の詰襟となった。帽子は赤い鉢巻で、中央に金のパイピングが入る。辛亥革命後も禁衛軍は存続され、軍服も1920年代まで使用されていたようである。憲兵は独自の帽章を使用していたが、1911年3月9日の改正で他の兵科と同様のものとなった。辛亥革命後の1912年(民国元年)5月12日、中華民国政府は北京に陸軍部を設置、それに伴い新たな軍服を制定した。軍服の形状および階級章は日本陸軍の明治39年以降の軍衣に酷似しているが、生地の色・ボタンの数はともに清朝時代のものを踏襲している。上衣は日本の四五式同様、胸部物入は雨蓋付き、腰部物入は雨蓋無しだが、胸部物入はボタンが付かない。また、上衣の袖および袴の外側には赤のパイピングが一本入る。襟章は日本軍と同じ「鍬型」。襟の兵科章には、隊号章として下士官兵は左側がアラビア数字、右側がローマ数字、将校は両襟ともローマ数字で表記された金属章を付ける。また、各兵種に属する者は隊号章とともにその兵種の頭文字を漢字で表記した銅製の襟部徽章を、参謀は2つの棒を交互に組み合わせた意匠の襟部徽章を左側に付けた。また、本来兵科と関係なくなる将官も襟章を付け、色は歩兵と同じ赤。階級章は、下士官兵は赤の下地、将校は白地に金線。軍帽は天井喰出に赤のパイピングが一本入る。鉢巻は軍衣の地質と同様だが、将官は鉢巻全体に金色のパイピングが入り、顎紐も金色となる。帽章は、武昌起義において湖北軍政府が掲げた「十八星旗(鉄血十八星旗、別名・九角十八星旗)」をベースとして制定された陸軍軍旗である「九角十九星旗」を反映している。当初、北洋政府は被服廠というものを持っておらず、民間への大量発注という形を取っており、また依然として清朝代の軍服を着用している者も見受けられる。これらのことから、建軍当初の軍服はかなりばらつきがあった。清代、被服廠は各地に分散されていた。北洋政府は、これらの軍需工場を北京に集中させ、またドイツや日本から大量の製造機器を購入し、軍需工場の刷新を図った。まず1912年9月、駐上海陸軍被服倉庫が設立。10月、清代の被服廠を解体・移転させて北京市内の米倉庫を接収し、11月、新たに被服廠を設立。また朝陽区老君堂と東城区灯市口にあった被服倉庫を合併し被服廠に併設させた。やや遅れて1914年(民国3年)4月に武昌南湖の旧軍の制革廠を受領、1915年(民国4年)11月、海淀区清河鎮にある旧軍の官営企業だった溥利呢革公司を受領し呢革廠を設置。同年、陸軍被服装具検査規則が制定され、こうして軍服の製造システムが整えられた。中華帝国成立後、襟章の形状は独自の形へと変更され、日本陸軍と同様の五芒星へと変更された。袁世凱政権崩壊後、五色旗をモチーフとした黄・黒・白・青・赤で塗り分けられるようになった。将官の襟章は1920年ごろに金色となる。その後、北京政府は分裂し、軍閥割拠の時代へと突入した。ボタンやポケットの形状など、地域によって細部の差はあるが、後述の奉天閥を除き、全体的に似たり寄ったりで大きな変化はなかった。やがて北伐完了により国民政府の折襟の軍服に取って代わられていくが、奉天閥のものは満州国陸軍へと引き継がれていくことになる。北洋陸軍の礼装は、ドイツ式の強かった清代とは対照的にフランス式である。上衣は明るい水色でシングルの7つボタンにエポレットが付き、袖には柏葉型の装飾がつく。校官・尉官はエポレットの色が兵科色を表す。袴は将官は上衣と同色、校官および尉官は黒で、いずれも側面に赤いパイピングが入る。正帽は、将官はケピ帽、校官・尉官は黒のシャコー帽で、前立が付く。鉢巻部分の装飾は当初金色の草文様であったが、中華帝国崩壊後パイピングへと変更される。帽章は五色の星を菊花が囲む。ばらつきがあった軍閥の軍服のうち、最も独自の発展を遂げたのは奉天閥である。制帽の鉢巻をはじめ、袖や袴のパイピングを一切配したシンプルなデザインとなっている。また、軍衣の胸と腰の物入れは貼り付け型が基本となり、ベルトはサム・ブラウン・ベルトを採用した。正衣の意匠も独自のものであった。これらの形式はのちの満州国軍に引き継がれる事となる。1924年、黄埔軍官学校の開校に伴い、制服として中山服が採用された。この学校自体、護法軍に変わり新たな軍隊を再編するためのものだったため、必然的にこの制服が国民革命軍の軍服へと発展していった。もっとも、全国の中華民国軍で一律の服制が用いられていたわけではなく、各地の部隊(軍閥)によって軍服の形状の差異は残っていた(例えば、東北軍第29軍などで使用された防寒帽など)。国民革命軍はソ連赤軍を手本としていたため、軍服も当初はどちらかといえばソ連の影響を受けていた。色は北洋陸軍を継承して青灰色の軍服が導入されたが、新編第36師のように特殊任務に就く部隊ではカーキー色を使用する事もあった。階級章は当初左袖に配されていたが、北伐後の1929年の改正により襟に移動した。階級を三角星で表す(ソ連軍の下士官と同じ)、下地を兵科色によって分けることで兵科章と階級章を一体化させるなど、全体的に援助を受けたソ連軍の影響が強い意匠となっている。これらのものは下士官兵はパレードなどの際を除いて普段着用することはなく、代わりに肩(のち左胸)の部隊章と右腕の上腕部の師団章で所属を示した。北伐後初の改正である。この改正により階級章が襟に移行。それからわずか8ヵ月後の9月7日に「陸軍常服軍礼服条例」により改正。士官用階級章に金の横筋が入るようになり、日本陸軍のものに近いデザインとなった。しかし、当時の写真を見たところ、中央軍を除いて旧制式の階級章が引き続き使用されており、あまり浸透しなかったようである。この階級章の使用は、後述の陸軍服制条例制定後の37年辺りまで確認できる。部隊章は、当初ショルダーループ型の肩章にアラビア数字で表記(下士卒は布製、尉官・佐官は金属製)であったが、1931年に《陸空軍士官佐及び兵士階級表》、1934年7月24日に陸空海軍の《軍幹部階級表》及び1935年1月10日に《兵士階級表》それぞれが制定され、よって俗に「符号」と呼ばれる名札が左胸に付けられるようになった。符号では所属部隊および役職のほか、左に階級章と同じ三角星を描く事で階級が識別できるようになっており、さらに士官用の部隊章は外枠の色が塗り分けられていた。青は尉官、黄色は校官(佐官に相当)、赤は将官である。北伐後2回目の改正。この改正で、いくつかの大きな変更点が成された。まず、制帽が廃止され、ドイツ軍型の略帽一本となった。さらに、軍服の色が清朝からの伝統であった青灰色から、より目立ちにくい黄土色へと変更された。これは中独合作によって来中したドイツの軍事顧問の提案を受けてのことである。士官用階級章には金の囲いが入るようになった。士官の使用するサム・ブラウン・ベルトは、それまで各自の自費調達だったため形状にかなりばらつきがあったが、本条例ではベルトに関する規定も盛り込まれた。国民革命軍の礼装である大礼服は、軍閥時代を引き継いだマンテル型となっているが、襟は詰襟から折襟となっており、あたかも規格帽に中山服の平常制服がそのまま豪華になったような印象を受ける。色合いは明るい水色に代わって、日本陸海軍の礼装同様より重厚感のある黒を基調としている。装飾は、清代が龍、北洋政府が柏葉であったのに対し、国花の梅を随所に盛り込んだものとなっている。これは戦後以降現在に至るまでのコンセプトを方向付けたといえる。第2次世界大戦後はアメリカの軍事援助を受けたことから、米国の軍服の影響を強く受けた軍装となった。改正は空軍の軍服(後述)に引っ張られるような形である。階級章が肩へと移動し、代わって襟には兵科を表す徽章が配された。また階級章の意匠も大幅に変更され、従来の正三角形から梅へと変更された。ただし、当初のころは肩章を付けたのみで襟章は従来のものを留めたものも多い。この時期は戦後の経済政策の失敗や国共内戦も相まって改正がままならず、中には独自の改造を施している者もいた。軍閥割拠以来、軍装が最も混乱していた時期といえよう。海軍陸戦隊同様水着にゴーグルのみという姿で知られているが、赤い水着を着用している。海軍はイギリスの影響を強く受けている。清代、従来のいわゆる満州族の民族衣装に紺色の生地、袖章、短剣、ベルトというように英海軍の要素を取り入れた中洋折衷の軍服が使用された。日清戦争後、海軍も全面的な改正に乗り出し、将校・下士官に冬はダブルの開襟、夏は陸軍の野戦服と同じ意匠の白い詰襟の軍服が、兵用にはセーラー服が、それぞれ採用された。帽章も英海軍のデザインを受け、碇の上に赤い宝玉と竜を描いた。民国成立後も基本的なコンセプトは引き継がれたが、夏衣はロシア海軍のものに近い意匠へと変更された。国民政府成立後、冬服に日本海軍とよく似た詰襟の軍服が採用された。戦後は再び開襟に戻り、現在に至る。水兵は襟後部端に青天白日章がつく。海軍陸戦隊兵士の軍装は、迷彩柄のショートパンツスタイルの水着にゴーグルのみといったスタイルが広く知られているが、近年では用途に応じて多様な軍装が使用されている。軍閥時代、空軍は陸軍の下部組織であったため、軍服は陸軍と大差無かった。広東空軍北伐後の1929年、国民政府は新たに空軍を独立した軍事組織として設立させ、それに伴い新たな制服を採用した。軍服の裁断は基本的には陸軍と同じ中山服だが、独自の徽章と階級章を採用した。徽章ではアメリカ陸軍、階級章ではフランス、イタリアの影響を受けた意匠となっている。帽子は、食出部分の広いイギリス風の官帽。軍服の色は茶色もしくは緑で、帽子の鉢巻はベージュ。士官の帽章、徽章は金色。帽子は制帽を使用していたが、わずかに陸軍と同じ略帽も使用された。また、当初布製だった帽章その他徽章はより生産性を重視するため金属やプラスチックになった。また、ボタンには中華民国の象徴である青天白日章があしらわれているのも大きな特徴である。パイロットは右胸に搭乗員徽章が付く。襟章は、士官は米軍同様の二枚羽であり、将官は階級章は袖の横線で表す。1936年に変更があり、階級章上部の記章がプロペラを掴んだ鷲となった。1940年、軍服の階級章の位置は袖から肩へと変更され、また軍帽の形状も支援を受けた米軍の影響が強くなった。戦後の1946年、襟章が三枚羽に変更され、将官は星となる。また地上勤務士官は階級章上部が梅となる。40年代後半以降、上衣は開襟となり、また生地の色も青へと変更された。これら空軍の徽章の意匠やコンセプトを受け継ぎつつも現在に至る。礼装としては、初期に海軍の夏服に似たホワイトチュニックが採用されていたが、これはまもなく廃止され、戦後に陸海軍同様、開襟蝶ネクタイが採用された。

出典:wikipedia

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