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日中囲碁交流

日中囲碁交流は、明治になって家元制度崩壊後、方円社の活動などによって棋士の活動が安定すると、朝鮮、中国、台湾などとの交流も行われるようになった。中でも高部道平は、1909年に中国、1911年から1912年にかけて朝鮮、台湾を訪問するなどした。当時四段の高部は中国高手とされる張楽山、汪雲峰には向二子であった。また中国ではこの時までは、黒白2子ずつを盤上に置いてから対局開始する事前置石制であったのを、高部が初手から自由に着手する方法を伝えたと言われる。1918年には広瀬平治郎が、中華民国の国務院総理であった段祺瑞の招きで、弟子の岩本薫を伴い訪中。1919年、瀬越憲作が満州、青島を歴訪、汪雲峰、伊耀卿、顧永如らと向2、3子であった。続いて同年、本因坊秀哉、広瀬、瀬越、高部らが訪中、秀哉は陶審安らに向4子で打った。中国での対局は中国ルールで行われることが通例であったが、この時秀哉は中国ルールでの対局を嫌ったと言われる。これらの対戦が、中国の棋士にとって大きな経験となる。またこの頃、中国から日本に留学した際に囲碁を学ぶものも多く、呉清源の父呉毅も方円社に通うなどして初段に2子ぐらいの手合となり、帰国時には棋書を多く持ち帰った。また顧水如は日本に囲碁留学し、喜多文子とは2子の手合だった。呉清源は12歳の時に北京の囲碁クラブで日本人と対局して天才少年と話題になり、1926年に訪中した岩本薫に3子で勝ち、2子で負け、1927年訪中の井上孝平に2子で勝ち、先で1勝1敗。瀬越は1928年に弟子の橋本宇太郎を派遣し、呉は先番で勝つ。これにより呉は瀬越に招かれて来日、試験手合により日本棋院の三段に認められる。日中間の紛争が始まって後、1934年に日満華囲碁親善使節団として、木谷実、呉清源、安永一、田岡敬一らが訪中、上海、無錫、北京、青島、天津などを回って中国棋士との交流を行い、満州では木谷と呉による溥儀の前での御前試合も行われた。また皇軍慰問団の一つとして日本棋院や日本将棋連盟の棋士による訪中が行われ、1938年の慰問団は、囲碁では安永一を団長とし、田岡敬一、梶為和、藤沢秀行らだった。満州には在留日本人向けの囲碁組織として、1941年に満州棋院(別称日本棋院満州別院)が設立された。1942年に大東亜大臣であり汪兆銘政権の顧問でもあった青木一男の招待で、瀬越、橋本、呉、井上一郎らが南京の中日文化協会や上海を訪問。この時日本棋院から、顧水如、劉棣懐ら6人に四段などの段位が贈られた。1943年には福田正義、藤沢秀行、榊原章二らが満州に1年間滞在し、政府や南満州鉄道職員、軍人らへの指導を行った。中華人民共和国成立後、中国から日中友好協会を通じて日本棋院へ訪中が依頼されたが、この時は「時期尚早」として見送る。1957年には団長瀬越憲作、宮下秀洋、長谷川章、村島誼紀の4棋士による訪台使節団を送る。1959年に自民党顧問の松村謙三の訪中において、周恩来、陳毅との会談で文化面での交流が合意される。これにより読売新聞社及び日中友好協会主催の定期的な囲碁交流が開始されることになり、1960年に瀬越憲作を団長とする第1回の日本代表団が訪中。以後、中国代表団による訪日と交互に行われるようになる。第1回には全て中国側が先で打って2勝しか挙げられなかったが(王幼宸−瀬越憲作、劉棣懐−瀬川良雄)、その後徐々に実力差を詰め、1965年には陳祖徳が岩田達明九段に勝利し、初めて日本の九段に互先での勝利を挙げる。中国ではこの勝利を記念して、この時の布石を図案とした切手も発行された。1974年から出場した聶衛平は、1975年には高川格名誉本因坊に、1976年には藤沢秀行天元、石田芳夫本因坊に勝つなど好成績を収め、日中の実力接近をうかがわせた。1963年には訪中した杉内雅男団長から、中国囲棋協会の陳毅名誉主席に、日本棋院と関西棋院による名誉七段が贈られた。中国の文化大革命による1967年から72年までの中断を挟んで再開。その後中国の成績がよくなるにつれ日本側も一線棋士を揃えるべきとの声が高まり、特に読売新聞の主催する棋聖位の出場が望まれた。しかしこのための調整が始まった1983年に趙治勲が棋聖位に就き、韓国籍棋士と中国棋士の対戦は政治的課題となるが、その後中国の対韓国の姿勢が柔軟化し、また日本棋院でも三大タイトル保持者の対外対局を認めたために、1984年から個人間の三番勝負も組み入れられるようになり、名称も日中囲碁決戦となった。この初回には聶衛平は趙治勲棋聖、加藤正夫王座に連敗するが、馬暁春が橋本昌二九段に勝利する。また当時中国と国交の無かった韓国籍の趙治勲との聶衛平の対局は歴史的な対局でもあった。1989年からは若手主体の対抗戦となり、日本は25歳七段以下、中国は28歳以下の棋士から選手を選抜した。1992年の第20回で終了。(日本代表団は訪中、中国代表団は来日。戦績は代表団から見て「勝-負-ジゴ」、1984-88年は個人毎の三番勝負成績、その他は総成績)藤沢秀行が若手棋士を集めた研究会を1980年から始め(通称秀行軍団)、この勉強の意味も兼ねて、1981年から訪中しての交流手合を行うようになった。当初の日本側メンバーは安倍吉輝、入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就ら。中国側は聶衛平、馬暁春などが中心だった。中国棋士の熱心さを目の当たりに見た藤沢は、早くから「中国軍団の馬蹄の響きが聞こえる」と言って、中国棋士のレベル向上を予言していた。1985年には日中スーパー囲碁が開始。また同年には日中テレビ囲碁選手権戦も始まり、後にテレビ囲碁アジア選手権戦に発展する。1988年には日中名人戦、日中天元戦が開始されるなど、日中棋士の対局機会は増え、また世界選手権としても1979年に世界アマチュア囲碁選手権戦、1988年の世界囲碁選手権富士通杯が開始されるなど多数を数えるようになり、日中間に限らず、国を越えての囲碁交流は日常的なものとなった。1986年には中日友好囲棋会館が設立された。2005年の愛知万博では、中国館の湖南省ウィークの催しとして、日中の好敵手を集めた中日囲碁対抗戦「五人対抗戦」「三人対抗戦」が行われた。「五人対抗戦」(5月30日)「三人対抗戦」(6月1日)2010年に日本棋院の孔令文と中国棋院の協力により、中国棋院にて日本棋院院生10名と中国若手選手との対抗戦が行われた。結果は日本側の18勝48敗。その他に早碁や孔傑、王磊らトップ棋士も参加しての検討も行われた。1986年に日中アマ囲碁友好会(理事長菊池康郎)が設立されるなど、アマチュアによる囲碁交流も盛んとなっている。個人単位での観光旅行の中に、現地の囲碁組織の協力によって囲碁交流のイベントが組み込まれることも行われている。

出典:wikipedia

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