LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

吉田稔麿

吉田 稔麿(よしだ としまろ、天保12年閏1月24日(1841年3月16日) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名した。久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称される(入江九一を入れて松門四天王ともいう)。天保12年(1841年)、萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。稔麿の生家は松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。稔麿は、松陰以前、久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったという。雅号は風萍軒(ふうひょうけん)。宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修める。また、松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究めた。吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて「三無生」と称することがあるが、それは稔麿が「無逸」、増野が「無咎(むきゅう)」、松浦が「無窮(むきゅう)」と称したことに由来する。松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容している。安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。が、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明であるが、万延元年(1860年)10月に脱藩しているものの、文久2年(1862年)にはその罪を許されている。また、同年10月には松陰の慰霊祭に初めて参加した。文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月に屠勇隊を創設。8月の朝陽丸事件では烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。またこの年に稔麿と改名した。元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死した。最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。享年24。墓は京都霊山護国神社(京都市東山区清閑寺霊山町)・護国山(萩市椿東椎原)・桜山神社(下関市上新地町)・朝日山招魂場(山口市秋穂二島・現朝日山護国神社)の4ヵ所。萩市俊光寺は吉田家の菩提寺だが、当初から墓はない。また、池田屋殉難墓碑が三緑寺(京都市左京区岩倉花園町)にあり、殉節之地碑が京都市中京区下丸屋町にある。明治24年(1891年)、従四位を追贈された。謹直重厚な人物であったといわれ、その秀才ぶりは松下村塾でも有数のものであった。後年、松下村塾の同門生で後の明治の元勲にもなった品川弥二郎(子爵)が「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語ったとされる。以下、牧野謙次郎著『維新伝疑史話』[]より

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。