藤原 朝光 (ふじわら の あさてる /あさみつ)は、平安時代中期の公卿。関白太政大臣・藤原兼通の四男(三男とも)。応和3年(963年)叙爵(従五位下)すると、侍従・右兵衛権佐・右近衛少将を経て、天禄3年(972年)には長兄の顕光に先んじて従五位上に叙せられる。同年父・兼通が関白として太政官の首班に立つとその後押しを受け、天禄4年(973年)正五位下・左近衛中将、天延2年(974年)には正月に従四位下、2月蔵人頭、4月参議と急速に昇進し、藤原忠平の曾孫の世代としてはいち早く公卿に列した。さらに翌天延3年(975年)に上位者5人を超えて従三位・権中納言、貞元2年(977年)には27歳で従二位・権大納言兼左近衛大将と、引き続き順調に昇進を重ねた。しかし、同年の父・兼通の薨去以降は昇進が停滞し、円融朝後半には藤原兼家・源重信に大納言への昇進で先を越される。永観2年(984年)正二位に叙せられ、同年10月に即位した花山天皇の後宮に長女・姚子を女御として入内させる。姚子は入内後1ヶ月ほどは寵愛を受けるものの結局天皇とうまくいかず、入内後数ヶ月で宮中を退出して里邸に戻ってしまい、朝光は後宮対策にも失敗してしまう。寛和2年(986年)一条天皇の即位後まもなく大納言に任ぜられるが、永延3年(989年)天皇の外伯父にあたる権大納言・藤原道隆が朝光を追い越して一挙に内大臣に昇進すると、朝光は重病を理由に左近衛大将を辞任する(後任の左大将は道隆)。その後も同じく天皇の外戚にあたる藤原道兼・伊周らが次々と大臣に昇進する傍らで朝光は大納言に留まるが、一方で酒を通じて藤原道隆・済時と格別に親しく交わり、永祚2年(990年)以降の道隆執政下の宮廷に自由な気風をもたらしたという。長徳元年(995年)に大流行した疱瘡により、道隆・済時らと相前後して世を去った。享年45。最終官位は正二位大納言兼行按察使。気立てや容貌に優れ、兄弟の中でも格別に人望があったという。また、社交家で華美を好み、矢の筈を水晶で製することを考案し流行させたという。歌才もあり、『拾遺和歌集』(4首)を初めとする勅撰和歌集に27首が入首、小大君や馬内侍といった同時代の女流歌人達と恋愛関係を持ったことでも知られる。家集に『朝光集』を残している。当初重明親王の娘を妻としたがのち離縁し、親くらい年上で年齢の離れた未亡人を後妻とした。この理由について、前妻が貧乏であった一方で後妻が裕福であったとする話と、前妻の性格は子供っぽいが後妻は才知に優れていたとする話がある。
出典:wikipedia
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