茨城県立筑波高等学校(いばらきけんりつ つくばこうとうがっこう)は、茨城県つくば市北条にある県立高等学校。通称「波高」(ばこう)。特徴的な行事として、百人一首大会が行われている。小倉百人一首に学校近隣の筑波山を詠んだ歌「"つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる"(陽成院)」があることにちなんだもので、毎年1月に開催している筑波高校では、校訓の代わりに「実践目標」を制定している。校訓が上から押し付けられたものと捉えられるのに対し、実践目標は生徒が自ら進んで達成しようとする目標にしたい、という思いが込められている。その内容は、「正しい判断」と「自主的行動」である。筑波山麓地域に中等教育を行う学校を設置しようとする運動は、1894年(明治27年)の「筑波郡筑波町ヘ尋常中学校設置之件」という221人の署名を添えた建議書を茨城県議会議長宛てに提出したことに始まる。この時に決まったのは、茨城県尋常中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)の分校を土浦(現・茨城県立土浦第一高等学校)と下妻(現・茨城県立下妻第一高等学校)に設置することであり、筑波町への設置は叶わなかった。その後、北条町に高等女学校を設立しようとする動きが昭和前期に2度起きたが、どちらも実現することはなかった。戦後の誘致運動は、新制中学校である北条中学校の開校式に出席した茨城県知事の友末洋治が式典後、「北条町にも高校を作ったらよいではないか。」と町当局に語ったことから高校誘致運動が始まった。1949年(昭和24年)秋になって県当局から、茨城県立土浦第二高等学校の分校を置いてはどうかと打診があり、1950年(昭和25年)に北条町が施設の整備・維持・経営費用を負担するという条件付きで昼間定時制の茨城県立土浦第二高等学校北条分校として開校した。しかし、北条町単独で費用負担を行うことには限界があったため、翌1951年(昭和26年)2月には2町6村による北条分校組合が結成され、分校が筑波高等学校に昇格するまでの10年間を支えた。ものまね芸人 バンドー太郎
出典:wikipedia
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