信夫橋(しのぶばし)は、荒川(阿武隈川支流)の最下流部に架かる橋で、福島県道148号水原福島線(奥州街道)を通す。北岸は福島県福島市柳町、南岸は南町である。古今を通じて福島を象徴する名橋であり、江戸時代には福島城下町の玄関口として、現在は福島市街地の玄関口として機能している。記録が残る名前が付けられた架橋としては6代目、『信夫橋』を名乗った橋梁しては現在4代目にあたる。鉄筋コンクリートオープンスパンドレルアーチ橋で橋の長さ185.01m、幅員11m。江戸時代より福島城下に通づる奥州街道の橋として『須川橋』『ガンタラ橋』の名で親しまれてきた。北岸の福島城下側には水運の拠点福島河岸や奥州街道(下り)、米沢街道(板谷街道)があり、南岸の方木田村側には奥州街道(上り)、会津藩領へ通づる山王土湯道(土湯街道)が整備されていた。そのため歴代信夫橋や須川の渡しは重要な拠点であったことがうかがい知れる。1873年(明治6年)木製橋の『信夫橋(初代)』が架橋されたが老朽化が進み、1883年(明治16年)10月、豪雨によりついに落橋。ただちに県令三島通庸が県土木課八等出仕原口祐之に命じ、1885年(明治18年)7月15日に落橋の危険が少ないとされた石橋に架け替えられた。これが13連の眼鏡橋で有名な『信夫橋(2代目)』である。13個のアーチ状に組み上げた構造から十三眼鏡橋とも呼ばれ、信夫郡金谷川村から切り出した御影石を使い、美しい意匠から錦絵として全国に紹介された。しかし架橋から6年後の1891年(明治24年)6月、記録的な増水で落橋。当時の親柱は北側たもとの公園などに移築保存されている。『信夫橋(3代目)』は1897年(明治30年)に、洪水による流失を避けるために、木鉄混用下路式トラス橋として架設された。しかし木製トラス部分の腐朽が始まり、10年後の1907年(明治40年)に、この部分が鋼鉄に置き換えられている。現在荒川にかかっているのは4代目にあたる1932年(昭和7年)12月に竣工した鉄筋コンクリートの橋である。欄干は第二次世界大戦中に金属資源として供出されたが、1952年(昭和27年)に再び設けられた。当時は国道4号の橋であり車道も歩道も一体だったが、交通量が著しく増大してきたので車道を拡幅する必要が出てきた。1971年(昭和46年)に歩道用の橋が付け足され現在の形になっている。一見普通の桁橋に見えるが、荒川運動公園から見上げると先代を思わせるコンクリートアーチが望める。日本百名橋の1つに指定されている。その後1972年(昭和47年)の国道4号福島南バイパスの開通により、1988年(昭和63年)まで国道115号の橋として使われ、現在は福島県道148号水原福島線の橋となった。花崗岩石造十三眼鏡橋、長さは約191メートル(106間)、幅員は約7メートル(4間)。巨額の建設費が投じられ、福島町側(北詰部)には西の親柱に鶴 東の親柱に亀の彫刻など豪華な装飾が施された。その美しさから信夫橋は東の錦帯橋と称されていたほどの名橋であった。予算は5万円(1884年から1886年までの3年間で県より支出)、総工費 6万7千60円63銭6厘であった。江戸時代以前から須川橋が架かるまで須川(現在の荒川)を渡る手段であった。(上流) - あづま橋 - 東北新幹線須川橋梁 - 東北本線須川橋梁 - 信夫橋 - (阿武隈川へ)
出典:wikipedia
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