ジョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。ジョチ・ウルスは、複数のウルスの集合体から成り立っていたモンゴル帝国のうち、ジョチの後裔によって支配されたウルスである。その名称の発生時点は明確ではないが、14世紀初頭に編纂された『集史』「ジョチ・ハン紀」に、すでにジョチ家の勢力に対して「ジョチのウルス(ūlūs-i jūchī)」という表現が使われており、ティムール朝やムガル朝など下った時代の史料でもジョチ・ウルスの後裔であるウズベクを指して「ジョチのウルス」という用法が見られる。成立以来、40人近くいたとされるジョチの諸子とその子孫によって分封支配が行われたが、その中央政権は、ジョチの次男バトゥがヴォルガ川下流の平原に築いた都市サライを中心とし、ハン(※ハーンではない)の称号を帯びたジョチ裔の君主が支配した勢力であった。このサライの政権はハンが金で装飾された帳幕(ゲル、オルダ)を宮殿としたことから、ロシア語で (ザラターヤ・アルダー)、ウクライナ語で (ゾロター・オルダー)、英語で と言い、その日本語訳を黄金のオルドあるいは金帳汗国という。また、その支配下に入ったルーシをしばしば金ルーシと呼ぶが、日本語では金ロシアと訳されることが多い。ジョチ・ウルスが割拠した草原地帯はキプチャク草原と呼ばれるため、日本では、この遊牧国家をキプチャク・ハン国(欽察汗国)と呼ぶことが多いが、キプチャク・ハン国という語が18世紀に完全に消滅するまでのジョチ・ウルス全体を指す場合と、1243年に建設され1502年に滅びたサライを中心とする政権を限定して指す場合と定まっていないので、ここではジョチ・ウルスと呼ぶ。1206年、チンギス・カンが即位し、モンゴル帝国を興すにあたって、長男ジョチにアルタイ山脈方面に4個の千人隊からなるウルスを与え、イルティシュ川流域に遊牧させたのがジョチ・ウルスの起源である。1224年頃、ジョチが父に先立って死去した後、次男のバトゥがジョチ家の家長となり、ジョチがチンギスに命じられていた、南シベリアから黒海北岸に至る諸地方の征服の任を受け継いだ。1235年、クリルタイでの決定に従って、第2代皇帝オゴデイ・カアンはバトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征軍を派遣し、バトゥはヴォルガ中流域のブルガール、草原地帯のキプチャクなどのテュルク系、フィン・ウゴル系の諸民族、北カフカスまで征服して支配下に置き(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)、ルーシ(キエフ大公国),ポーランド,ハンガリーまで進撃した(モンゴルのルーシ侵攻、モンゴルのポーランド侵攻)。1242年、バトゥはオゴデイの訃報を受けて引き返し、オゴデイの後継が決まらず紛糾するのを見て、ヴォルガ川下流に留まることを決め、サライを都とするとともに、周辺の草原地帯を諸兄弟に分封して自立政権を築いた。建設当初のジョチ・ウルスはウルスの西半分(右翼ウルス)をヴォルガ川流域に遊牧する全ウルスの宗主バトゥの王統が統括し、東半分(左翼ウルス)をイルティシュ川流域に遊牧するバトゥの兄オルダの王統が統括した。『集史』によればジョチの世嗣とみなされていた兄弟は彼ら2人を含め14人いたことが知られているが、麾下の諸軍と兄弟たちをバトゥとオルダ両人で折半してこれを統括下に置いている。すなわち、バトゥはジョチの三男であるベルケ、四男ベルケチェルを恐らく中軍(コル)とし、右翼諸軍は五男シバン(シャイバーン)を司令として六男タングト、七男ボアル、八男チラウカン、十男チンバイら8人を麾下において中軍と右翼諸軍からなる右翼ウルスを形成した。一方のオルダは九男ソンコル、十二男ウドゥル、十三男トカ・テムル、十四男セングムら4人を麾下において左翼諸軍からなる左翼ウルスを形成した(資料によっては十一男ムハンマド・ボラと九男ソンコルが入れ替る場合もある)。このバトゥ(あるいはシバン)の右翼ウルスをバトゥ・ウルス(キョク・オルダ、 - 青帳ハン国とも)、オルダの左翼ウルスをオルダ・ウルス(アク・オルダ、 - 白帳ハン国とも)と呼ぶ。さらに属国として、ルーシの諸公国が従えられた。ルーシの諸公はサライのハンに対して納税の義務を負うとともに、しばしばサライへの出頭を命ぜられ、公の任免や生殺与奪をハンに握られた。ルーシの人々は、ジョチ・ウルスの人々をタタールと呼んだため、この属国としての状況を指して「タタールのくびき ()」という。1256年のバトゥの死後、後を継いだバトゥの諸子サルタク、ウラクチが相次いで早世したため、バトゥの弟のベルケが継いだ。1253年に第四代モンゴル皇帝モンケの発議にはじまるフレグの西方遠征には、ジョチ・ウルスも王族たちと諸軍を派遣している。すなわちオルダ家の次男クリを1万戸ともに派遣し、シバンの四男バラカン、同じくボアルの次男メンクカダルの息子トタル(ノガイの従兄弟)などであった。ところが、ベルケの時代の1260年に、このバラカンが遠征軍総司令フレグに対して呪詛を行ったとして捕縛され、一旦ベルケの宮廷へ送検されこれが事実と確認されたのち、フレグの許に再度送還され処刑されるという事件が起きた。ほどなくトタル、クリら他の二名も不審死し、1262年8月にはジョチ・ウルスから出向した諸軍が逃亡するという事態に陥った。これらの事件をフレグによる陰謀とみなしたベルケはフレグ率いる遠征諸軍と激しく反目する事となった。『集史』のフレグ・ハン紀に載る別の情報によれば、アイン・ジャールートの戦いの敗北の後の宴席でバラカンが急死し、これを毒殺と疑ったトタルがフレグを呪詛したためベルケのもとに送られ再度フレグによって1260年2月2日に処刑され、クリも急死したともいわれる。1262年11月、ついにベルケはトタルの従兄弟であったノガイを前線司令とする3万の軍勢をカフカス方面へ派遣した。こうして南カフカスのアゼルバイジャンを巡ってトルイ家(イルハン朝)のフレグと対立し戦争となった()。フレグ存命中はアゼルバイジャン地方を巡って両軍一進一退を繰り返していたが、アバカが即位してからはイルハン朝軍の猛烈な反撃にあい、司令官ノガイが負傷するなどしてジョチ・ウルス側の戦線が後退する勢いであったため、ベルケは親征軍を自ら組織し、カフカス山系をカスピ海岸から越境してアゼルバイジャン地方のムーガーン低地へ侵攻した。しかし、ベルケはこの遠征中クラ川を渡るため遡上したグルジアのティフリス付近で1266年に陣没してしまった。このようなことでベルケの遠征軍はかれの遺骸とともに首都サライへ退却し、ジョチ・ウルスのアゼルバイジャン遠征は失敗に終わった。1267年にベルケを継いだバトゥの孫モンケ・テムルの時代には、カフカス以南への遠征はフレグの後継者アバカによりたびたび撃退されたためイルハン朝とは一時和平を結んだ。モンケ・テムルの義母はトルイの三男クトクトの一人娘ケルミシュ・アガという人物で、クビライ、フレグらの姪であった。彼女はジョチ・ウルス内外で非常に尊敬されていた王族で、モンケ・テムルが即位して以降彼女は各方面に働きかけ、トルイ-モンケ、バトゥ時代からのジョチ・ウルスと大元ウルス、イルハン朝のトルイ家の両王朝との友好関係の再構築に奔走したことが記録として伝えられる。モンケ・テムル・ハンからトクタ・ハン時代までのイルハン朝、大元ウルスなどとの対外関係は、このケルミシュ・アガの影響が大きいようである。1260年にモンケが雲南遠征で陣没し、クビライとアリクブケの兄弟による帝位継承戦争が勃発すると、ジョチ・ウルスは一応カラコルムの留守居役であったアリクブケ政権を認証していたが、基本的にクビライ、アリクブケ両陣営には中立的立場を維持した。1264年にアリクブケの降服によってクビライ政権が名実共にモンゴル皇帝(カアン)位を獲得すると、これを追認している。モンケ・テムル時代には東方の中央アジアについてもまたフレグの兄でモンゴル帝国カアン(大ハーン)のクビライに反攻するオゴデイ家のカイドゥを討伐しようとしたが結局和平を結び、バラクへの牽制に協力した。このような情勢のためマー・ワラー・アンナフルに存在したジョチ家の食邑の確保などを優先したためクビライ・カアンとはやや距離を置かざるを得なくなった。この頃マムルーク朝のバイバルスにアバカのいる北西イランを協力して挟撃するよう秘かに要請してもいた。1277年、クビライによって中央アジアのカイドゥらの討伐に派遣された皇子ノムガンとココチュがモンケの息子で遠征軍に参加していたシリギらによって捕縛される事件が起きた。いわゆるシリギの乱である。カイドゥらに引き渡されたノムガンらはモンケ・テムルの許に護送されて、クビライはバヤンを西方へ派遣してこれの鎮圧へ向かった。このような中央アジアの国際情勢は緊迫していたなか、1280年にモンケ・テムルが没した。ジョチ・ウルスはこのためにただちにクリルタイが招集され、右翼諸軍の統括者になっていたノガイと左翼諸軍の統帥オルダ家の当主コニチによって、モンケ・テムルの同母弟トデ・モンケがハン位に推戴された。1282年にシリギがバヤンに降服し、ノムガンらもジョチ・ウルスから大元ウルスへ送り返された。ジョチ・ウルスでのノムガンらは上述のケルミシュ・アガらが率先して歓待し彼らを保護したため、クビライ家からは感謝されたようである。しかし、このトデ・モンケの即位を快く思わなかったモンケ・テムルの世嗣たちは、1287年反乱を起こしてサライを占領し、トデ・モンケ・ハンを廃位して首謀者のひとりトレブカをハン位に継がせて反乱首謀者の王族たちによる共同統治をはじめた。このクーデターに参加しなかったらしいモンケ・テムルの五男トクタは兄アルグイらに追われたが、西方にいた右翼の統帥ノガイに助けを求め、ノガイと共謀して最終的に反乱を起こした王族たちを誘い出し、彼らを処刑した。こうしてノガイらの推戴によって1291年にトクタがハン位を継いだ。バトゥの子孫が支配するサライのジョチ・ウルス中央政権(黄金のオルド)では、ジョチ家傍系であるジョチの七男ボアル家の当主ノガイがジョチ家王族の年長者であったことから、ジョチ・ウルスの君主であるハン以上に権力を行使しバトゥ家の当主たちの動向に干渉・対立した。ノガイはハンガリー、ブルガリアに勢力を伸ばし、バルカン半島方面に一大勢力を築き上げるとともに、ハンの改廃を自由に行ったとされる。ノガイ、トクタ両人はこの紛争の解決にイルハン朝のガザン・ハンに調停を使者を送って依頼したが、ガザンはジョチ家内部の紛争については不干渉を表明したため、バトゥ家内部での武力衝突は避けられないものとなった。1299年にモンケ・テムルの子トクタ・ハンと争い、殺害された。ノガイ没落後の14世紀初頭、トクタ及びその後を継いだ甥のウズベク・ハンのもとではバトゥ家のウルスは最盛期を迎え、首都サライは国際交易と商工業の中心として栄えた。また、ウズベクは支配下の遊牧民をイスラム教に大々的に改宗させ、ジョチ・ウルスのイスラム化がこの頃急速に進んだ。北東ルーシの小国であったモスクワ公国のイヴァン1世が、ウズベク・ハンに取り入り、北東ルーシ諸公の収税を集めて遅滞なく支払う責任と引き換えに1328年にウラジーミル大公の位を獲得して、モスクワ大公国を築き上げた。1359年にウズベク・ハンの孫ベルディベク・ハンが死ぬとキプチャク・ハン国ではバトゥの王統が断絶し、1379年までの20年間に21人以上のハンが交代するという大混乱に陥り、キヤト部族のママイ(1380年没)が黒海北岸を押えて大勢力となり、ハン国の事実上の支配者となった。また東部のオルダ・ウルスでも王統がオルダの子孫から、ジョチの13男トカ・テムルの子孫に移り、トカ・テムル裔のオロスが支配した。1362年、青水の戦い。1377年、。1378年、()。1376年、オルダ・ウルスにいたトカ・テムル裔のトクタミシュは、オロスと対立してティムール朝のサマルカンドに逃れ、ティムールの援助を受けて1378年にオルダ・ウルスの支配者となった。トクタミシュはサライに遠征してサライのハンの座につき、さらに1380年にはクリコヴォの戦いでモスクワ大公国に敗れて再起をはかる途上であったママイを討ち、ジョチ・ウルスの再統一を果たした。しかし、トクタミシュは支援を受けたティムールと対立し()、1395年、ティムールの大軍によるサライ遠征に敗れて没落し、マンギト部族のエディゲに倒された。1410年のグルンヴァルトの戦いでは、率いる約1000人のリプカ・タタール人軽騎兵がドイツ騎士団を陽動作戦で壊滅させた。1431年にがリトアニア大公国東部のシュヴィトリガイラから要請を受け、リトアニア内戦の反ポーランド軍をドイツ騎士団と共に支援した。一連の介入戦争は、ヨーロッパの勢力図を大きく変えることになった(1569年にポーランド・リトアニア共和国が成立)。これ以降、ジョチ裔の様々な家系に属する王族によりサライのハン位が争奪され、争奪戦に敗れた王族が他地方でハンを称して自立し、ヴォルガ中流のカザン・ハン国、カスピ海北岸のアストラハン・ハン国、クリミア半島のクリミア・ハン国が次々に勃興し、マンギト部族の形成した部族連合ノガイ・オルダや、大オルダと呼ばれるようになったサライを中心とするハン国正統の政権(黄金のオルド)などの諸勢力が興亡した。一方、東方の旧青帳ハン国ではジョチの五男シバン(シャイバーン)の子孫がハンとして率いるウズベク族(シャイバーニー朝)と、オロスの子孫がハンとして率いるカザフ(カザフ・ハン国)の二大遊牧集団が形成され、南シベリアではシビル・ハン国が誕生し、15世紀の間にジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われていった。クリコヴォの戦い以降、モスクワ大公国が急速に力をつけしだいに貢納を滞るようになり、1480年サライの大オルダの君主アフマド・ハンは大軍をもって進軍したが、モスクワ大公イヴァン3世に敗れてルーシの支配力を失った()。大オルダは1502年にクリミア・ハン国によってサライを攻略されて滅ぼされた。16世紀の間にカザン、アストラハン、シビルの各ハン国も次々にロシア・ツァーリ国に併合された。大オルダのハン位の継承者を名乗った最後のハンとなったクリミア・ハン国は、フメリニツキーの乱での独立に影響力を見せたが、1783年に至ってロシア・ツァーリ国に併合され、より影響力の大きなロシア帝国に変貌してポーランド分割に影響を与えた。多くの場合、大オルダの滅びた1502年か、クリミア・ハン国が滅びた1783年をもってジョチ・ウルスの滅亡としている。なお、ウズベクでジョチの子孫のハンが絶えたのは1804年で、カザフではロシア革命までジョチの子孫が王族として君臨しつづけた。4千戸のモンゴル遊牧民から発展しながら広大な領域を支配したジョチ・ウルスは、広大な支配地域のもとに多くのテュルク系遊牧民を含んだと推測される。このため、元来モンゴル系だった人々のテュルク化が進展し、勅令など支配者から発給される文書もテュルク語が使われた。また、イスラム教も早くに入り、2代ハンとなったバトゥの弟ベルケは即位以前からムスリム(イスラム教徒)であったことが知られる。しかし、ベルケを例外としてイスラム化はそれほど進まず、13世紀になってウズベクがスーフィーの影響で改宗したのをきっかけに、全ウルスをあげてイスラムに改宗した。ベルケやウズベク以降の諸ハンは、イスラムに改宗したことをきっかけにエジプトのマムルーク朝と友好を持ち、アゼルバイジャンをめぐって同族のイルハン朝としばしば争った。そもそもバイバルスをはじめ、マムルーク朝初期のマムルークたちが、ジョチ・ウルスの支配下で捕虜となるなどして奴隷としてエジプトに売られていったテュルク系遊牧民であった。ルーシに対しては、諸公の任免の最高決定権を握り、決まった税金をサライに納めることや戦時に従軍することを義務付けたほかは、間接統治に委ねられた。それでも諸公たちは頻繁に税金を携えてサライに赴いたり、敵対する諸公との争いで不利な裁定をされたりしないように宮廷や実力者への付け届けを余儀なくされ、納税や従軍の義務を怠れば懲罰として遊牧民からなる大軍の侵攻を受けるなど、大いに苦しめられた。もっとも、この「タタールのくびき」と呼ばれるモンゴルの支配がどの程度の圧政であったか、またモンゴルの支配がロシア史の展開にどの程度影響を及ぼしたかについてはロシアの歴史学会では19世紀以来、大きな問題として議論された点である。例えば、モンゴルの圧制がロシア社会の発展を妨げたとする説、モンゴルの支配によってロシアへは東洋的な専制支配を自己のものにすることができたのだとする説、モンゴルの支配はロシアの社会発展に特に影響を及ぼさなかったのだとする説など、様々な意見が出されてきた。この問題は決着を見てはいない。ウルン・テムル系キン・テムル系
出典:wikipedia
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