草双紙(くさぞうし)とは、江戸時代中頃から江戸で出版された絵入り娯楽本、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の総称である。この「草」は、草競馬・草相撲・草野球などの「草」とおなじ「一般の〜」という意味合いを含むものである。絵草紙(えぞうし)・絵双紙(えぞうし)・絵本(えほん)とも呼んだ。各頁の挿画の余白に平仮名の説明を添え、童話から始まり、次第に成人向けに進化した。江戸の大衆本・江戸地本の中心を占めた。右左1頁ずつ振り分けに木版摺りした和紙を2つに折り、普通、その5枚(5丁)を糸で綴じた10頁分が1冊、その数冊で1編の物語だった。大きさは、赤本の初期には半紙判四つ切り二つ折りの赤小本(約8.4×12cm)もあったが、美濃紙半裁二つ折りの中本(約14×20cm)が主流だった。現在のB6よりやや大きい。合巻以外は、多く、漉き返し(再生紙)を使った。年末から新年にかけて一斉に販売され、購読のほかに正月の贈答目的などに使われた。赤本・黒本・青本・黄表紙・合本と、一部時期を重複しながら時代を下って行った。寛文期に始まり、元禄 - 享保期に盛り、寛延期まで刊行された。朱や紅で染めた表紙に、題箋を貼った。5丁1冊の1 - 2冊(10 - 20ページ)で1編だった。桃太郎・さるかに合戦・舌切り雀、花咲か爺などの昔話や絵解きなど、子供向けが主で、菱川師宣・近藤清春・鳥居清満・西村重長・奥村政信などの浮世絵師らが、本文も書いた。成人向けも次第に増えた。延享から宝暦期に流通した。黒地の表紙の左半に表題、右半に表紙絵を摺った。5丁1冊の2 - 3冊で1編。歴史物語、霊験記、武勇伝、軍記物、恋愛物、浄瑠璃・歌舞伎・謡曲のあらすじなど、話の幅が広くなった。赤本同様、主に鳥居清経ら浮世絵師が描いて書いたが、観水堂丈阿・甚四らの作者が書くこともあった。青本と前後して出回ったが、体裁が地味ですたれた。延享期に始まり、明和から安永の初期にかけて盛った。草の葉や梔子で表紙を黄色に染め、決して現在の青ではないが、当時は黄色または浅黄色を青と呼んだらしい。黒本同様、表紙の左半に表題、右半に表紙絵、2 - 3冊で1編。黒本と前後して流通し、内容も似て、同一作品の黒本と青本もあったが、時代と共に色恋・遊郭・滑稽・諧謔ものが増えた。多く、絵師が描いて書いたほか、鳥居清倍・富川房信・鳥居清経などの絵師と、観水堂丈阿・柳川桂子・和祥などの戯作者との分業もあった。1775年(安永4年)、恋川春町が描いて書いた『金々先生栄花夢』以降の、知識層向け文芸作品に飛躍した青本が、のちに黄表紙と呼び分けられた(渓斎英泉は『続浮世絵類考(1833)』の中で、「黄表紙」の語を使っている)。発売当時は青本の新刊だったが、大田南畝は1781年に、式亭三馬は1802年に、『金々先生栄花夢』のそれぞれ物語と挿画が画期的だったことを認めている。古典をもじり、洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を漫画的に描き綴ったもので、朋誠堂喜三二、芝全交、唐来参和、山東京伝らが続いたが、松平定信の寛政の改革時(1787年- 1793年)に、多く発禁にされた。内容を真面目にせざるを得ず、仇討ち物に方向転換し、結果として話の筋が長くなり、文化年間に合巻と交代することになった。黄表紙が長編化し、5丁1冊の冊数が増え、10 - 15丁を纏めて綴じたのが合巻で、1804年(文化元年)の、春水亭元好作・二代目歌川豊国画『東海道松之白浪』が最初とされる。表紙に『全部十冊合巻』と横書きしてある。1806年(文化3年)の、式亭三馬の『雷太郎強欲悪物語』が最初との説は、三馬の自己宣伝に発すると言う。初めは仇討ち物が多かったが、飽きられてお家騒動物に移り、次第に多様になり装丁も派手になった。そして水野忠邦の天保の改革(1841-1843年)で再び取り締まりの対象となりしぼみ、幕末に再び盛んになったが一方で作品の質は落ち、明治に入って消滅した。山東京伝、式亭三馬、十返舎一九、曲亭馬琴、柳亭種彦、山東京山などが、盛期の合巻の作者だった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。