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ジャック・デリダ

ジャック・デリダ(Jacques Derrida、1930年7月15日 - 2004年10月8日)は、フランスの哲学者である。フランス領アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種、差延等の概念などで知られる。エトムント・フッサールの現象学に関する研究から出発し、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの哲学を批判的に継承し発展させた。哲学のみではなく、文学、建築、演劇など多方面に影響を与えた。またヨーロッパだけでなくアメリカ、日本など広範囲に影響を与えた。国際哲学コレージュの初代議長でもある。代表的な著作に『グラマトロジーについて』、『声と現象』、『エクリチュールと差異』などがある。1930年7月15日、当時フランス領アルジェリアのアルジェにあるエルビアールという町で、ピエ・ノワールと呼ばれるユダヤ系フランス人家庭に生まれた。父はジェオルジェット・エメ・デリダ、母はスルタナ・エステル・サファ。家族の祖先はセファルディムであり、1870年にフランス国市民権を取得した。五人兄弟の三男で両親はハリウッドの映画俳優にちなんでジャッキーと名付ける。のちパリに出て、「正しい読み」としての「ジャック」に本人が変更した。リセではサッカーを好み、将来の夢はサッカー選手だったという。精神的な危機のなか、ルソーやアルベール・カミュ、ニーチェやアンドレ・ジッドなどを読む。パリに出てリセ・ルイ・ル・グランに学ぶが、なじめなかったという。2度の受験に失敗したのち、1951年、エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)に入学する。エコール・ノルマルではルイ・アルチュセールやミシェル・フーコーの講義に出席し、のち友人となった。このころにハイデガー、キルケゴールなどを読書後、エトムント・フッサールの現象学を研究することを決意し、ベルギーのルーヴェンにある「フッサール文庫」に行く。1954年のアグレガシオン(教授資格論文)はフッサールについてのものだった。のち1990年に『フッサール現象学における発生の問題』として出版。教授資格論文の指導教官はジャン・イポリットとモーリス・ド・ガンディヤックで、ほかにこの時点ではチャン・デュク・タオや、数学者・哲学者のジャン・カヴァイエスにも影響を受けた。アグレガシオンには落第するが1956年に合格する。ハーヴァード大学に留学し、1957年には精神分析を研究していたマルグリット・オークチュリエとボストンで結婚。同年より1959年までのアルジェリア独立戦争中には軍事学校で兵士たちにフランス語や英語を教えていた。ジャック・ラカンの熱心な生徒だった作家フィリップ・ソレルスの主宰する「テル・ケル」グループと親交をむすぶ。1960年から1964年にかけてソルボンヌ大学で哲学講師。1962年にはフッサールの『幾何学の起源』に長大な序文をつけ翻訳出版し、ジャン・カヴァイエス賞(エピステモロジー賞)受賞。注目を集める。1963年に長男ピエールが生まれる。アルチュセールとイポリットの推薦で1964年から高等師範学校の哲学史講師。のち同校哲学教授となり、1984年までつとめる。1966年にはジョンズ・ホプキンス大学で教鞭をとり、当時米国で開催された会議での発表"Structure, Sign, and Play in the Discourse of the Human Sciences(人間科学の言説における構造、記号、遊戯)"で、クロード・レヴィ=ストロースを批判し、有名になる一歩を踏み出した。同会議でポール・ド・マンやジャック・ラカンと知り合う。1967年には次男ジャンが生まれる。同年、『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』を続々と発表し、以降、哲学界に影響を与え続けた。1968年以後、デリダは1970年代から80年代にかけて哲学教育運動を展開する。1968年の五月革命以降、当局は時間数を削減したり、必須制を自由選択制にしたり、教員数を削減するなど哲学教育を抑圧(弾圧)し、産業社会の要求にそう実用的な教育政策方針をとった。これに対してデリダら教員と学生あわせて30名ほどで1974年4月、この問題に対処するための「哲学教育研究グループ」(Groupe de Recherches sur l’Enseignement PHilosophique・GREPH)を結成した。以降、文部省改革案への反対表明など、さまざまな批判運動を展開する。このなかでデリダは、哲学教育を削減するのではなく、むしろ時間数を増やし、学習開始年齢を引き下げよという提言を行なった。デリダはインタビューのなかで「17歳か18歳以前に哲学を学ぶことは不可能であり、危険であると、プラトン以来信じられてきましたが、これには一体、どんな政治的ないし性的理由があるのでしょう?」と問いかけ、「フランスで第六学級・第七学級と呼ばれている児童、10歳や11歳の子供たちに哲学を教えてみましたが、非常に成功しました。若い少年少女たちは哲学に興味をもつだけでなく、哲学を必要とし、それを楽しんでいました。難解なテクストと思えるものにも十分取り組んでいました」と自身の実験を報告している。1978年12月、仏語および英語圏アフリカ哲学者連合国際コロキウムで「哲学教育の危機」を講演。1979年6月、ソルボンヌで公開討論会「哲学の三部会」が開かれ、委員の中には、デリダ、ドゥルーズ、リクール、ジャンケレヴィッチ、シャトレ、ナンシー、ラクー=ラバルトらがいた。1981年に成立したミッテラン政権はこの運動を支持し、1983年、「国際哲学コレージュ」が創設された。デリダは初代議長に就任、フランソワ・シャトレらとともに運営を行う。翌年、ジャン=フランソワ・リオタールが議長に就任。こうしたデリダの教育運動はのち『哲学への権利について/法から哲学へ』(1990年)にまとめられた。1983年には映画監督Ken McMullenの映画「ゴーストダンス」でテキスト提供や出演もおこなう。1984年から2004年に没するまで、パリの社会科学高等研究院(Ecole des Hautes Etudes en Sciences Sociales:EHESS)で研究ディレクターを務めた。1986年、カリフォルニア大学アーバイン校(UCI)人文学教授。なおデリダ死後、生前UCIに非公式に遺稿を譲与する約束をしていたとして、大学と遺族との間に法的折衝があった。ほかアメリカではイエール大学、ニューヨーク大学、ストーニー・ブルック大学、新社会科学研究院(The New School for Social Research)などでも教鞭をとった。アメリカ学士院(American Academy of Arts and Sciences)会員。2001年フランクフルト大学からアドルノ賞受賞。ケンブリッジ大学、コロンビア大学、新社会科学研究院、エセックス大学、ルーヴェン大学、ウィリアムズ学院、シレジア大学から名誉博士号授与。ケンブリッジ大学名誉博士号授与の際には大変な議論が起こり、クワインらが反対したことは有名である 。2002年映画『デリダ』出演。2003年 膵癌に罹る。モーリス・ブランショの葬儀で弔辞を読む。2004年にパリにて没す。デリダは現象学と構造主義から強い影響を受けつつ、両者を批判するなかで思想を構築していった。現象学から発生的観点を継承し、はじまり・起源の問題を批判的に論じた。同時に発生的アプローチに対しては構造主義的な観点から批判した。フッサールの「意識への直接的な現れ」を基準とする現象学的方法についてデリダはのちに「現前性の形而上学」の一事例として批判的に参照するようになる。1962年、フッサールの論文への序説『「幾何学の起源」序説』について後年のインタビューでデリダは、この著作のプロブレマティックにはすでに「差異・差延」のアイデアがあり、意識、現前、科学、歴史、科学の歴史、起源の消失または遅延などについて論じており、『声と現象』と連携したものであるといっている。なおデリダは『声と現象』を自分の著作のなかではもっとも好きだといっている。論文「発生、構造、現象学」(1959)では「構造は生成を持つべきではないのか?そして起源、すなわち発生点は、生成するためにすでにあらかじめ構造化されているのだろうか?」と問うている。デリダはあらゆる構造的ないしサンクロニック(共時的)な現象は歴史を持ち、そして構造はといえば、その発生ないし生成の側面も考えないと理解することはできないとする。なお「脱構築」という訳語は英文学者の由良君美が考案した。『グラマトロジーについて』ではジャン・ジャック・ルソーの言語起源論を、およびクロード・レヴィ=ストロースの「戦闘的ルソー主義」、そして「人間科学」という概念を緻密に批判した。グラマトロジー (Grammatologie)とは「文字、アルファベット、音節区分、読解およびエクリチュールについての論説」(リットレ辞典)であり、アメリカの古代史・アッシリア学者イグナス・ゲルブ(Ignace Jay Gelb)の「A Study of writing,the foundation of grammatology(1952)が初出であるという。しかゲルプのこの本は「一元的起源と多元的起源にかんする仮説を提出しているにもかかわらず、エクリチュールの古典的歴史のモデルに対応している」という。プラトンの「パイドロス」や「メノン」からヴィーコ、ジョン・ウィルキンス、ロック、ウォーバートン、ライプニッツ、キルヒャー、デカルト、ソシュール、フッサール、レヴィ=ストロースにいたるまで連綿と続くある思考形式のパターンすなわち、エクリチュール(書き言葉・書字・書記)を代補(サプルマン。英語でサプリメント)とし、パロール(話し言葉)を真なるものとする音声ロゴス主義・音韻論主義(Phonologism)を批判し、西洋形而上学が一貫して現前性を真理の基準としてきた(現前の形而上学)ことを指摘する。こうした一連の哲学史の脱構築の手法の先例にはハイデガーの哲学史研究があり、ハイデガーは『ニーチェ』において、フリードリヒ・ニーチェを西洋形而上学の最後の哲学者とみなしている。なおデリダは同じような言い方をハイデガーにもふりあてている。デリダはそうしたハイデガーの仕事を晩年に渡るまで詳細に読解しながら、思考を続けた。デリダはまた「グラマトロジーは人間科学のひとつであってはならない。なぜならそれは人間という名前にたいする問いを定立するからである」とし、領域科学に構造的に内在する「ヒューマニズム(人間中心主義)」を批判した。当時、フランスをはじめとして構造主義は知的流行として一大流行していたが、デリダのこれらの批判的な仕事を巡る議論によって、のちに「ポスト構造主義」または「ポストモダン」という潮流の首領としてデリダはみなされるようになる。ただし、デリダ自身は、それらの呼称を自称していない。1970年代には、以降、「散種」『弔鐘』(1974)『絵葉書 ─ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』(1980)を著述、『弔鐘』ではジュネとヘーゲル論を交差させて論じている。また「有限責任会社」や「署名、出来事、コンテクスト」などの論文でオースティンの言語行為論を批判的に検討し、英米系の分析哲学界と議論をした。なかでもジョン・サールとは応酬を繰り返した。1987年にはCIPH会議において「ハイデガー:開かれた問い」と題した論考を発表し、のち『精神について』と題して出版。1927年の時点では「精神(ガイスト)」はハイデガーにとって哲学的な概念のひとつにすぎなかったのに、1933年のナチスへの加担以降「ドイツ的精神」を思考するようになるどころか、それを体現するかのような身振りをはじめるが、デリダはそうしたハイデガーにおける思想の変遷を辿りながら、人間と動物の分割、技術、哲学の本質としての問いの特権性の三つの要素に重点を置いて分析した。この『精神について』はヴィクトル・ファリアスらのナチス加担論への批判的応答を動機としたものであったが、1980年代にゼミナールの研究主題であった「哲学とナショナリズム」において進められた思考をまとめた最初の著作であった。以降、政治哲学的な作業にデリダは集中していく。デリダは1990年代に「政治的転回(転向)」をしたとも評され、ベンヤミン論を含む「法の力」(1990)、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」をひとつの症例として批判的に考察した部分を含む「マルクスの亡霊たち」(1994)、カール・シュミットを詳細に論じた「友愛のポリティックス」(1994)などを発表していく。政治問題を語ると同時に倫理学的な作業も行い、とりわけ聖書におけるアブラハムとイサクの犠牲の問題を『死を与える』『歓待について』などで論じる。『死を与える』ではヤン・パトチカ(パトチェカ)が読解された。この時期の主題には、法、正義、責任、友愛、歓待などが論じられ、法哲学や社会哲学、生命倫理学の領域にも影響を与える。またデリダの倫理論にはエマニュエル・レヴィナスの影響が強い。またこの後半期にはブランショ論や、ツェラン論、詩についても著述している。デリダは、以下に挙げる思想家や哲学者と論争し、または批判を受けた。デリダの脱構築の思想は哲学だけにとどまらず、文学理論、政治哲学、法哲学、建築等に影響を与えている。デリダの思想に積極的に関連しているとされる人々のことを、デリダ派(脱構築派)(, )あるいはデリディアン(, )といい、デリダ派として自身を見なしあるいは見なされている人々には以下がいる。日本ではなどが影響をうけ、デリダをひろく知らしめた。ほか、日本におけるデリダ研究者・翻訳者としては、高橋哲哉、鵜飼哲、小林康夫、藤本一勇、宮﨑裕助、増田一夫、港道隆、西山雄二らがいる。

出典:wikipedia

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