普天間飛行場(ふてんまひこうじょう、Marine Corps Air Station Futenma)は、日本の沖縄県宜野湾市にある在日米軍海兵隊の軍用飛行場。通称は普天間基地(ふてんまきち、MCAS FUTENMA)。2,700mの滑走路を持ち、嘉手納基地と並んで沖縄におけるアメリカ軍の拠点となっている。周りに住宅がある。宜野湾市は沖縄本島中部、那覇市の北約10kmにある。普天間は宜野湾市の地名から命名。普天間飛行場(FAC6051)は宜野湾市大山二丁目に所在しており、その面積は約4.8kmである(宜野湾市野嵩・新城・上原・中原・赤道・大山・真志喜・字宜野湾・大謝名にまたがる)。これは宜野湾市の面積(19.5km)の約25%にあたる。普天間飛行場を見渡せる場所として、佐喜眞美術館や嘉数高台公園などがある。宜野湾市は過去に発行した広報資料にて那覇都市圏を構成する沖縄県の中でもっとも人口が過密な地帯の一部であり、普天間飛行場、キャンプ・フォスター(FAC6044、面積:160ha)、陸軍貯油施設(FAC6076、面積2ha)を除くと使用可能な市域の面積が1294haとなり、1995年の時点で人口密度(約6252人/km)になると説明している。これは、横田飛行場周辺自治体の人口密度に概ね相当する。基地の周りに住宅地が密集している状況にあり、朝日新聞社発行の『知恵蔵』では「世界一危険な基地」とされているが、これについては二つの側面がある。ひとつは、普天間基地の周辺は沖縄戦での激戦地区で、戦後は、日米両軍の不発弾の埋もれた危険地域であり、米軍により不発弾処理がなされたあと、民間人の収容所として確保された点である(もともとの住民が戻ってきただけという話もある)。もうひとつは、基地建設後、本土復帰以降に顕著となった日本政府の思いやり予算に則した基地行政などにより、周辺住民が基地に依存した地域社会を形成し現在のような住宅密集地域となったという意見もあるが、那覇市のベッドタウンとして発展しており、那覇へ近い南西側の海浜地区の発展が著しく、普天間基地は市の発展に地勢的に蓋をしている現状がある。本飛行場は航空基地として総合的に整備されており、滑走路のほか、駐留各航空部隊が円滑に任務遂行できるための諸施設として、格納庫、通信施設、整備・修理施設、部品倉庫、部隊事務所、消防署、PX(売店)、クラブ、バー、診療所などが存在する。第二次世界大戦中にアメリカ軍によって飛行場が建設される前のこの地域にはいくつかの泉が存在し、それらを水源に畑作が営まれる丘陵地であった。また本島南部の那覇や首里と北部の国頭(くにがみ)を結ぶ交通の要衝でもあり、琉球松の並木道が続いていたという。水や交通の要衝であったことから、戦前は「宜野湾」、「神山」、「新城」という集落が街道沿いに存在していた。特に旧宜野湾は宜野湾村の中心で多くの民家が建ち並び、松並木街道沿いには郵便局、宜野湾国民学校、役場等の公共機関や商店などもあった。また、畑作が営まれる丘陵地には「屋取集落」と呼ばれる旧士族が開墾のため開いた散村形態の集落も分布していた。『宜野湾市史 第1巻通史編』第6章、FAC 6051 普天間飛行場 (「第8章 基地の概要 第1節 米軍の施設別状況」内『沖縄の米軍基地 平成20年3月』 P218-222 沖縄県基地対策課HP)等を参考に記述。墜落事故、移設問題などは別記。1972年の沖縄の日本への復帰が決まった後、那覇基地の所在海兵部隊を本飛行場に移転することが決められた。基地施設の建設・整備を担当する陸軍工兵隊は復帰に伴う接受国建設工事計画を策定し、これは沖縄復帰関連建設工事計画及び日本施設調整計画として知られている。復帰関連建設工事計画は更に施設移設計画と施設整備計画に分かれ、日本政府が資金を提供して代用の新施設を建設する。移設計画に基づき日本政府が米軍に提供する施設は、同等原則、つまり同面積の設備に対して同面積の設備、ある機能に対してはそれと同等の機能を提供することを基礎としている。この計画を練る際に問題となったのは、日本側と相容れない設計と建設基準、環境基準の問題であり、それまでの米軍施設建設工事で求めてきたように、建設の質がアメリカの基準に合致するように努力された。本飛行場も移転と再編成に伴って幾つかの建設工事が実施されることとなり、その設計を担当したのは太平洋管区下の西太平洋本部技術部であった。西太平洋本部は沖縄返還に伴う工兵隊太平洋管区の組織改正で廃止され、新たに日本地域工兵隊を創設してその中に組み込まれた。しかし、那覇の側では早期に工事を実施したものの、本飛行場では日本政府の接受国建設工事着手は遅延し、建設が始まったのは1973年夏のことであった。移設工事は何期かに渡って計画され、第1期計画は1975年4月に一応完了した。日本地域工兵隊とその下の沖縄事務所は基準を無視したり不適当な材料を使用する一部の日本の業者と度々衝突した。最終的には業者を教育することに成功したが、環境関連のようにその後も日本側の理解に問題があるとみなされ続けた分野もあった。第1期計画では海軍と海兵隊の工事として運用棟、高性能火薬庫、ミサイル整備棟、工場、格納庫が建設されたという。ただし、『極東の城』ではこれらをまとめて記述しているため、どれが普天間で実施した工事かは不明である。その後、本飛行場での工事は1970年代末の第3期計画で再度俎上に上り、内容は滑走路と各種雑工事であった。復帰時の面積は495ha余りで、その後宜野湾市消防庁舎、道路用地、普天間第二小学校校庭用地の一部などとして一部土地が返還され、2000年3月31日時点での数字として480haとなっている。現在でも、普天間飛行場が占める土地のうち、およそ92%は私有地である。このため、賃借料が地主に支払われており、2000年代は60億円台で推移しているが、地主数は1976年の1888人から1992年の2164人、2007年の3031人と増加傾向にある。"※本飛行場の返還を巡る動きについては、普天間基地移設問題を参照。"『宜野湾市史 第1巻通史編 第6章』を参考に記述。本飛行場に関わる主な(これらは墜落ないし死亡を伴う)航空機墜落事故は次のとおりである。この他にも機体トラブルによる緊急着陸や不時着などがある。復帰以降の事故発生件数についての統計は2002年12月末時点で固定翼機8件、ヘリ69件の計77件であり、復帰後から同時点までの沖縄県内米軍航空機事故217件の内35.5%を占める。この間の死亡者は全て米兵であるが、民間人の死亡者を伴うような重大な事故の危険性が指摘されてきた。林公則はアメリカの情報公開法を使って普天間などの米軍基地における燃料漏れ事故の情報を入手し、琉球新報等で公開している。それによれば、普天間では1999年から2006年までの8年間で16回発生しているが通報されたのは1回だけであると言う。一方、事故件数は同期間の横田の90回よりは少ないが、これは空軍と海兵隊の指令の違いによると分析している。本飛行場に関係する周辺対策事業は他の自衛隊・在日米軍施設同様「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」を根拠法とし(以下本節で同法と呼ぶ)、下記が実施されてきた。本飛行場の特徴は、本土の基地では1960年代から開始されている事業でも、日本国の周辺対策事業としては開始時期が1972年度の本土復帰以降となっていることである。一般的に、周辺対策事業は下記の4種に区分され、その他にも基地関連事業として幾つかが制度化され、島田懇のように沖縄固有のものもある。なお、下記は一定期間の総計値であるが、単年度に占める額としては1997年度の宜野湾市の場合で歳入(236億円)の5・9%余りである。なお海兵隊サイドには日本側(防衛担当部局、県、市等)との折衝のため在沖米海兵隊普天間航空基地渉外官が配置されている。障害防止対策事業(同法3条に基づく)の内一般障害防止については、本飛行場の設置に伴う形質変更に起因する洪水被害の障害を防止、または軽減するための排水路改修工事への助成があり、1972年度から1992年度まで宜野湾市34億円の助成を実施した。学校等の公共施設の騒音防止対策事業としては、航空機騒音の防止・軽減対策として1974年度から1999年度まで、宜野湾市をはじめとする関係自治体に対して総計225億円の助成を実施した。また、当該工事を実施した施設の内小学校、中学校、高等学校、幼稚園、保育所に設置した空気調和設備の稼動に伴う電気料金についても助成を実施し、1999年度までの総計では38億円となっている。住宅防音工事(同法4条に基づく)については宜野湾市、浦添市、北中城村において1979年度より助成を開始し、1999年度時点で約17000世帯に対して308億円が投じられている。また、当該工事により設置した空気調和設備の機能復旧工事(経年劣化による設備更新など)に約3億円を助成した。1999年度より新規施策として生活様式の変化に適応するための防音区画改善工事(バリアフリー住宅等に対する住宅防音工事)などにも助成を実施している。また、障害防止工事の助成の中には航空機の墜落の際の緊急避難・消防活動に益することを名目として宜野湾市の道路改修(拡幅)に助成されたものがある。なお、他基地で実施されている移転補償(同法5条)については実施していない。民生安定施設の助成は同法8条に基づく。一般助成事業として、屋外運動場、体育館、特別集会施設、無線放送施設等の生活環境施設を主体として、その他花卉類の集出荷施設、栽培用温室、農民研修施設等の事業運営の安定に寄与する施設について、1979年度より助成を開始し、1999年度時点で総計は約28億円となっている。防音助成事業として、学習等供用施設、公民館、保険相談センター、庁舎等について、1964年度から助成を開始し、1999年度時点までで総計38億円となっている。道路改修事業については1977年度より開始し1999年度までで約27億円を助成している。道路については同法関係以外にも返還道路整備事業による整備があり、複数の制度にまたがって実施されている。更に、同法9条に基づき、特定防衛施設周辺整備調整交付金を宜野湾市に対して、1975年度より交付開始し1999年度まででは総計約15億円となっている。用途としては道路、排水路、学校施設等の公共用施設の整備及びこれらの用地購入である。この交付金について、宜野湾市議の中には他の事例に比較し少ないと主張する者が居る。上記とは別に、本飛行場を初めとする沖縄米軍基地問題の全国的な注目によって、1997年度より「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」(通称、島田懇)が設置され、宜野湾市など本飛行場周辺自治体も参加している。島田懇は内閣官房長官に事業の提案を行い、予算化される。国側の窓口機関としては当初防衛施設庁那覇防衛施設局(防衛省統合後沖縄防衛局)が一部を担当している。事業の目的としては「継続的な雇用機会を創出し、経済の自立に繋がるもの」「近隣市町村も含めたj広域的な経済振興や環境保全に役立つもの」などが掲げられている。一例としては宜野湾市が2001年度より建設を計画した宜野湾マリン支援センター整備事業などがある。普天間飛行場は一貫して軍用飛行場として、軍用機及び軍による民間チャーター機に使用されてきたが、例外的に民間機の定期便の発着が行われた事例が存在する。那覇空港滑走路補修工事に伴い、1969年1月27日から31日までの間、南西航空(現・日本トランスオーシャン航空)の発着に使用されている。なお、その他の航空会社は嘉手納飛行場を使用した。毎年8月頃には本基地の一般開放イベント「フライトラインフェア」が開催され、嘉手納飛行場でのイベントと人気を二分(冬に実施される那覇空港での航空自衛隊による那覇航空祭を加えれば三分)する人気となっている。しかし、『航空ファン』2010年6月号によれば、2001年のアメリカ同時多発テロ事件や2004年の沖国大米軍ヘリ墜落事件を経て年々警備が厳しくなり、来場者にとって持ち物検査は要注意対象となっている。一般の基地開放と異なる点は身分証の提示が厳密化しているほか、2009年より一眼レフカメラとビデオカメラの持込みが禁止となっていることであり、規則を守らない者には退去が命じられているという。2009年の実績では持ち込み可能なのはコンパクトデジタルカメラまでであった。警備には沖縄県警より機動隊員が動員されており、基地周辺で撮影を行うスポッターに対しても職務質問が実施されている(警察マニアにとっては警備そのものも目標であるためある種のチャンスではある)。県外にはこのような情報は中々伝わらないので同誌はこのイベント目当てで来沖する人に注意を呼びかけている。一方、駐車場については会場に隣接して設けられており、初めての来場者でも余り問題がない。他の開放イベントで見られるように基地内へのシャトルバスも運行されている。
出典:wikipedia
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