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東京銀行

東京銀行(とうきょうぎんこう)株式会社東京銀行(とうきょうぎんこう、英称:"The Bank of Tokyo, Ltd.")は、かつて存在した日本の銀行。略称は東銀(とうぎん)、自行内や金融業界内では英語名を略してBOT(ビー・オー・ティー)と呼ぶこともあった。コーポレートカラーは緑。キャッチコピーは 「 広がる世界 身近な東銀 」1996年(平成8年)4月1日に三菱銀行と合併し東京三菱銀行となった。三菱東京UFJ銀行の前身の一つ。設立は1946年(昭和21年)。初代頭取は濱口雄彦。実質的前身は、戦前における特殊銀行・横浜正金銀行。普通銀行として新規に発足したが、事実上は閉鎖機関に指定された横浜正金銀行の資産を引き継いでの開業であった。1954年(昭和29年)公布の外国為替銀行法に基づき、日本で唯一の外国為替銀行(いわゆる「外国為替専門銀行」のこと。略称「為専」)となったが、便宜上都市銀行として扱われ、BANCSにも参加していた。本店は東京都中央区日本橋本石町一丁目にあった。この場所はかつての横浜正金銀行東京支店の位置であるが、日本銀行本店のすぐ隣りでもあり、この銀行が通常の商業銀行とは違う、かつての特殊銀行であったことを伺わせる。外国為替銀行法に基づく外国為替銀行という性格上、貿易に直接関係のない業務は認められないため、外国為替銀行の認可をうけるにあたっては半数近くの支店を閉鎖した。しかし、後にはその制約から円資金の調達に支障をきたしたため、日本興業銀行・日本長期信用銀行・日本債券信用銀行・農林中央金庫・商工組合中央金庫などと並んで金融債を発行することが許可されるに至った(後述)。また上記のことから、1954年(昭和29年)の時点で保有していた店舗のなかには、第一銀行 や 三井銀行 、大和銀行 などの他銀行へ営業を譲渡されたものもある(ただし、その後、譲渡先の近隣店等への店舗統廃合等で廃止となった店舗もある。譲渡店と同地域に再出店するケースも見受けられた)。金融債のCMキャラクターとして、15代目片岡仁左衛門(当時は片岡孝夫)と、その長女で宝塚歌劇団に所属していた汐風幸を起用していた時期がある。当初は汐風幸単独で、後に親子共演となった。比較的、旧 大蔵省 の影響力が強く、元 大蔵省 財務官 の柏木雄介を頭取(のち会長)として迎えるなど、人的つながりも強く見られた(もっとも、柏木雄介の父は、横浜正金銀行 の頭取を務めていたという縁もある)。合併時の会長であり、現在も 東銀 由来の国際通貨研究所の理事長を務める行天豊雄も元財務官である。1970年代までは、主に日系企業の海外進出の支援や国外でのシンジケート・ローン等に強みを発揮していたが、1980年代に入ると中南米向けの不良債権がその体力を急速に衰えさせ、外国為替業務の独占も既に崩れており、その優位性と存在意義は最早ゆるぎないものではなくなっていた。実際、1990年代にかけ、他行との合併の噂が浮かんでは消え、「引く手あまたの花嫁候補」などと報道されていたこともある。1954年(昭和29年)に外国為替銀行の認可をうけたことによる制約から、円資金の調達に支障をきたしたため、日本興業銀行・日本長期信用銀行・日本債券信用銀行・農林中央金庫・商工組合中央金庫などと並んで金融債の発行が許可された。それが「東京銀行債券」である。3年物の利付金融債「リットー」「ハイジャンプ」や、1年物の割引金融債「ワリトー」が主力商品であった。普通銀行であり金融債を発行していなかった 三菱銀行 との合併に際して、「東京三菱銀行債券」として6年間のみ継続発行が認められた。2002年(平成14年)、当該期間終了に伴い、 東京三菱銀行 は金融債の発行を終了した。1995年(平成7年)3月末、日本経済新聞により 三菱銀行 との合併がスクープされ、1996年(平成8年)4月に合併し 東京三菱銀行 となった。外国為替銀行法に基づき、業務に制約のある 東京銀行 を存続会社とするのは現実的ではなかったため、三菱銀行 を存続会社とし、合併比率も持ち株ベースで1:0.8と数字上三菱銀行に吸収される形で 東京銀行 は消滅したが、現在の 三菱東京UFJ銀行 の沿革図中に書かれる「横浜正金銀行-東京銀行」の位置を見てもわかる通り、事実上対等(もしくは、やや東京銀行側寄り)な合併であり、国立銀行条例に基づき政府の1/3出資により設立された横浜正金銀行を源流とする特殊銀行(外為銀)である東京銀行のブランド性と、富豪の金融事業に端を発する三菱銀行のボリューム力が、互いの求める部分に合致した非常に合理的な相互補完であった。また、この合併比率は東銀側に有利な算定であったとも言われる。新銀行発足当初の役員人事は、初代頭取を旧 東銀 出身の高垣佑(たすく)としたのをはじめ、見事なたすきがけ人事であったが、高垣の退陣後、東京三菱銀行 および現在の 三菱東京UFJ銀行 に至るまで、旧 東銀 出身者が頭取に就任した実績は皆無である。最後の頭取であり、東京三菱銀行の初代頭取も務めた高垣佑は、初代三菱商事社長・高垣勝次郎を父に持ち、生まれながらにして三菱グループびいきの人物との評があった。東京三菱銀行 の誕生は、このような高垣の人的バックグラウンドが大きく作用したと言われる。三菱銀行 との合併の際、新銀行名は「東京」を先に「三菱」を後ろに据えた「東京三菱銀行」( BTM: Bank of Tokyo-Mitsubishi )としたが、これは東京銀行が吸収した側であることを示すものではなく、単なる名(銀行名や頭取)と体(存続会社や本社機能所在地)のたすきがけであり、また、海外での東京銀行の知名度の高さを意識したCI戦略のひとつでもあった。その後東京営業部と本店の統合がなされ、旧 東急百貨店日本橋店脇にあった( 旧 三菱銀行 の )日本橋支店が東京営業部跡へ移転し、預金は日本橋支店(現: BTMU日本橋支店 )もしくは本店等に移管された。その後、2006年1月に 東京三菱銀行 が UFJ銀行 を救済合併( 吸収合併 )した際は新銀行名を 三菱東京UFJ銀行(BTMU: Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ)とBank of Tokyoを残し、海外との決済などで使われるSWIFTコードは 旧 東京銀行 の本店が使っていた「BOTKJPJT」が引き継がれた。旧 東銀では、保守的な日本の銀行界にあってリベラルな行風であったと言われる。女性を活用する行風があったこと、役員・部長を含め、上司に対して「さん」付けで呼んでいたこと、当時白シャツが主流であった日本の銀行員の中で、若手を含めカラーシャツを着用することが多かったこと、中堅行員はベルト代わりにサスペンダーを着用するなど、外資系金融機関的なカルチャーを有していた。合併後、旧 三菱銀行 の権威主義的・官僚的社風になじめず、外資系金融機関や国際機関などを中心に、転出・転職者が相次いだのも事実であり、現在では外資系投資銀行の幹部等として活躍している者も多い。旧 東銀 では男女雇用機会均等法が施行される前から女性を活用する行風があり、大卒女子学生の人気企業の一つであった。女性の管理職への登用も古くから活発で、三菱銀行 と合併する以前から、女性が本店営業部長を務めたこともある。現在、早稲田大学大学院教授の川本裕子も旧 東京銀行 出身である。※ 2014年現在

出典:wikipedia

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