穆宗(ぼくそう 、980年7月5日(旧暦5月20日) - 1009年3月2日(旧暦2月3日))は第7代高麗王(在位:997年 - 1009年)。姓は王、諱は誦。別名は王訟。廟号ははじめ湣宗、のち穆宗とされた。諡号は孝思威恵克英靖恭宣讓大王(宣霊大王)。第5代国王景宗の長男であり、母は献哀王后皇甫氏。景宗死去の時は1歳であった。即位後は生母の献哀王太后が政治の実権を握り、彼女の寵愛を受けた親族の金致陽が政権の中心にいた。2人は王位継承の可能性のある大良院君(顕宗)を地方寺院に追い払い、さらに穆宗の廃位をもくろんだ。危険を察した穆宗は西北面巡検使の康兆を呼び寄せ、これを阻止しようとした。しかし、康兆は金致陽一派を倒した後、大良院君を擁立し、穆宗は廃位、殺害された。契丹との関係は下表を参照。両方の妃との間に子は無かった。
出典:wikipedia
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