竹内文書(たけうちもんじょ、たけのうちもんじょ、磯原文書、天津教文書ともいう)とは、神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称で、いわゆる古史古伝の書物。天津教の聖典であり、原本は後述の裁判に提出されたが、のちに焼失したとされる。一般には研究家らからは偽書とされている。平群真鳥の子孫であるとされる竹内家に、養子に入ったと自称する竹内巨麿(たけうちきよまろ/たけのうちきよまろ)が、1928年(昭和3年)3月29日に文書の存在を公開した。ただし、初期の竹内文書は格別に人を驚かすようなことは書かれておらず、骨子(特異な神統譜のようなもの)は同じだったとしても、現在知られているような超古代文明的な記述はまだなかったらしい。これらが書き加えられたのは昭和10年代以降である。また出版された本では版が改められるごとに加筆されていくという傾向があり、特に戦後になって出版された『神代の万国史』はそれまでにまったく無かった要素が大量に加筆されている(八幡書店が復刻した『神代秘史資料集成』は戦前のバージョンである)。出版物の元になった写本の多くは戦前に焼失し失われているが、南朝系の古文献を再編したとされる写本もある。当時竹内は皇祖皇太神宮天津教を興し、同宮の神職であった。元々の竹内文書は、彼の天津教と直接関係はないが、竹内文書の内容と、さらに新宗教天津教の教理が加えられたものが、同宗教団体の教典に位置づけられている。書物だけではなく、下記に述べる神宝の類まで包括して「竹内文献(たけのうちぶんけん)」ということが多い。竹内文書では神武天皇からはじまる現在の皇朝を「神倭朝(かむやまとちょう)」と呼び、これ以前に「上古25代」(または「皇統25代」)とそれに続く「不合朝(あえずちょう)73代」(73代目は神武天皇のことである)があり、さらにそれ以前に「天神7代」があったとしている。ちなみに上古21代天皇は、「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といい、イザナギ(『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神)にあたるとし、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」すなわちツクヨミ(『古事記』では月読命、『日本書紀』では月弓尊)であり、スサノオ(『日本書紀』では素盞嗚尊・素戔嗚尊、『古事記』では建速須佐之男命・須佐乃袁尊)の別名とされている。その他次のような記述がある。竹内巨麿(1875年? - 1965年)富山県上新川郡新保村生まれ。幼少のとき、母が暴漢に襲われ自殺、そのあだ討ちのために修行を思い立った。なお、巨麿の四男で、高畠家に養子に行った吉邦は「天神人祖一神宮」(富山滑川市)の管長である。山崎鐵丸は、川浦操の竹内文書紹介論文「長慶天皇の山陵に就いて」(1927年4月5日『國學院雑誌』33巻4号)をみた後「竹内家の記録に就いて」(1927年8月『國學院雑誌』33巻8号)において文献批判を行なった。狩野亨吉は、1928年(昭和3年)5月に、天津教信者2名から7枚の写真の鑑定依頼を受けたが断った。1935年(昭和10年)『日本医事新報』から鑑定を依頼され、7枚中5枚を鑑定し、偽造と回答した。翌、1936年(昭和11年)6月、岩波書店の『思想』誌上に発表した「天津教古文書の批判」により偽書と証明した。鑑定したのは以下の5文書の写真である。狩野亨吉は、1942年(昭和17年)年に検察側証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷証言する。南朝の熊沢天皇と名乗った熊沢寛道は、1947年(昭和22年)の選挙で、竹内文書が信雅王が伝承した品や宝物と一緒に盗まれたと言った。それは熊沢の支持者の吉田長蔵が福島県双葉郡葛尾村の光福寺(後に観福寺、南朝方の寺)から明治中期に虚無僧の斎藤慈教により盗まれ1920年(大正9年)に竹内巨麿が古物商から買い取ったと言ったことによる。この裁判にあたり、皇祖皇太神宮から「神宮神祠不敬被告事件上告趣意書」が、神宝を含む竹内文書約4,000点と史跡の現地調査の報告書などとともに、提出された。無罪判決となるも、提出物は裁判が終了してもすぐに返還がかなわず、それら原本は太平洋戦争中の空襲により『吉備津彦命兵法之巻』などを焼失したとされている。戦後、巨麿の子、竹内義宮がその写本を伝えている。
出典:wikipedia
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