平松 愛理(ひらまつ えり、1964年3月8日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家。本名:平松 絵里(読み方同じ)。兵庫県神戸市須磨区出身。所属事務所はひらまつ堂。ソロ歌手として活動する一方、他の歌手に楽曲提供も行っている。1964年、兵庫県神戸市に生まれる。父、母、兄の4人家族で育った。父親は平松医院を経営。兄は大阪大学医学部消化器内科医局長。平松が音楽と出合ったのは3歳の時。実家の隣に住む七歳上の女の子が持つ電子オルガンを見たのがきっかけ。すぐに自分も同じオルガン教室に通うようになり、4歳からはオルガンとともにピアノも習い始める。10歳の頃、洋楽好きでカーペンターズ・ファンの4歳上の兄の影響で、歌に興味を持ち始める。兄のギターの弾き語りに合わせてピアノを弾きながらカーペンターズをハモっていた。親和中学校・親和女子高等学校に進学。中学ではコーラス部に入る。そのかたわら、ピアノでオリジナル曲を作り始める。高校では軽音楽部に入部、ボーカルとしてガールズバンド「ワイプアウト」に加わる。そのバンドで出演した学園祭でオリジナル曲を披露、自分で作詞作曲した歌を歌って観客に拍手をもらったことでプロを意識するようになった。17歳の時に関西ローカルのオーディション番組「ヤングプラザ」に出演。それまでバンド活動に反対していた両親が、テレビに出たことで反対しなくなり、さまざまなコンテストに挑戦するようになった。1982年、18歳の頃に古川昌義 (G) 、森俊之 (Key) 、山下政人 (Dr) とともに「ERI & WONDERLAST」を結成、神戸海星女子学院大学進学後も関西を拠点にアマチュアとして活動。1986年、22歳の時に東京での再会を約束して「ERI & WONDERLAST」のメンバーと別れ、単身上京。アルバイトをしながら曲を作り、週二回はレコード会社に売り込みをかける生活をおくる。1987年、村田和人(むらたかずひと)率いる4人組のユニットHoney & B-Boysのアルバム『Back to Frisco』でレコードデビュー。「My Wish」などの曲でボーカルを執っている(ただし名前の表記は本名の「平松絵里」)。他の2人は、のちにソロデビューする西司(にしつかさ)と、パイパーのリーダーである山本圭右(やまもとけいすけ)。上京して三年ほど経った頃、レコード会社のディレクターがデイヴ・スチュワート & を好きだと知り、最初に持ち込んだ曲を彼ら風のアレンジにやり直して再び持ち込んだ。するとそれが気に入られ、デビュー曲に採用された。1989年2月21日、シングル「青春のアルバム」とアルバム『TREASURE』でポニーキャニオンよりソロデビュー。1992年、アルバムからシングルカットした「部屋とYシャツと私」が100万枚近いセールスを記録するヒットとなり、ブレイクを果たす。同年、ユニットHIRA^O SAKIとして、尾崎亜美、崎谷健次郎と共同で、シングル・アルバム『My Best Friends』をリリース。1994年1月29日、ともに楽曲制作をしていた編曲家の清水信之と結婚。結婚式場は東京・代沢の東京聖三一教会。なお、出産後「両親ふたりとも家を遅くまで留守にするのは育児に差し障る」という配慮から、平松と清水が組んで仕事をするのは差し控えるようになった。1995年1月17日、神戸の実家が阪神・淡路大震災で倒壊。同年4月21日、震災チャリティソング「美し都〜がんばろやWe love KOBE〜」をリリースする。1996年に女児を出産。しかし、デビュー当時から患い、以後毎日の様に痛みに煩わされ続けた子宮内膜症のせいで、母子共に危険な状態であった。1997年1月17日、阪神淡路大震災復興支援ライヴ「KOBE MEETING」を開催。その後、1月17日に毎年神戸市内で開催し続けている。1999年、レコード会社をユニバーサルミュージックに移籍。2001年、子宮内膜症が悪化し、子宮を摘出。その半年後の2002年には乳癌が見つかり、音楽活動の休止を余儀なくされる。休止中は各地での講演活動に参加した。2004年4月21日、新曲「YOU ARE MINE/部屋とYシャツと私2004」をリリースし、歌手活動を再開。また、併せて闘病手記「部屋とYシャツと『私の真実』」も上梓した。これ以外にも雑誌、新聞にエッセーを執筆。2005年8月2日、子育てと仕事とですれ違いが生じ、代理人を通して離婚届を提出した。報道によると、憎み合っての離婚ではなく、慰謝料等も特に生じず、娘(親権は平松が得た)の学校行事には父母揃って参加しているとのこと。同年、「KOBE MEETING」の活動などが認められ、神戸大使を委嘱される。2008年、新しい形のライブ「SLOW ROOM」を始める。2009年、20周年記念に「ERI & WONDERLAST」を再結成、3月と12月にライブを行う。2010年5月、神戸への社会貢献が認められ、第64回神戸新聞文化賞を受賞。5月30日、「がんばろうKOBEデー」と題してスカイマークスタジアムで行われたオリックス対ヤクルト戦にて、阪神大震災復興支援ソング「美し都〜がんばろやWe love KOBE」(作詞:阿久悠、作曲・歌:平松愛理)と国歌独唱を行う。2011年、テイチクエンタテインメントのコンチネンタル・スターレーベルへ移籍。同年第一弾シングル『いいんじゃない?』、2012年に第一弾アルバム『花と太陽』をそれぞれ発売。デビュー当初は西平彰の編曲であったが、3枚目のアルバム『MY DEAR』、シングルでは「月のランプ」以降、編曲家が清水信之に代わる。清水信之による平松作品は数多いが、例えば、「戻れない道」の編曲は、打ち込み主体の通常の電子音スタイルとは異なり、アコースティックなハープとフルートをメインに使うといった、かつての松任谷正隆的な手法を用いている。[オリジナル][ベスト][その他][PV]「KOBE MEETING」とは、1995年1月17日に平松の故郷・神戸を襲い、実家も被災となった阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の記憶を風化させまいとの主旨で、出産翌年の1997年以降、毎年1月17日に神戸市内で平松自らが企画の上、行っているチャリティーライブ。1997年から1999年までは、サンテレビジョンの番組との連動という形で、毎年会場を変えつつ、平松は“神戸にゆかりのあるミュージシャンの一人”としての参加だったが、2000年以降、平松の単独ライブという形式に変わる。2002年4月に上述の通り活動休止を余儀なくされ、このライブの開催も危ぶまれたが、当時毎年の開催の場('00~'05年)であったライブハウス・チキンジョージ(神戸市中央区)側の懸命なスケジュール調整や、何より震災に拘り続ける平松本人の強い意向もあり、本来休業期間とされていた間も、KOBE MEETING当日だけは公の場に姿を見せライブを敢行。以降、会場・ステージング(ソロライブから、神戸を活動の拠点とする複数アーティスト出演による、いわゆる“対バン形式”へ)の変更が施されるも、“音楽を通しての被災者への鎮魂と被災地の復興”という当初のコンセプトは変えずに続けられている。回を重ねるごとにNHK神戸放送局、サンテレビジョン、ラジオ関西、神戸新聞といった地元はもとより、兵庫県外のメディアからも取材を受けるようになり、この長期にわたるチャリティー活動が高く評価され、アーティスト活動再開からまる1年の2005年4月21日、平松は神戸市より「神戸大使」の委嘱を受けている。このライブの収益およびグッズの収益等から、ライブ実施にかかる諸経費を差し引いた金額、さらに当日の会場内での募金等をあわせ、毎年同市東灘区にある「あしなが育英会・レインボーハウス」へ寄付(2012年以降は前年の東日本大震災発生を受け、東北レインボーハウスの設立基金にも充当)。ライブ当日に代表者への目録贈呈が行なわれている。
出典:wikipedia
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