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ジョン・テンタ

ジョン・テンタ(John Anthony Tenta、1963年6月22日 - 2006年6月7日)は、カナダのブリティッシュコロンビア州サレー出身、佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。力士時代の最高位は東幕下43枚目。プロレス転向後はアースクエイク、ビッグ・ジョン・テンタなどのリングネームで活躍した。得意技はヒップドロップ。元レスリングのカナダジュニアチャンピオンという肩書きを持ち、1985年にルイジアナ州立大学を中退して佐渡ヶ嶽部屋に入門。。琴天太(後に琴天山)の四股名で1985年11月場所にて初土俵。以降、序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝し、21連勝を達成(前相撲を含めると24連勝)。しかし相撲界の雰囲気になじめず、また左腕の刺青を皮膚移植で消すことを要求され、1986年7月場所には東幕下43枚目に昇進するも土俵に上がらず通訳の女性との失踪騒動をおこし、初土俵後無敗のまま廃業した。相撲廃業後すぐに「プロレス入り」が噂され、1986年7月4日の新日本プロレス、翌5日の全日本プロレスの興行に連日来場。新日本のワールドプロレスリング中継では、アントニオ猪木と握手する姿が生放送されるなど歓迎ムードであったのに対し、全日本に来場した際はジャイアント馬場との接触もなく、あっさりしたものであったという。しかし、7月10日に全日本がテンタの入団を発表。この経緯には様々な説があるが、プロレスマスコミは「両団体が天秤にかけられるとはプロレスもなめられたものだ」という旨の皮肉をこめた記事を書いている。デビュー戦は1987年5月1日、ジャイアント馬場とタッグを組んで、ラッシャー木村&鶴見五郎と対戦した。このデビュー戦のリングコスチュームとシューズは天龍源一郎からプレゼントされた。同年9月には地元ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーでUWAヘビー級王座を、11月には同カナディアン・ヘビー級王座を獲得している。全日本在籍時の1987年には「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも参加。テンタのパートナーはアメリカでの実績が豊富なザ・グレート・カブキが務めた。この時期、全日本に参戦していたブルーザー・ブロディはテンタと対戦した際、テンタが持つアマレス仕込みの基礎と相撲で培った瞬発力を見抜き、週刊プロレスの記者に「いい選手が入ったな。俺とアイツのシングルマッチで客が呼べる日も近いぜ」と漏らし、テンタのプロレスラーとしての素質を高く評価していた。1989年よりWWFに参戦し、当初はカナディアン・アースクエイク、後にアースクエイク(Earthquake)のリングネームでヒールとして活躍。マネージャーにジミー・ハート、パートナーにはディノ・ブラボーを迎え、ハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーと抗争した。1991年からはタイフーンと「ナチュラル・ディザスターズ」なる超大型タッグチームを結成、リージョン・オブ・ドゥームとも激闘を展開した。1991年には当時WWFと提携していたSWSにも登場し、北尾光司と対戦するが、試合は全く噛み合わず、北尾が試合中にレフェリーを蹴り、反則負けを宣せられた挙句、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言、さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの(八百長試合)見て面白いのか!」と叫ぶなど、非常に後味の悪い結果となった。なお、北尾とは1994年に再戦するが、互いが終始いきり立ち格闘色の際立つ展開となってしまい、呆気ない幕切れとなるなど、初対戦時の後味の悪さは払拭できなかった。1992年からはベビーフェイスに転向し、7月にタイフーンとのコンビでテッド・デビアスとIRSのマネー・インコーポレーテッドからWWF世界タッグ王座を奪取した。その後はヨコズナとの相撲マッチなども行うが、1993年にWWFを離脱する。1994年からはWCWにジ・アバランシュ(The Avalanche)として参戦。ケビン・サリバンのダンジョン・オブ・ドゥームに加入し、前年にWCWに移籍していたハルク・ホーガンとの抗争を再開する。WCWではザ・シャーク(The Shark)とも名乗り、後に本名のジョン・テンタ名義で1997年上期まで在籍するが、WWF時代ほど活躍の機会には恵まれなかった。その間、1990年代中頃から後期にかけて、日本ではWAR、新日本プロレス、UWFインターナショナルなどに参戦している。1998年からは再度WWFに登場。マスクを被り覆面レスラーのゴルガ(Golga)に変身し、クルガンやジャイアント・シルバとの怪物軍団「ヒューマン・オディティーズ」で活躍するも、1999年に解雇される。その後はヨーロッパで活動するが、セミリタイア状態となりフロリダ州サンフォードでプロレスリング・スクールを運営していた。2001年4月、WWFのレッスルマニアX-Sevenで行われたギミック・バトルロイヤルにアースクエイクとして出場。2002年からは新体制になった全日本プロレスに登場。主に天龍源一郎とのタッグで活躍したが、2004年、体調不良のため現役を引退した。2006年6月7日、フロリダ州で膀胱癌のため42歳の若さで死去。

出典:wikipedia

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