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松本清

松本 清(まつもと きよし、1909年(明治42年)4月24日 - 1973年(昭和48年)5月21日)は、千葉県東葛飾郡湖北村(現・我孫子市)出身の実業家、地方政治家。ドラッグストアチェーン日本最大手の「マツモトキヨシ」の創業者。東葛飾郡小金町議会議員(当時)、千葉県議会議員、松戸市長を歴任。貧しい農家の息子であった松本が小学生の頃、視学(現代の教育委員会の指導主事のような職業)が学校を出ようとしたとき偶々、所用で来校した県議会議員と鉢合わせになった際に、逆に視学が慌てて道を譲った。松本は県議会議員がそれほどまでに凄いのかと驚いて家に帰ってから母親に「大きくなったら県議会議員になりたい」と言ったところ、母親から「バカを言っているんじゃない」とこっぴどく説教をされた。それだけに、第二次世界大戦後松本が県議会議員になったと知った母親はただただ驚いたという。松本は元々松戸市に吸収合併された旧東葛飾郡小金町が地元であり、県議会議員の選挙区も初出馬当時に同町が属していた東葛飾郡選挙区から選出していた。従って小金町が松戸市と合併したからと言って松戸市選出議員との関係から選挙区を変えるわけには行かなかった。ところが、当時の市長がスキャンダルで引責辞任すると市政与党の自民党は適切な候補者が見つからなかった。そこで松本に出馬要請をしたものの、当人は松戸で選挙をしたことが無い事、健康面での不安を理由に一旦は固辞した。だが、当時松戸市を含む千葉1区(後に分区して4区)選出の衆議院議員であった当時の自民党副総裁川島正次郎が松戸市の危機であるとして自ら松本を説得して立候補を受諾させた。千葉県松戸市長在任中の1969年に「市役所は『市民に役立つ所・市民にとって役に立つ人がいる所』をモットーに、日本初の即応部門「すぐやる課」を市役所に設置。全国的に報道された。課長の臼井銀次郎を含め課員は2名であった。従来の地方行政では、緊急に対応が求められる事態に対しても、何重もの決裁が必要とされてすぐには対応が出来なかった。そこで松本はこの課を市長直属とすることで、機動性を確保しようとしたのである。部署名は“すぐ出来る事はすぐやる”から。この思想は日本各地の市区町村長などに支持され、同名部署や同じ役割の部課が続々とでき、1975年に全国315の自治体で採用された。なお、“すぐやる課”で対応出来ない件は担当部署に回付、“可及的速やかに”処置する事になっている。コロムビアからすぐやる課を題材にしたレコード『すぐやる課』(歌:仲清史)も発売された。また、1977年には、この課にヒントを得て製作されたテレビドラマ『すぐやる一家青春記』がTBS系列にて放送された。市長在職当時、県会議員選挙の投票率が低迷していたため、松本は、投票整理券の整理番号を用いてくじを実施しようと考え、公職選挙法を管轄していた自治省にお伺いを立てたが却下。しかし、くじを実施しても投票の公正性が害されることがないと考えた松本は、昭和44年12月の総選挙で「投票でカラーテレビを当てましょう」というキャッチフレーズと共にその案を実施した。景品はカラーテレビ、洗濯機、掃除機等でその金額は100万円を超えた。現在の「株式会社マツモトキヨシ」は、松本の逝去後、長男の松本和那(後に衆議院議員)により「有限会社マツモトキヨシ薬店」から1975年に改組。孫で元衆議院議員の松本和巳は取締役を務めていた(マツモトキヨシを参照)。現在の「株式会社マツモトキヨシホールディングス」の社長は松本の次男で薬剤師の松本南海雄(日本チェーンドラッグストア協会会長)、現在の「株式会社マツモトキヨシ」の社長は松本の孫の松本清雄が務めている。三男の松本鉄男も取締役である。ただし、この建物はいわゆる「記念館」ではなく、松本清の事績を記念して造られた、松本清の名を冠した一般的なビルであるため、上記の石碑を除き、松本清に関する展示などは存在しない。

出典:wikipedia

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