柴田 猛(しばた たけし、1944年8月11日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)・コーチ・監督。向陽高校卒業後、に南海ホークスのテスト生として入団。当初は外野手として起用され、6月5日の近鉄戦(日生)で一軍初出場。からは捕手に転向。当時は野村克也が全盛期であり、柴田は野村の控え捕手であった。二軍では3割台を何度も記録し、打撃ベストテンに何度もランクイン。からはブロックサインの解読を担当し、球界関係者から「サイン盗みの男」と呼ばれる。からはコーチ補佐を兼任し、その年のリーグ優勝に貢献。には怪我をした野村の代わりに先発マスクを被る機会も増えたが、ファウルチップを右手に受ける大怪我をし、戦線離脱。同僚の江本孟紀は「この時の怪我がなければ、ノムさんは正捕手の座を柴田に譲り、監督専任になっていただろう」と語っている。この年はプロ入り初本塁打も放っているが、翌日が新聞休刊日で記事にならなかった。からは選手専任となったが、怪我以降は出場機会が減る。に広島東洋カープへ金銭トレードで移籍。からはコーチ兼任となり、に現役を引退。その後は広島( - 一軍バッテリーコーチ)、南海・ダイエー(・ - 一軍バッテリーコーチ, - ・ - 二軍監督)、阪神( - 一軍バッテリーコーチ, 一軍作戦コーチ, 一軍チーフ兼バッテリーコーチ)、オリックス( - 二軍バッテリーコーチ)、ヤクルト(フロント, - 一軍バッテリーコーチ)、兄弟(守備コーチ)、中日( - 調査部員)、巨人( - 運営部特別嘱託スタッフ)、中信(ヘッド兼打撃コーチ)で監督・コーチ・フロント業を歴任。古葉竹織、ドン・ブレイザー、安藤統男、穴吹義雄、杉浦忠、上田利治、田淵幸一、野村、藤田平、江仲豪、星野仙一、長嶋茂雄、原辰徳、堀内恒夫、李来発ら15人の監督に支える。広島コーチ時代は2年連続リーグ優勝・日本一に貢献。相手投手の投球フォームを撮影して癖を見つけて攻略、読唇術を用いてベンチでの会話から作戦を読むほか、古葉の作戦をサインで伝達する役目を担うなど影の立役者と評価された。また、心理面を突く野球も研究し、特に外国人選手に対しては生まれ育った境遇や信仰する宗教まで分析して戦略の参考とした。南海コーチ時代には前述の手法がブレイザーら外国人スタッフの間で不評を買った。投手交代をめぐってバーニー・シュルツ一軍投手コーチと意見対立し、ベンチ内であわや乱闘という事件まで起こした。阪神コーチ時代のには島野育夫と共に横浜スタジアム審判集団暴行事件を起こすが、に現場復帰。ヤクルト時代は野村と師弟コンビを組み、1993年と1995年のリーグ優勝・日本一に貢献。阪神コーチ2期目の1996年にはシーズン途中で解任された藤田の代わりに監督代行としてチームを率い、新庄剛志を4番に起用した。巨人時代は巨人スコアラーの知恵袋とも言われ、にはアテネオリンピック野球日本代表のアドバイザースコアラーに就任。銅メダル獲得に貢献。南海OBとしては数少ない野村の弟子的存在であるが、野村は前記の暴力事件の際に柴田を批判している。だが、その後ヤクルトのフロントに誘い、その後コーチとして現場復帰させている。
出典:wikipedia
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