岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日(1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、江戸時代末期の土佐藩郷士。司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振(読みについては「よしふる」の他「たかのぶ」、「のぶたつ」等諸説あり不明)。幕末の四大人斬りの一人。土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)に二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれる。弟に同じく勤王党に加わった岡田啓吉がいる。嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父・義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町(現在の高知市相生町)に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。武市瑞山(半平太)に師事し、はじめ小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。安政3年(1856年)9月、瑞山に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。翌年、土佐に帰る。万延元年(1860年)、時勢探索に赴く瑞山に従って、同門の久松喜代馬、島村外内らと共に中国、九州で武術修行を行う。その途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するであろうと武市が配慮し、豊後岡藩の藩士に以蔵の滞在と、後日、藩士江戸行の便ができたとき随行させてもらえるよう頼んだ。武市と別れ、以蔵のみ岡藩にとどまり直指流剣術を学ぶ。文久元年(1861年)、江戸に出て、翌年土佐に帰る。その間、武市の結成した土佐勤王党に加盟。文久2年6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。これ以降、土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺に参加。また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられた。なお一般的に「幕末の四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、後年の創作物によって「人斬り」の呼び名が定着したものであり、同時代の同志からは以蔵は「天誅の名人」と呼ばれている。以蔵は瑞山在京時の文久3年(1863年)1月に脱藩、その後八月十八日の政変で土佐勤王党は衰勢となる。脱藩後の以蔵は、土佐勤王党員の記録から長州藩邸の世話になっていたと推察される。その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、同志と疎遠になった後は一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に行っていたという逸話が残っているが、いつしかその龍馬らにも見放され、無宿者となるほど身を持ち崩した。元治元年(1864年)6月頃、商家への押し借りの科で犯罪者として幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺に関して首領・武市瑞山を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられていた。以蔵は女も耐えたような拷問に泣き喚き、武市に「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されている。間もなく拷問に屈して自分の罪状及び天誅に関与した同志の名を自白し、その自白によって、まだ捕えられていなかった同志からも新たに逮捕される者が続出するなど、土佐勤王党の獄崩壊のきっかけとなる。以蔵の自白が更に各方面へ飛び火することを恐れた獄内外の同志によって、以蔵のもとへ毒を差し入れる計画まで浮上したが、瑞山が強引な毒殺には賛同しなかったこと、以蔵の親族からの了承を得られなかったこともあり、結果的には、獄の結審に至るまで計画が実行されることは無かった。慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。享年28。墓所は高知県高知市薊野駅近郊の真宗寺山(しんしゅうじやま)にある累代墓地。宜振の名で埋葬されている。以上9件について、以蔵が関わったとする説が存在する。しかしながら研究者の間では、「この全てについて必ずしも関与していないのではないか」とする説も存在する。一方で、「暗殺が横行した文久2年~元治元年の間には未だに誰の手によるものか判らない(斬奸状により、尊王攘夷派であることだけ判っているものもある)暗殺事件も多く、そうした中にも以蔵が関わった事件があるのではないか」との見方もある。 『人斬り以蔵』はマルクス主義に強い関心を持つ青果による純粋な左翼劇であると指摘されており、以蔵が「利用され虐げられる存在」であるかのような実像と異なる被差別的なイメージの由来はこの作品に端を発している。 前述の真山の作品の特徴を踏襲している。以蔵に関しては「獄中で毒を送られた以蔵がそれに勘付き、武市らによる自身への毒殺未遂を恨んで自白に及んだ」というエピソードが有名だが、これは司馬遼太郎の創作である。司馬版『人斬り以蔵』では、父は郷士だが以蔵自身は他の同志より身分の低い最貧困層出身で軽んじられ、粗暴で余りにも教養・道徳心に欠けた人物であり、よって汚れ仕事(人斬り)を専門に請け負わざるを得なかったという描かれ方になっている。しかし研究者によると貧民ではなく一般的な郷士の子息としての教育は受けていたこと、天誅は複数の仲間と相談の上で協力し、また天誅希望者が殺到するほど競い合って行っていたことなどが判明している。土佐藩出身の志士たちのために各地で慰霊祭が行われていたが、以蔵は自白で同志に累を及ぼしたことで維新後顕彰を拒否されており、加えて現在に至るまで人斬りとしての負のイメージがつきまとい、慰霊祭は行われてこなかった。なお『龍馬伝』内における以蔵は、武市に従順な性格で、拷問に耐え最後まで自白しない人物として描かれている。
出典:wikipedia
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