対馬警備隊(つしまけいびたい、)は、長崎県対馬市の対馬駐屯地に駐屯する第4師団隷下の混成部隊である。対馬は地政学的に朝鮮半島・中国大陸との境界線に位置し、歴史的には大陸と日本との交流の中継地として栄えた。一方では、日本の最前線としての歴史を刻んできた。奈良時代には新羅からの侵略を受け、平安時代の刀伊の入寇、鎌倉時代の文永の役(元寇)、室町時代の応永の外寇など外国との軍事的衝突の舞台ともなった。幕末にはロシア帝国海軍の強襲により対馬の一部が一時占領される事件(ポサドニック号事件)も起こり、明治に建軍された帝国陸軍では同名の対馬警備隊(対馬警備隊司令部、1920年に対馬要塞司令部に改編)が編成され、多数の海岸砲を擁する対馬要塞も設置されている。第二次世界大戦後の陸上自衛隊でも、対馬海峡の防衛に資するための警備部隊を派遣することとなる。1980年(昭和55年)以前は別府市に連隊本部を置く第41普通科連隊から1個普通科中隊が派遣されてきていた。しかしながら、普通科中隊は本来継続して独立行動をする能力を有しておらず、またこれを管理する第41普通科連隊の隊務運営上不都合が大きかった。そこで、同中隊を別府駐屯地に帰還させて、新たに対馬に継続駐留する対馬警備隊が編成された。構想段階では舟艇中隊の編制・編入も検討されたが、内局の同意を得られず最終的には断念している。現在の対馬警備隊は、普通科中隊1個を基幹とする小規模な部隊であるが、有事には応援部隊を受けてこれを指揮するために全国の離島警備隊でも類を見ない特別な扱いがなされている。すなわち、対馬警備隊は第4師団長直轄の独立部隊であり、指揮官は連隊長クラスの1等陸佐が充てられているなど、連隊格の扱いとされている。また、同隊は相浦駐屯地の西部方面普通科連隊と同様、レンジャー資格者の割合を高めており、レンジャーだけで一個の小隊を編成できる人数と見積もられる。これは、敵のゲリラコマンドが対馬に潜入してきた場合には、森林地帯において掃討する必要があるためである。また、敵が対馬警備隊の対処能力を上回る着上陸侵攻を行なう場合には、森林地帯に転進して抵抗を続けるためでもある。なお、対馬の防衛には、他にも海上自衛隊の対馬防備隊(上対馬警備所・下対馬警備所)が設置されており、対岸の壱岐警備所と協同して対馬海峡の通航監視を行っている。航空自衛隊も、第19警戒隊が対馬の最北端にある海栗島にレーダーサイトを設置して朝鮮半島方面の空を警戒している。関係機関として、長崎県警察が警察署を島内に2ヵ所設置している。海上保安庁は島内に対馬海上保安部・比田勝海上保安署を設置し、かがゆき型巡視艇6隻とモーターボート2隻の計8隻を配備している。そのほか、水産庁が漁業取締船で対馬沖を監視することがある。対馬の厳原港で1964年から開催されている「厳原港まつり」がある。対馬市では、対馬市在住の特別永住者への配慮と、韓国からの観光客誘致を目的に、平成元年に港まつりの伝統的な祭礼を捨てた。その代わり、韓国K-POP歌謡ショーや朝鮮民族の舞踊、朝鮮通信使行列を再現して韓国人を歓迎するパレード等へ港まつりの内容を大幅に改変して「厳原港まつり対馬アリラン祭」という朝鮮通信使の歴史を偲ぶ観光物産イベントとした。対馬警備隊では、対馬市の民生安定のため毎年の運営に全面的な協力を行なっており、曹友会に属する隊員は地元商工会に協力して祭りの運営を数週間前から支援、警備隊員は朝鮮通信使の扮装をしてパレード、警備隊長は当時の対馬藩藩主の衣装でアリラン祭りの舞台に登壇し、祭りに合わせて対馬に来日する韓国からの観光客に対して歓迎の言葉を述べるのが恒例行事となっている。2012年に起こった対馬仏像盗難事件のため、2013年に朝鮮通信使行列を中止し祭名から「アリラン」を削除した。ちなみに、現在の対馬市の人口に占める特別永住者(在日韓国・朝鮮人)市民の割合は、約0.5%である。産経新聞の報道によると、対馬市在住の特別永住者(元・韓国民団地方幹部。現在は帰化済。)が、対馬に駐屯する自衛官と対馬市民を交流させる趣旨の「自衛隊協力団体」を結成し、自衛隊員を応援していた。これに心を許した海上自衛隊員を、当該人物が食事や贈答品で饗応することで部内の情報を得ようとした「土台人被疑事案」が発生し、問題になったことがあるという。現在では、事案を起こした当該人物は出入り禁止となったが、出入り禁止になると同時に当該人物は「自衛隊協力団体」を解散して日本に帰化し、対馬市民として生活している。
出典:wikipedia
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