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獅子文六

獅子 文六(しし ぶんろく、1893年(明治26年)7月1日 - 1969年(昭和44年)12月13日)は、日本の小説家、演出家。本名は、岩田 豊雄(いわた とよお)。演劇の分野では本名で活動した。日本芸術院会員、文化勲章受章。号は牡丹亭。横浜弁天通の岩田商会に生まれる。日清戦争開戦前年に生まれ、横浜市立老松小学校から慶應義塾幼稚舎に編入学。普通部を経て、慶應義塾大学理財科予科に進学するも中退。祖父は花火職人の平山甚太、実父は元中津藩士の岩田茂穂で、福澤諭吉に学んだのち絹織物商を営んでいたが、文六9才のおりに死去する。幼少の頃は中区月岡町9番地(現西区老松町の迎賓館付近)の官舎に住んでいた。戦争により疎開した先の愛媛県北宇和郡津島町に句碑がある。弟の岩田彦二郎は札幌グランドホテル社長。フランスに渡って演劇を勉強する。フランス人のマリー・ショウミーと結婚し、帰国後に長女巴絵を得るが、のち妻は病死。以後、富永シヅ子と再婚し、娘を育てる経緯がのち私小説『娘と私』となる(なお、戦後にシヅ子も病死し、元男爵吉川重吉の娘・幸子と3度目の結婚。また巴絵は、外交官で吉田伊達家の伊達宗起に嫁いでいる)。明治大学文芸科で演出論を講義。1937年、岸田國士、久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。「文学座」の命名は岩田のものによる。岸田、久保田と共に文学座幹事(のちに顧問)を務め、岸田、久保田がこの世を去った後は、文学座の最後の精神的支柱として、文学座座員はもとより、文学座を脱退した劇団雲、劇団NLTの面々からも信頼を一手に受けた。小説家としては、獅子文六の筆名でも活動した。最初の新聞連載小説となった『悦ちゃん』は、自分の大好きな女性を父の後妻にしようとする女の子の話で、妻の病死後、娘・巴絵を持ちながら再婚する過程をモデルにした。エーリッヒ・ケストナーの『ふたりのロッテ』に先駆けて、親を引っ張っていく子供を描いている。1942年には、真珠湾攻撃の「九軍神」の一人を描いた『海軍』で朝日文化賞を受賞する。この作品がきっかけとなり、戦中には海軍関係の文章を多数発表したため、戦後に「戦争協力作家」として「追放」の仮指定がされたものの、1ヶ月半後に解除された。『てんやわんや』は四国南西部のある村の日本からの独立騒動を描いて、井上ひさし『吉里吉里人』の先駆をなす。『但馬太郎治伝』は薩摩治郎八をモデルにし、治郎八を有名にした。またバナナの卸売業界を題材にした『バナナ』、東京駅と大阪駅を結ぶ特急列車の食堂車の従業員と乗客を描いた『七時間半』、箱根周辺の開発競争を描いた『箱根山』などの「業界物小説」も得意とするなど、八面六臂の才筆ぶりを見せている。また、多くの作品が映画化、ラジオドラマ化、テレビドラマ化されている。1951年には『自由学校』が松竹(渋谷実監督)と大映(吉村公三郎監督)で競作映画化、1955年には『青春怪談』が日活(市川崑監督)と新東宝(阿部豊監督)で競作映画化されるほど、人気を博した。また『娘と私』は、連続テレビ小説の第一作としても知られる。横浜の中華料理、パリのフランス料理を含め、様々な物を食してきた食通としても知られており、『飲み食ひの話』、『飲み・食い・書く』などの随筆も書き記している。1963年、日本芸術院賞受賞、1964年芸術院会員、1969年文化勲章受章、同時に文化功労者。谷中霊園に眠る。近年は著書のほとんどが絶版となってしまい、生前の影響力・人気・知名度からは意外なほど「忘れられた作家」となっていたが、2013年以降、ちくま文庫、中公文庫から作品が復刊されている。他多数

出典:wikipedia

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