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つかこうへい

つか こうへい(1948年4月24日 - 2010年7月10日)は、日本の劇作家、演出家、小説家。本名、金 峰雄(キム・ボンウン、)。日本国内での通名、金原 峰雄(かねはら みねお)。福岡県嘉穂郡嘉穂町(現・嘉麻市)牛隈生まれ。国籍は大韓民国。三男一女の二男。血液型A型。生前は東京都北区に在住し、同区のアンバサダーも務めた。嘉穂町立大隈小学校、嘉穂町立大隈中学校、福岡県立山田高等学校卒業、慶應義塾大学文学部哲学科中退。慶應義塾大学在学中にアルバイトで予備校の講師をしていた時に、生徒から依頼を受けて芝居の戯曲を書いた事がこの世界に入るきっかけとなる。学生劇団「仮面舞台」早稲田大学「暫」に加わり、そこで当時早稲田の学生だった三浦洋一や平田満などと出会う。大学在学中からアングラ演劇第二世代の劇作家、演出家として活動を始め、"つかこうへい以前(第一世代)"、"つかこうへい以後(第三世代)"と呼ばれる程の一時代を築き、1970年代から1980年代にかけて一大 "つかブーム"を巻き起こした。在日韓国人二世であり、このペンネームは、集英社文庫『飛龍伝~神林美智子の生涯』のあとがきの中では、「激動の1960年代を駆け抜けた中核派の学生運動家・奥浩平氏の名前がペンネームの由来」と明かしている。在日に対する不公平に対し「いつかこうへいに」の思いも込められている。全部平仮名にした理由については、新聞のインタビューや光文社刊の『娘に語る祖国』の中で、「日本語がわからない母にもわかるように」「漫画家ちばてつやさんのファンで、自分も全部平仮名にした」と答えている。1974年、劇団『つかこうへい事務所』を設立。1980年に熊谷真実と最初の結婚。しかし1982年に離婚し1983年元つか劇団の女優・生駒直子と再婚(松竹の映画監督だった生駒千里の娘)。つかこうへいが帰化していない為、夫婦別姓の形をとった。生駒との一人娘は、元宝塚歌劇団雪組トップ娘役・愛原実花(本名・生駒みな子)。1982年、劇団『つかこうへい事務所』解散。一時、執筆業に専念する。1987年4月、初めて韓国の地を踏む。同年11月、ソウルで韓国人役者による『熱海殺人事件』を上演し大成功を収める。この時の出演者(4人)は後に韓国を代表する俳優となり、ヒロインを演じた金知淑(キム・ジスク)の弟である金知雲(キム・ジウン)は、再度姉が出演した『熱海殺人事件』と新たに『蒲田行進曲』の舞台を演出し、その後韓国映画界を代表する人気映画監督となる等、韓国演劇・映画界に多大な影響を及ぼした(この時のことをエッセイ『娘に語る祖国』※光文社刊 に綴り在日韓国人二世である事も公表。ベストセラーとなった)。1994年4月、東京都北区と協力し、★☆北区つかこうへい劇団を創設。日本で初めて行政のバックアップを受けた劇団として多くの関心を集めた。その後も、1996年、大分県大分市と協力し、大分市つかこうへい劇団を創設。(2000年12月解散)。1998年には、北海道北広島市に『つかこうへい北海道演劇人育成セミナー』を開設し、地方からの文化発信を目標に演劇育成に尽力した。1999年4月にはソウルで大分市つかこうへい劇団による韓国初の日本語公演(「熱海殺人事件・売春捜査官」)を行った(金大中大統領による日本文化開放の最初の目玉として、日韓両政府が正式認可した初の日本語による上演)。2010年1月に自ら肺ガンに罹患していることを公表。その後は千葉県鴨川市の入院先で抗がん剤治療などを続けてきたが、7月10日午前10時55分家族に看取られながら息を引き取った。。奇しくも宝塚大劇場で愛娘・愛原の退団公演の最中であった2011年3月、日本人に多大な影響を与えた劇作家・演出家として、韓国公営放送局MBCが1時間の報道特集番組を制作(『MBCスペシャル ~金峰雄とつかこうへい~』)。生前に本人が『自分が亡くなったら公開して欲しい』と、最期のメッセージ(2010年1月1日付)を事務所スタッフに託しており、自身の遺志として『葬儀、お別れの会等も一切遠慮させて頂きます』『娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています』等と綴った文言が公表されている。2009年末に一時退院したが、その時には死を受け入れていた。つかこうへいには「口立て」という独特の演出法があった。基本的には稽古初日前までに戯曲(台本)を役者に渡し、役者は全て暗記して来るが、「作家が机の上で書く台詞は4割。あとの6割は稽古場で役者が自分に書かせてくれるもの」と語っている通り、稽古を重ねる毎に台詞が大幅に変わっていく。稽古場で役者を鋭く観察し、芝居の流れを見ながら頭に浮かんだ台詞を口頭で伝え、役者はその台詞を瞬時に暗記して復唱し芝居を続ける。稽古期間だけではなく、舞台初日から楽日までの間にも役者の成長や観客の反応等を見ながら台詞を変える為、初日と楽日では演出が異なり、つかファンは必ず初日と楽日のチケットを買い求めると言われる。また「間だの芸だのいらない。芝居はF1レース。0.01秒間違えると死ぬという真剣勝負を観に、客は来る。金を払って車庫入れを観に来る客はいない」という独自の持論を決して崩さなかった。その舞台の基本は、シンプルで最小限の大道具のみ。つか独特の演出法である場面転換は一切暗転を使わず、突然流れ出す大音量の音楽と歌。それに合わせて突如踊り出す派手なダンス。観客は一瞬何が始まったのかと唖然としている間に次の場面が始まる。「演出家の仕事は、漁師が、魚が知らないうちに網にかかってしまったというように、観客を演出家の網にかけること」と語っている。衣装はポイントの場面では付けるが、主役でさえ稽古着で登場することが多い。照明もダンスや歌、クライマックスの時だけ派手に使用して場面にメリハリをつけ、芝居が終了すると華やかな照明と共に役者全員がタキシードで登場しダンスを披露して幕が降りる。多くの脚本がキャストや設定を変えて何度も再演されているが、特に『熱海殺人事件』は再演の度に時代に合った新しいテーマが盛り込まれ先鋭になっている。かつて新聞記者達が選んだ《戦後の戯曲ベスト30》で『熱海殺人事件』は、三島由紀夫『サド侯爵夫人』に次いで二位に選ばれた。この作品は、つか作品全ての原型であり、シンプルながら激情に満ち溢れた戯曲の名作と言えよう。(バージョンとしては、『ザ・ロンゲストスプリング』『モンテカルロ・イリュージョン』『売春捜査官』『サイコパス』『平壌から来た女刑事』等)。こうした演出は多くの劇団、俳優に影響を与え、様々な劇団がつかこうへい作品を上演している。1980年代に企業出資の文化事業支援が盛んに行われたが、バブル崩壊後に残ったのは立派なホールばかりで、地味な"ソフト"(稽古場提供等の形に残らないもの)への支援がなされて来ず、劇場があっても演じる側が育っていなかった。その風潮を何とかしたいとの思いから、1994年4月、行政の協力を得て東京都北区で『★☆北区つかこうへい劇団』を旗揚げ。1996年には大分県大分市にて『大分市つかこうへい劇団』(2001年3月に解散)を旗揚げした。その他にもワークショップや演劇セミナーなどを各所で開いており、後進の指導にも余念がない。肺がんで病床に伏していた時さえも、舞台の練習風景のビデオを病院でチェックし、役者一人一人に細かい演技指導を欠かさなかった。

出典:wikipedia

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