江戸時代後期の1847年に京都御所で開講された学習所を起源とし、明治時代初期、1877年に皇族・華族のための教育機関としてあらためて開校された。新制大学としての学習院大学の開校は第二次世界大戦後の1949年。皇族が通う大学として日本国内ではよく知られている。学習院系列校共通の教育目標として「ひろい視野 たくましい創造力 ゆたかな感受性」を謳っている。また第25代学習院長の波多野敬雄が『グローバル学習院』を提唱し、海外研修等を実施している他、ピラミッド校舎の跡地に建設される新校舎を新学部の拠点にすることを視野に入れている。学習院大学は、卒業生が教員や研究者として多くの大学に採用されている分野があり、これまでに多くの研究者を育ててきたと謳っている。教育目標として「ひろい視野」を掲げている通り、学部・大学院とも個別の専攻に極端に偏らないように広範囲の科目を履修させるカリキュラムを組んでおり、基礎研究に力を入れる方針を示している。旧華族学校の校風が教育・研究の面でも引き継がれており、極度なリベラル主義ではなく、また「実社会で役に立つ学問」「実学」からは一定の距離を置いているが、資格取得を支援する各種プログラムは設置している。第二次世界大戦前は初等学科・中等学科・高等学科(後に初等科・中等科・高等科となる)が設置されていた。学習院は特別の法令によって設立され、宮内省管轄の官立学校であったため、学制に基づく文部省管轄の学校と必ずしも一致するわけではないが、初等科は尋常小学校、中等科は中学校・高等女学校、高等科は旧制七年制高等学校に相当する。なお、高等科を旧制大学と扱う文献も存在しているが、学習院学制自体が大学令とは無関係の法令であり、制度としては旧制七年制高等学校相当である。また、旧学習院高等科から旧制大学へ進学した学生も多く存在していることから、旧高等科を旧制大学相当として扱うことには教育制度の研究家の間に異論もある。新制大学設立時に文部省に提出された「学習院大学設立趣意書」や大学案内には、学習院大学は旧制時代の1893年から1905年まで存在していた「大学科」を復活させたものとの記載があり、終戦後の学習院の学制改革に関与した山梨勝之進・安倍能成両院長もその認識であったが、旧制大学科もまた学習院学制による学校であり、帝国大学令に依ったものではなく、大学令施行時には廃止されていた。1847年、仁孝天皇が京都御所内に設けた公家を対象とした教育機関である学習所を起源とする。ただし、仁孝天皇自身は前年に崩御したため、目にすることは出来なかった。1849年には勅額が下賜されたことに伴い、京都学習院となる。明治維新を経て、華族制度が整備されると1876年には華族学校という校名となる。翌1877年に華族学校学則が制定され、さらに明治天皇のもとで開校式が行われた際に改めて学習院と改名された。学習院ではこの年を学校の創立年としている。もともとは皇室の設置する私塾という位置づけであったが1884年には宮内省が所轄する正式な官立学校となる。第二次世界大戦前の学習院は学習院学制および女子学習院学制に基づく教育機関で文部省ではなく宮内省の管轄下に置かれ、華族の子弟なら原則として無償で学習院に入ることができた。それ以外の階層の子弟の入学は一部のみで、授業料は有償、幼稚園への入園は外部生としてしか許されないなどの待遇を受けた。1924年の制度改革以降も授業料の金額格差、階級による幼稚園への入園禁止など差別待遇が残り、華族を中心とした学校として維持してきた(皇族就学令)。また平民等でも例外が存在している場合があった。第二次世界大戦後に華族制度が廃止され、学習院設置の根拠法であった学習院学制および女子学習院学制が廃止されると、私立の学校法人として再出発し、待遇格差も無くなった。だが、現在でも一部を除く皇族が通い、“御学友”(一般市民でありながら同席で学ぶ事を許された特別な生徒・学生)が存在するなど、戦前の学習院の痕跡を僅かながらに残している。校章は桜をかたどったものである。ただしわずかな相違点が一部見られる。ロゴとして積極的には使われていない。2011年、熊をかたどったマスコットキャラクター(ゆるキャラ)「さくまサン」を制定。「学習院大学マスコットキャラクター兼広報大使」と称する。「蓁々会」(後述)において文具やぬいぐるみなどのキャラクターグッズを製作・販売しているほか、ツイッターなどを用いたネット上の広報活動にも使用されている。 プロジェクトリーダー:花岡文雄(理学部生命科学科・教授)【理学部】 2008年度~2012年度 プロジェクトリーダー:高橋利宏(理学部物理学科・教授 【理学部】 2009年度~2013年度 プロジェクトリーダー:岡孝・草野芳郎(法学部法学科・教授) 【国際研究教育機構】2011年度~2015年度 プロジェクトリーダー:大澤顯浩(外国語教育研究センター・教授) 【国際研究教育機構】2012年度~2014年度 プロジェクトリーダー:鶴間和幸(文学部史学科・教授) 【国際研究教育機構】2013年度~2017年度 (代表研究者 前田直子 文学部日本語日本文学科教授) 【国際研究教育機構】 2012年度~2014年度 (代表研究者 村松弘一 国際研究教育機構教授) 【国際研究教育機構】 2015年度~2017年度 (代表研究者 金田智子・村野良子 文学部日本語日本文学科教授) 【国際研究教育機構】 2013年度~2015年度 大学をはじめすべての学習院系列校の学生生徒・教職員に対する福利厚生と学園生活上の様々なサービスを提供する、「株式会社学習院蓁々会」(しんしんかい)という学習院が100%出資した会社が存在し、学食や購買部などを経営している。代表取締役(蓁々会会長)は学校法人学習院の理事から選任し、取締役ほか役員は法人管理職が兼務する。また同社の業務委託により大学内にコンビニエンスストアのセブン-イレブン(2007年9月まではローソン)や書店成文堂がある。この会社があるため大学生協はない。2010年9月、中央教育研究棟12階に「目白倶楽部 日比谷松本楼学習院大学店」が開店した。学習院大学独自の奨学金は下記の通りとなっている。大学独自の奨学金は長らく成績優秀者の表彰を目的とした奨学金給付が中心となっており、学費支弁困難者への援助を目的とした奨学金は公募・貸与型の「学習院大学奨学金」のみであったが、2000年代以降は新たに公募・給付型の奨学金も多く設定しており、充実が図られている。学習院大学独自の奨学金であるが、法人が同じ学習院女子大学の奨学金も全く同様の項目となっている。「安倍能成記念教育基金奨学金」については成績に加え人格も優秀な学生を厳選して推薦することになっており、採用者は若干名。給付金額も最多であり、採用者に対して学習院長による授与式が挙行される。「学習院父母会奨学金」については大学・法人側ではなく父母会が運営するものであり、高等科以下の各学校の児童・生徒も対象。海外に留学する学生向けの奨学金や外国人留学生向けの奨学金もある。少子化に伴う受験生の減少に備え、2000年代の一時期一般入学試験の成績が最上位であった志願者に対して入学を勧める目的から奨学金を給付する制度が設定されていたことがあったが、短期間で廃止されており、現在は行われていない。1889年、学習院全生徒の学生活動のための機関として「輔仁会」(ほじんかい)が設けられ、以後現在まで学習院全体の課外活動の中心機関となっている。同会は幼稚園から大学、更に学校法人学習院本部までの役員・教職員・学生・生徒・児童・園児が会員となる。会長は学習院長が兼務し、会員は毎年輔仁会費(他大で言うところの自治会費ではない)を納入する。学習院に在学する皇族と特別な功労者は名誉会員(会費徴収なし)となる。本部の下に各学校ごとの支部組織がある。学習院の運動部、文化部、自治会等すべての課外活動は、輔仁会の事業の一端として位置づけられ、輔仁会の予算から経済的支援を受けている。学習院大学における輔仁会の支部は「学習院輔仁会大学支部」であり、支部長は大学学生部長が兼務する。運動部会(他大で言うところの体育会)・文化部会・独立団体(学習院大学新聞社など)があり、輔仁会に公認されている各部は「学習院輔仁会大学支部運動部会○○部」「学習院輔仁会大学支部文化部会○○部」等と称する。大学学生自治会は消滅しており、現在「暫定協議会」と「自治会再建委員会」が活動している。「自治会再建委員会」が「大学公認」と称する所以は「学習院輔仁会大学支部」に属する組織という意味である。会歌として「学習院輔仁会会歌(新)」 ·「学習院輔仁会会歌(旧)」がある。また機関誌として『学習院輔仁会雑誌』がある。このほか輔仁会大学支部に属さず自主的に運営される同好会・非公認サークル等も多数ある。学習院創立百周年記念会館がある。1978年に学習院が創立百周年を迎えたことを記念し、学習院全体の中心となる建物として竣工。地上4階建て。1,100名余を収容できる正堂のほか、小講堂、大小会議室、院史資料展示コーナー、ラウンジ、皇室専用特別控室などがある。式典、講演会、学内学会、音楽会、会議、授業等に利用されるが、常時開放はされていない。学校行事等での使用がない場合は、卒業生や学外にも貸出し(有料)を行っている。会館内に学習院桜友会と常磐会(学習院女子部の同窓会)の事務局がある。学食・ラウンジ・コンビニエンスストア・購買部等が入った輔仁会館がある。輔仁会及び蓁々会用の施設という位置づけである。また部活動用の黎明会館と富士見会館があり、部室の他部活動用の諸施設が入っている。部室は輔仁会に属する同会公認の団体のみに割り当てられる。2009年5月、構内の7つの建造物が国の登録有形文化財に指定された。目白キャンパスでは1945年4月の東京大空襲で正堂・本館など木造校舎の大部分が焼け落ちたが、指定された下記の建造物はいずれも焼失を免れ、一部改築・改装・移築を経ながら現在まで維持されてきたものである。ピラミッド校舎という校舎も存在していた。北1号館(旧文学部棟)、南2号館、大学図書館とともに前川國男が設計した建造物で、1959年に策定された「学習院創立八十五周年私学十五周年記念建設事業」において建設計画が決まり、1960年8月に竣工した。厳密なピラミッド型ではないが、ピラミッドのような形をした建造物がキャンパス中央に存在していた。「ピラ校」と通称され、大学学生証の裏にイラストが使用される等、キャンパスのシンボル的存在であった。頂点までの高さは25メートル、周囲に小噴水を備えた濠状の細長い池を廻らし、映写設備を備えた一つの大教室と回廊、小倉庫・トイレという構成で、約700名の学生を収容。建物内部に階段があり、頂点まで到達することができた。大学校舎には似つかわしくないような一風変わった形状の建造物で、ウルトラセブン第29話「ひとりぼっちの地球人」に「京南大学」という大学の校舎という設定で登場するなど、学外でもその存在が知られた建物であった。その後も長らく使用されたが、教室としての使い勝手が悪くなっていたことや老朽化による補強工事の必要性、アスベスト使用等の問題などから、「学習院21世紀計画」の一環として2008年、解体と新校舎建設が決定・公表された。これに対し日本建築家協会が大学側に保存要望書を提出するなど、建築史に残る文化財であるとして維持を求める運動が主に学外で行われたものの、同年3月より解体、新校舎建設工事が開始された。跡地には2010年3月、地上11階・地下1階の中央教育研究棟(高さ50.40m)が竣工。中央教育研究棟前広場にはピラミッド校舎頂部がモニュメントとして設置され、2010年10月、広場は「ピラミッド広場」と命名された。モニュメント傍らには解説板も建てられ、在りし日のピラミッド校舎の様子を偲ぶことが出来る。また中央教育研究棟2階ホールにはピラミッド校舎の模型が飾られている。なお、北1号館、南2号館、大学図書館はアスベスト除去工事が施され、今後も維持される。学習院大学周辺遺跡は学習院大学キャンパス全体をその範囲として存在が推定される旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡である。1905年ごろ、学習院建設予定地付近の切り通しにおいて鈴木辰造が縄文土器を発見し、はじめて遺跡の存在が明らかとなった。その後間もなく校舎が建設されたため調査は行われず、キャンパス整備の過程で遺跡自体も失われたものと見られていた。しかし1980年、学習院大学考古会の広瀬雄一により、キャンパス内の建設現場で発見された黒曜石製石器が紹介され、旧石器時代の遺跡が存在する可能性が浮上。ただその後も詳細な調査は行なわれなかった。2000年には豊島区教育委員会によりキャンパス内の発掘調査が行われ、縄文時代早期の土器が出土、また包含層を確認、縄文遺跡が残存していることが判明した。更に2008年、「学習院21世紀計画」の一環である学習院大学新自然科学研究棟(南7号館)の建設に伴う発掘調査により、約2万年前の関東ローム層(立川ローム層)の土層から石器と焼けた礫群(火を焚いた跡)を発見、旧石器時代の人の生活の痕跡が確認された。豊島区内には旧石器時代の遺跡や遺物の発見はほとんどなく、区内有数の旧石器時代遺跡として注目を集めている。なお2008年に調査された地点は新自然科学研究棟の下になっており、既に遺跡は存在しないが、出土遺物は史料館に所蔵されている。また過去の遺物出土地点が広範囲に及んでいるため、大規模な遺跡が現在もキャンパス全体の地中に埋もれているものと考えられている。大学学生寮として昭和寮が存在した。昭和寮は1928年、宮内省内匠寮により旧制高等科学生の寄宿舎として近衛公爵邸跡地(近衛町、現在の新宿区下落合2丁目)の高台に建設、開寮された。建物は西洋式で、イギリスの大学学生寮をモデルに設計された。鉄筋コンクリート造りの地上2階・地下1階のスパニッシュ様式建築で、広大な敷地にダンスホール・バーカウンター・テニスコート等、豪華壮麗な設備を有した。しかし昭和寮は第二次世界大戦中の食糧事情の悪化などにより1944年に閉鎖。その後建物は戦火を免れたが、1952年、新制学習院の財政確立と新校舎(旧西3号館、2001年取り壊し、現在は緑地)建設の資金に充当するため日立製作所に売却された。同年、大学学生のための新たな寮として旧建物の近傍に改めて「昭和寮」が建設された。寮長には代々学習院大学教授が就任した。長らく大学学生寮として利用されたが、1997年3月、「学習院21世紀計画」による事業の一環として、建物の老朽化と入寮者の減少を理由に閉寮となった。建物は取り壊され、土地も売却された。元寮生の同窓会として桜友会傘下に学習院昭和寮会がある。なお旧昭和寮建物は1953年、日立製作所の福利厚生施設「目白日立クラブ」となり現存。歴史的重要建築物として東京都の「未来に残したい100の建物」に指定されている。入場・利用は日立製作所社員・家族のみで、見学不可・非公開となっているが、新目白通り(建物南側)や山手線(建物東側)・西武新宿線(建物南側)の車窓から外観の一部を望むことができる。また現在、生涯学習センター(西11号館)の隣に外国人留学生・外国人客員研究員用の寮(ゲストハウス・西12号館)がある。かつては学習院教職員用の「学習院共同住宅」と称するアパートがキャンパス内に所在、南門の東側に2棟建っていた。川嶋辰彦経済学科教授も入居、長女の文仁親王妃紀子が少女時代から秋篠宮文仁親王と結婚した1990年までの日々を過ごした建物であり、同妃が「3LDKのプリンセス」と呼ばれた所以となったアパートであった。入居者の減少と老朽化のため2007年までにすべて取り壊された。跡地は新校舎敷地等に当てられる予定。(いずれも単位互換制度)旧制学習院高等科が旧制7年制高等学校相当の教育機関であったことから類似した旧制七年制高等学校の流れを汲む下記大学とは現在でも関係が深く、特に在京の4大学(学習院、成蹊、武蔵、成城)では東京四大学というグループを形成している。学校法人学習院が経営している系列校はそれぞれが独立しており、附属校という扱いではないためここでまとめる。学校法人学習院が経営している系列校はそれぞれが独立しており、附属校という扱いではないため系列校でまとめている。大学入試センター試験には参加していない。"この項目は、のを使用しています。" 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