島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月16日 - 1926年(大正15年)3月27日)は、明治・大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。別号、柿乃村人。1876年(明治9年)12月16日、長野県諏訪郡上諏訪村角間(現諏訪市元町)に旧諏訪藩士・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれる。父の浅茅は諏訪藩士として漢学国学を学んだ謹厳実直な人柄で、神官の職などに就いたが、維新後は松本師範講習所に学んで教員となり、諏訪郡豊平村(現・茅野市豊平)の古田学校に勤務したので、赤彦も幼少時代をここで過ごした。生活は貧しかったが、赤彦はこの自然と両親や家族の愛情の下で伸び伸びと育った。赤彦は歌道に通じていた祖母・さよの手ほどきを受けて5歳で百人一首を暗唱、7歳にして自ら望み、平田派の国学者・松沢義章の門下生であった父に家学を受けた。1881年(明治14年)古田学校の初等科に入学、大変腕白者であったと伝わっている。1885年(明治18年)赤彦が9歳のとき、生母「さい」が34歳の若さで死去し、父は翌年に継母「みを」を迎えた。1890年(明治23年)、諏訪小学校高等科を卒業した赤彦は、諏訪育英会(後の諏訪中学校)に入って岩垂今朝吉、寺島傅右衛門、三輪三吉の教えを受け、翌年からは泉野小学校、玉川小学校の代用教員を務めた。この頃、友人の永田市右衛門、長田幸治らに伍し和歌や俳句をたしなみ始めた。1892年(明治25年)、雑誌『少年文庫』に「"くれ竹の小ぐらきまでに茂りあふ 窓に煙るは蚊遣りなるらむ" 」を投稿。同年、豊平小学校古田分校の代用教員となり、父・浅茅とともに教鞭をとった。翌年1月には『少年文庫』に「伏龍」の号を用いて新体詩「元旦」を発表。以後、同誌上で活躍する。1894年(明治27年)、長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に進学。同級生に矢島音次、太田水穂、大森忠三らがおり、彼らとの交流を通じて赤彦の文学熱は著しく旺盛になっていった。師範学校では短歌・俳句の他、「万葉集」に親しむ一方で、赤彦と水穂が学内における文芸活動の中心的存在となり、雑誌『文学界』を通じて島崎藤村の詩に傾倒し、詩作活動を活発に行った。赤彦は、「伏龍」の号の他に「二水」「二水軒」の号も用いて『少年文庫』『文庫』『少年園』『早稲田文学』『小文学』『もしほ草紙』や新聞『日本』など中央の文芸雑誌や新聞に短歌・新体詩を発表、淡白で感傷的な中に素朴な田園調の詩風をもって、青年時代の全力を傾倒して新体詩人としての存在を確立していった。1898年(明治31年)には、長野尋常師範学校を卒業して、北安曇郡池田会染尋常高等小学校の訓導となった。同年4月、下諏訪町高木の久保田政信の養嗣子として同家長女・うたと結婚、久保田姓となった。1902年(明治35年)、うたの死去に伴い、彼女の妹・ふじのと再婚した。『アララギ』は1900年(明治33年)、正岡子規から始まった根岸短歌会が源である。子規没後、子規の文芸精神の継承発展と、一門の結束をはかろうと、伊藤左千夫が、1903年(明治36年)『馬酔木(あしび)』を興した。その後、編集・発行者らの意見の相違が絡み合うなか、『アカネ』『阿羅ゝ木』を経て1908年(明治41年)には『アララギ』となった。一方、1903年(明治36年)、『馬酔木』より半年早く信州において島木赤彦、岩本木外らによって『氷むろ』(後に『比牟呂』)が設立された。10月、赤彦が伊藤左千夫に送った「床払の祝」二首が『馬酔木』に掲載される。以後、同誌に短歌・歌論を発表、伊藤とも親交を持ち、中央歌壇と積極的に接触をする。『比牟呂』は1905年(明治38年)に一旦休刊するが、1908年(明治41年)赤彦が編集・発行人となり復刊。翌1909年(明治42年)8月、『比牟呂』は『アララギ』と合併する。以降、『アララギ』は赤彦の信州からの全面的なバックアップを受けて、編集を伊藤左千夫が中心に古泉千樫、斎藤茂吉、石原純らが交替で当たったが、編集発行はルーズになり停滞しがちであった。伊藤左千夫が死去する直前の1913年(大正2年)には、斎藤茂吉等と激しく対立し、休刊・廃刊も考えられる危機的状況となった。茂吉は、赤彦に窮状を訴え、休刊止む無しと伝えたが、赤彦が休刊の不条理を訴え、全面的に支援をするので休刊を思い止まるよう茂吉を説得したことにより、茂吉が休刊を翻意した経過がある(茂吉「アララギ」赤彦追悼号)。1913年(大正2年)発行のアララギ叢書第1編、島木赤彦・中村憲吉の合著歌集『馬鈴薯の花』、また第2編の斎藤茂吉の『赤光』が注目された。特に茂吉の『赤光』が注目されるに及んで『アララギ』は歌壇で広く認められ、発行部数の飛躍的な増加など『アララギ』の「歌壇制覇」と言われる時期を迎えることになった。1914年(大正3年)赤彦は当時『アララギ』の編集主任であった古泉千樫の運営を黙って見ていられず、自ら『アララギ』の再建を期して諏訪郡視学を辞任し、上京した。赤彦は早速会計整理に着手し、平福百穂の絵画頒布会の開催、また会員増強策を講ずるなどの努力を始め、死去する1926年(大正15年)までの約12年間「アララギ」の編集、発行の重責をになった。しかし時間とともに赤彦の影響を受けた藤沢古実、土田耕平、鹿児島寿蔵、高田浪吉らが編集発行の中心を担うに至り、生活の現実に根ざしたより堅実な写生歌風を形成、赤彦も写生を通した「鍛練道」を唱えるなどその真摯さがアララギ歌風の深度を増したが、反面狭隘なものにしたことは否めず、1924年(大正13年)の古泉千樫、釈迢空、石原純らが『アララギ』を脱退し、北原白秋、前田夕暮らと合流、『日光』を創刊するに至る原因ともなった。1926年(大正15年)3月27日、胃癌のため死去。享年51。戒名は俊明院道誉浄行赤彦居士。赤彦の死は、『アララギ』の一時代の終焉を告げるものでもあった。その後、『アララギ』は斎藤茂吉・土屋文明が代表となって戦後まで継続し、1997年(平成9年)に終刊した。しかし『アララギ』から派生した各結社は、それぞれに現在もなお活発に活動をしている。赤彦は1890年(明治23年)に14歳で傭教員となり、教員への道を歩みはじめた。1898年(明治31年)、長野尋常師範学校を卒業して、北安曇郡池田会染尋常高等小学校の訓導となるが、早くもその4月、信濃教育会への議案提出に関わるなどの積極性をみせている。その後も信濃教育会の機関紙『信濃教育』へ研究や意見を発表し続け、1911年(明治44年)には、同総会におい「教育の革新について」のテーマで意見発表もしている。とくに、1917年(大正6年)『信濃教育』の編集主任に就任してからは毎号巻頭論文を執筆しており、1920年(大正9年)に編集主任を辞任するまで学校教育のあり方、理想の教師像等をはじめ、哲学、文芸、時には時局問題までも触れ、その緻密な先見的論旨を発表した。初任地の会染小においては、情熱的な青年教師として、当時珍しかった野球を教えたり、個性的な教育を進めるために、家庭状況、体格、学力、性格などを細かく記録した生徒経歴簿を作成した。赤彦は一教師として、教え子に対し熱烈な教育をするとともに、後年は、管理的立場で教育に携わることにもなった。1909年(明治42年)には広丘尋常高等小学校の校長に就任したが、さまざまな問題を抱え、毀誉褒貶のある時代であり、僅か2年で1911年(明治44年)には玉川尋常高等小学校長となった。玉川においては、学校運営に独自性を発揮し、この働きにより、請われて1912年(明治45年)、諏訪郡視学となった。視学としては、学歴はなくても力量のある者は重要ポストに付ける人事異動等を行ったり、訪問した学校で授業をやって見せるなど諏訪教育の改革のための期待に応えた。1914年(大正3年)『アララギ』再建のため上京を決意するまで、公私とも難問山積のなか教育者としての使命を全うした。赤彦の歌論の中心は「鍛錬道」であると言われている。「一心集中」と言われることもあるが、これらは、表裏一体のものである。これらの歌論は、「一心の道」、「鍛錬せられざる心」、「鍛錬と徹底」、また万葉集批評などに掲載されているものであり、いわく「万葉集の作者は、どんな事柄に對しても苟も歌ふとなれば、何處迄も眞面目に正面から其の事柄に向き合つている。そうして一心をそれに集中してゐる。其處から力が生れてくる」「永久の徹底は、常住の鍛錬であり、常住の鍛錬は終生の苦行である」、などと言うのがその考え方である。近代短歌を語るとき、一般的には「個人の解放」、「自我の尊重」などという観点から語られるが、これらの観点とは程遠い「鍛錬」や「一心の道」を赤彦が歌論として持ち込んだのは、たとえ赤彦の父・浅茅が国学に通じ、幼きから父の薫陶を受けたとしても、また、赤彦の言うように、東洋文化の骨格である儒教、仏教の二つの大きな教義を生んだ東洋人の修養がより鍛錬的であったからだとしても、それが即ち歌論になるかということには、違和感を持つ者も多いであろう。そのような中で、これらの歌論は、赤彦の実生活が、愛妻を失ってすぐに妹と再婚しなければならなかった養子の立場と関わりがあり、この忍従を強いられた環境からこのように厳格な歌論を持つようになったのではないかと考える者もいる。また、広丘尋常高等小学校在任中の女性関係を断ち切れなかった悔恨と弱さを克服するために自らに課した鍛錬道ではなかったかと言う者もいる。赤彦は子規の写生論を承継し、「歌道小見」において独自の写生論を展開しているが、それを元に赤彦の歌論の全体を集約してみれば、短歌における写生とは、概念的な言葉をもって事象を表現するのではなく、具体的な事象と接触しつつ、その対象に相応しい表現を「鍛錬」により「一心の集中」をもって「一点の単純所に澄み入る」ことによって達成できるものであるとする。こうして作られた赤彦の短歌は作風としては「寂寥相」と言われる。これは、赤彦の宗教的直観がもたらす自然と人間が一体となった歌の境地であり、赤彦の目指した短歌の理想の境地である。一方で、この寂寥感についても赤彦の育った家庭環境と信州諏訪という寒く厳しい自然環境が影響しているとの見方もある。1893年(明治26年)から1909年(明治42年)までが『馬鈴薯の花』以前の歌とされる。この時期の赤彦の短歌は正岡子規を中心とした根岸派同人としての作品であり、子規没後は、『馬酔木』の伊藤左千夫に師事し精一杯の力量を発揮している。しかしこれらの時期に作られた歌の大方は月並みの歌であると評価する人もいる。第1歌集『馬鈴薯の花』は、1913年(大正2年)に中村憲吉との合著として刊行。1909年(明治42年)から1913年(大正2年)の歌を収録している。柿の村人として発行しているが、赤彦が歌人として初めて世に問うた重要な歌集である。以前とは一転して、新視点、新表現が表れてきている。第2歌集『切火』は1915年(大正4年)発刊。「アララギ」再建のための上京前後の1913年(大正2年)、1914年(大正3年)の作に属し、1913年(大正2年)に初めて島木赤彦の筆名を用いて作歌した以降の歌である。上京前後の激しい心の揺れが歌われている一方、八丈島の連作には心の平安を得ていく姿もある。前作に続き僅か2年後の歌集であり、1913年(大正2年)に刊行された斎藤茂吉の『赤光』が好評だったことにも影響されてか、作歌上様々な工夫が見られるが、字句の混乱と内面の動揺を表現することになり、その結果、赤彦自身のためらいもあってか、この歌集は再版することなく絶版とされた。『切火』という歌集名は、中原静子との恋の火を断ち切る意味を込めたとも言われている。第3歌集『氷魚』は1920年(大正9年)の発刊。1915年(大正4年)から1918年(大正9年)の歌が収録されている。この間は「一心集中」や「鍛錬道」を提唱した時期であり、入念な写生に立脚した赤彦調が現れている。第4歌集『太虚集』は1924年(大正13年)に発刊。1918年(大正9年)から1924年(大正13年)の作を収録している。長崎に斎藤茂吉を見舞う歌から始まり、関東大震災からも『アララギ』を守り抜き、同誌を背負う赤彦の自信に満ちた時期を詠っている。作家態度に動揺はなく、自己の作風を確立している。すなわち自然と人間とが一体になった「寂蓼相」と呼ばれる赤彦の独自の世界を実現している。第5歌集『柿蔭集』は1926年(大正15年)に発刊。1924年(大正13年)から1926年(大正15年)の歌であり、病のため自分で編纂ができず、死後に発刊されている。枯淡の風韻を湛えるとともに、病床詠は生への愛惜がにじみ出ている。「虚」「柿」は、原歌集名では異体字が用いられている。赤彦は1893年(明治26年)、17歳のときに新体詩を『少年文庫』に投稿し、以降毎年多数の雑誌に新体詩を発表しており、その集大成として1904年(明治38年)、太田みづほのやとの合同詩歌集『山上湖上』を発刊している。太田は山上として新体詩を含む短歌を、赤彦は湖上として新体詩を発表している。この新体詩の内容は浪漫的であって写実的ではないが、時代を風靡した中央の詩風を貪欲に受け入れており、後年作り始めた童謡の世界に通じるものがある。赤彦の全作品に占める新体詩の分量はかなり大きい。赤彦が童謡を作り始めたのは1920年(大正9年)頃からと言われている。第一童謡集は1922年(大正11年)、第二集が1923年(大正12年)、第三集は死後の1926年(大正15年)に発刊されている。第三集の最後が「諏訪の殿様」である。赤彦は童謡集の巻末言において「私には6人の子どもがある。私はその6人の子どもに向きあつてゐるといふ気持ちで童謡をつくる。私はかつて永い間小学校高等女学校等の教師を勤めた。私は学校で私の教へた多くの子どもに向きあうた心持を想ひ回しながら童謡をつくる。」と言って、童謡作りの動機を語っている。一方この時期、北原白秋が童話童謡雑誌『赤い鳥』に次々と童謡を発表していることが赤彦の童謡創作の刺激になったことも考えられる。また赤彦は理想の童謡を「質素純白な童謡」(全集第5巻645頁)と言っており、童謡においても本体は万葉集から出て、短歌と同様の寂寥感を持っている。このほか赤彦は俳句、小唄、小曲、今様などを作り、また小説物語、散文、紀行文、新聞掲載エッセイ等多数の作品を著している。(1969年(昭和44年)4月-1970年(昭和45年)4月増補再版、岩波書店)
出典:wikipedia
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