テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港(テッド・スティーブンス・アンカレッジこくさいくうこう、)は、アメリカ合衆国アラスカ州アンカレッジにある国際空港。2000年、アラスカ州の発展に功績があった同州選出のテッド・スティーブンス上院議員の名を冠するように改名した。シアトル・タコマ国際空港に次ぐアラスカ航空のハブ空港となっている。アンカレッジ国際空港は1951年に開港した。当初はアメリカ本土との間や隣国のカナダ、そしてアラスカ州内路線を中心にその路線網が敷かれていた。冷戦下における最大の仮想敵国であるソビエト連邦へは、近隣にあるものの、定期便は就航していなかった。1950年代後半以降、日本航空やエールフランス、スカンジナビア航空などによる日本とヨーロッパとの間の航空路が活発化したものの、前述の航空会社を含む多くの航空会社は、第二次世界大戦前から利用されていた東南アジアや中東、南ヨーロッパの複数の諸都市を経由し、20時間近い所要時間がかかる、いわゆる南回りヨーロッパ線を運航していた。日本とヨーロッパを結ぶ最短のシベリアルートは、当時のソ連当局が領空の通過に多くの制限を設けていたためにこれを使用できず、西側の多くの航空会社は、南回りヨーロッパ線と同時に、北極圏を通過する次善の北回りヨーロッパ線(「ポーラールート」)をとった。これは遠回りとなり飛行時間がかかる上に、当時の主力機材であったダグラスDC-7Cやロッキード コンステレーションは、ソ連を迂回して北極回りで日本とヨーロッパを結ぶ航続距離はなかったため、アンカレッジ国際空港での給油が必要であった。そこでアンカレッジ国際空港が、これらの航空機が給油のために寄港(テクニカルランディング)する空港として利用されることとなった。1960年代に入り、ボーイング707やダグラスDC-8などのジェット旅客機が就航してからは、同じく日本とアメリカ本土、特にニューヨークなどの東海岸や中西部の都市間を結ぶ航空機が、テクニカルランディングを行う空港として利用するようになった。1970年代に入って韓国や中華民国などの他の東アジア諸国の経済力が大きくなって以降は、これらの国の航空会社の利用も増加することとなった。このような事情を背景として、1960年代初頭から1990年代初頭に至るまで、アンカレッジ国際空港へはこれらのルートを飛行する航空機が、旅客便、貨物便を合わせて1日に数十機寄航し、国際線ターミナル内にはこれらの一時滞在旅客(給油中の1時間―2時間程度の間はターミナル内で過ごすことが可能であった)をもてなすための免税店やレストランが営業されており、特に便数の多くを占め利用客の多かった日本人旅客のために、日本語のできる従業員やうどんのメニューが用意されるほどであった。しかし、アンカレッジと東アジアの間、並びにアンカレッジとヨーロッパ間の航路は、ソ連の領空の真横を数時間に渡り飛行するために、度々ソ連防空軍機によるスクランブル事件や強制着陸事件が発生した。その様な中で、1978年4月20日には、パリからアンカレッジ国際空港経由でソウルへ向かう大韓航空のボーイング707が航法ミスによりソ連領空を侵犯し、コラ半島の上空でソ連防空軍機による銃撃を受け不時着する大韓航空機銃撃事件が発生した。さらに1983年9月1日(ソウル時間)には、同空港から飛び立ちソウルへ向かった大韓航空のボーイング747が航法ミスとされる航路離脱によりソ連領空を侵犯し、サハリン沖の上空でソ連防空軍機により撃墜される大韓航空機撃墜事件が発生した。これらの事件は、冷戦下においてソ連の領空に隣接した航空路を飛行する危険性を改めて認識させることとなった。日ソ間の航空交渉が進んだ結果、1972年には日本航空が自社運航便によるシベリア運航ルートを開設し、さらに1976年にはパンアメリカン航空が東京―ニューヨーク間の無着陸飛行のために特注したボーイング747-SPが就航し、アンカレッジ国際空港への寄港を取りやめた。これを皮切りに、1980年代中頃には日本航空やノースウェスト航空、エールフランス航空をはじめとする他の航空会社もボーイング747-200Bやマクドネル・ダグラスDC-10-30ERなどの、エンジンが改良され航続距離が向上した新型機を導入し、最大の便数を持つ日本とヨーロッパ、及びアメリカ東海岸との直行便を次々と開設したことから、アンカレッジ国際空港へ寄港する便数は減り始めた。また1990年代頭に冷戦が終結すると、ソ連政府は「領空通航料」の外貨獲得のため、シベリアルートの積極開放策に転じ、「アンカレッジ国際空港の最大のユーザー」と言われた日本航空もこれを受けて全ての便をシベリア経由に変更し、1991年にはアンカレッジ経由の北回りヨーロッパ線を廃止した。この政策はその後のロシア連邦政府にも引き継がれ、1990年代中盤に入ると給油のためにアンカレッジ国際空港へ寄港する国際線の旅客便は数えるほどになってしまった。給油のためにアンカレッジ国際空港に寄港する旅客便に代わり、これまでは主に北方にあるフェアバンクス国際空港を多く利用していた、アジアとヨーロッパ、及びアメリカ東海岸の諸都市を結ぶ積載重量の大きい貨物便の多くが、給油のために寄港するようになり、現在ではメンフィス国際空港、香港国際空港に次ぎ、成田国際空港を超える世界第5位(2010年現在)の繁忙な貨物空港に変貌している。アンカレッジはアメリカ国内やカナダ、そしてアジアやヨーロッパなどにおける北半球のどの主要都市にも3~9時間で到達できる位置にあるため、航空貨物を捌く空路拠点として最適な立地であること、また土地が広大であるため、貨物基地や倉庫に用いる安価な敷地が豊富にあること、そして今日では旅客便が少ないため、貨物便優先の発着が24時間体制で行えることなどが、アンカレッジ国際空港を理想的な貨物拠点とする理由になっている。その他、鉄道交通や港湾施設へのアクセスにも優れており、貿易拠点としても機能している。さらに、貨物便では輸送コスト軽減のため、意図的に給油量を減らすことで貨物積載量を増加させる手法が一般化した。そのため、給油中継地の必要性が再認識されてきたこと、そして電子機器類や冷凍魚介類など、航空輸送の需要が高まってきたことなど、航空貨物産業が成熟したこともこの空港に新たな活路をもたらす理由となった。アンカレッジにハブを置く航空貨物関係の企業は、アメリカの大手貨物航空会社のFedexやUPSを始め、日本貨物航空などを含め、30以上に上る。国際線の給油寄港便が減った現在は、旅客便は国内線のアラスカ州内便やアメリカ本土、ハワイ州への便がその多くを占めており、国際線は給油のための経由便は減り、アンカレッジ国際空港発のカナダへの路線が中心となっている。したがって、単純な発着本数で計算すると、貨物便より多くの航空機が当該空港を利用している。アジア方面の旅客便でアンカレッジを経由するのはエバー航空のニューヨーク→台北(台北発は直行)だけとなった。テクニカルランディング扱いでの寄航のため、旅客扱いをしていない(ターミナル内での休憩のみ)。また、日本との直行便を失い、シアトルやサンフランシスコなどでの乗り継ぎを強いられたために観光面で打撃を受けたアラスカ州政府は、日本との定期便再開を要望していた。その結果、2002年からは日本航空が釣り客などを主な対象にした夏季チャーター便の運航を開始し、2003年からはオーロラ観光客が集まる冬季へも運航期間を拡大した。これは現在でも続いている。昭和天皇と香淳皇后は、1975年の初のアメリカ公式訪問に先立つ1971年9月26日に、ヨーロッパ公式訪問の途上、給油地のアンカレッジに立ち寄っている。ただし、空港は施設及び行事の都合から近隣のエルメンドルフ空軍基地に変更されており、アンカレッジ国際空港に立ち寄ったわけではない。この際リチャード・ニクソン大統領とパット夫人はワシントンD.C.からアンカレッジまで赴き、日本航空のお召機のダグラスDC-8で到着した天皇と皇后を出迎えた。エルメンドルフ空軍基地の格納庫内で歓迎の辞・答辞が交わされた後、迎賓館に指定されたアラスカ地区軍司令官邸にて天皇・大統領間の会談が行われた。これは在位・在任中の日米元首による史上初の顔合わせであり、また昭和天皇即位後の最初の外遊のみならず、在位中の天皇として史上初めて外国の地に降り立ったことにもなる。沖縄が依然としてアメリカ軍の占領下にあった当時としては、天皇の訪米は時期尚早とみられていたが、日米関係は「繊維摩擦」などでギクシャクしており、ニクソン大統領は沖縄返還に先立つ天皇との会見を両国関係を修復するための千載一遇の機会と位置づけ、ワシントンD.C.から出向いて歓迎した。 など。
出典:wikipedia
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