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蛭子能収

蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、タレント、エッセイスト、ギャンブラー、俳優、映画監督。ファザーズコーポレーション所属。熊本県天草市生まれ、長崎県長崎市育ち。長崎市立長崎商業高等学校卒業。看板屋・ちり紙交換・ダスキンのセールスマンなどの職を経て『月刊漫画ガロ』(青林堂)1973年8月号に掲載された「パチンコ」で漫画家デビュー。以後、自販機本や官能劇画誌などアンダーグラウンドを中心に数多くの不条理漫画を執筆し、特異な作風で注目を集めヘタウマ漫画家としての地位を確立すると同時にサブカルチャーの分野においても重要な役割を果たした。1980年代以降はタレントとしての活動に比重を移し、数多くのテレビ番組に出演している。主な著書に『地獄に堕ちた教師ども』『私はバカになりたい』『私の彼は意味がない』『私は何も考えない』『なんとなくピンピン』『家族天国』『正直エビス』『ヘタウマな愛』『こんなオレでも働けた』『ひとりぼっちを笑うな』など多数。青林工藝舎の漫画雑誌『アックス』にて「隔月蛭子劇画プロダクション社内報」を連載中。1947年(昭和22年)熊本県牛深市(現天草市)生まれ、長崎県長崎市戸町育ち。兄と姉がいる末っ子。少年時代は貸本劇画誌『影』や『街』を愛読しており、山森ススムや辰巳ヨシヒロの劇画を好んで読んでいた。映画にも関心を持ち、勅使河原宏監督の『砂の女』など前衛映画も進んで鑑賞した。中学2年生の時に、不良グループに強制的に入らされ、いじめを受けていた。使い走りや持参した弁当をご飯と梅干しだけの日の丸弁当に無理矢理交換させられたり、学校で事件が起こると濡れ衣を着せられていた。家に帰るとノートに嫌な相手を殺す漫画を描いて学校の不満などを発散させていたという。この頃の将来の夢は「どこかの会社の事務員になること」であったという。商業高校時代は兄の勧めで美術クラブに所属する。そこで初めてグラフィックデザインに出会い、横尾忠則、宇野亜喜良、粟津潔、亀倉雄策に大きな影響を受ける。グラフィックデザイナー志望であったが、高校卒業後に地元の看板店に就職。当初からいずれは会社を辞めたいと思っていたと言い、看板店の同僚が主宰する漫画サークルに参加する。看板店には1965年から4年半勤務し、看板設置などをしていたが、漫画サークルで『月刊漫画ガロ』1968年6月増刊号「つげ義春特集」を読み「ねじ式」に感銘を受け「大阪万博を見に行く」と嘘をつき1970年に無断で上京する。上京後は出版社や映画会社に勤めようとするが高卒のため断られ、再び看板屋の職に就く。看板屋では事ある毎に自分を執拗に怒鳴りつける先輩のしごきに耐える寮生活を送り、憤慨した蛭子は「先輩の同僚」を残酷に殺す漫画を描くなど、創作活動に当時の不満をぶつけていた。また、この頃からATG関連の前衛映画を数多く鑑賞し、映画監督に憧れてシナリオ学校に1年程度通っていた時期もあるが、「誰とも喋った記憶が無い」ほど孤独な日々を過ごしていたという。ほどなく映画監督への道を諦め、最初から最後まで一人で作品を完成させることが出来る漫画家に転向、青林堂に漫画の持ち込みを始める。投稿1作目の「狂気が彷徨う」は落選したが、2作目で青林堂創業者であり名物編集長として知られる長井勝一に才能を見出され『月刊漫画ガロ』1973年8月号掲載の入選作「パチンコ」でプロの漫画家としてデビューする。この漫画家デビューを「ガロに入選するのは夢だったから、この時の喜びが今までの人生の中で一番嬉しかった。入選の通知を開けて狭い六畳のアパートで女房と一緒に飛び上がって喜んだのです」と述べる一方で、青林堂の経営難により原稿料が支払われる事は一度もなかった。長井勝一は後年『ガロ』のインタビューで、「蛭子さんは、ガロが経済的に悪くなっていった頃にデビューしたから原稿料が一度も払えなかったんだよな。ホント悪いことしたと思ってるよ。それは蛭子さんだけじゃないけどさ。ホントにありがたいと思うよ。もちろんほかの作家にも感謝してる。ガロはそうして続けてこられたんだから、作家のための雑誌という姿勢はくずしたくないよね」と、ノーギャラでも蛭子が『ガロ』に漫画を描き続けてくれた事に感謝の弁を述べている。後に蛭子は回想でと『ガロ』の入選を述懐している。このデビュー作はタイトルが「パチンコ」であるがパチンコは一切出てこず、「パチンコに行こうとしても行けずに百貨店を彷徨う男」を描いた奇妙なストーリーに仕上がっており、実際に見た夢に創作を交えて漫画にしている。この頃、糸井重里と湯村輝彦が共作した漫画「ペンギンごはん」シリーズに刺激を受けるが、漫画では収入を一銭も得る事ができず、デビューから2年程で寡作になり、1976年発表の「愛の嵐」以降『ガロ』での執筆が5年間途絶える。私生活では、長女・史英が生まれた1972年に結婚。しかし、金銭的には困窮しており、ちり紙交換の職に就くが、1974年に長男・一郎が生まれたのを機に漫画を趣味と割り切り、有限会社ダスキン練馬のセールスマンになる。サラリーマン時代の自身については、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でしたね。まぁオレの性格が意見とかそういうのが言えないから、めんどくさい業務とか残業なんかも頼まれると断りたいけど断れないんですよ。心の貧しい生活を強いられている、それがサラリーマンだと思っていたんですよね」と回想している。1980年8月、名物編集者の高杉弾(自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長)と山崎春美(バンド「ガセネタ」「TACO」のボーカリスト)の依頼により、自動販売機用成年雑誌『Jam』にて再デビューを果たす。また、この時に漫画家としての収入を初めて得る。漫画家人生の転機となった自販機本の『Jam』は「悪趣味系」として名を馳せたカルト雑誌として知られ、創刊にあたり山口百恵宅のゴミ漁りを決行し、誌面で使用済みタンポンを公開するといった挑発的な企画やパンクな誌面を展開したことから伝説化している。しかし、当の蛭子は「自分の漫画が認められたことは大いにうれしかったが、その『Jam』という本は見たことがなかったし、中味も何が何やら、さっぱり訳が分からないので、どうせ自分は、こんなところでしか扱われないのさ、という自分に対して嘲笑のうずを巻いた」と回想している。一方、再デビューの切っ掛けを作った高杉弾と山崎春美には再三感謝の弁をおべており、「私は、もう殆ど漫画を諦めて、ダスキンの社員として地道に社会人になろうと努めていた。そこへ漫画を描いてくれ、という人が現れたのだ。相手方はヒッピーらしき風貌の人と、目の釣り上がったインテリらしき若い二人連れで、私は何やら胡散臭いなと思ったが、原稿料として1ページ4000円払う、と言ったのだ。胡散臭い二人の男だったが、この金額と渡辺和博さんの漫画が載っていることで、私は喜んで描かせて下さいとお願いした。私は、この高杉弾と山崎春美という二人のおかげで、ついに夢であった漫画の仕事へ就くことができたのである。この雑誌は1年くらいで廃刊になってしまったが、すぐ『HEAVEN』という雑誌が出て、そこにも描いた。『これはもしかしたら漫画家でやれるんじゃないか』と思って、ダスキンを辞めることにした。その二人に『会社を辞める』ということを話したら、『それなら他の編集者も紹介しますよ』と言ってくれて、出会いが広がっていって、定期的に漫画の収入が入るようになった。だから二人に会っていなかったら、漫画家になってなかったかもしれない」と述懐している。この頃、青林堂を訪れた蛭子は長井勝一に「あと一年頑張ってみて、モノになるんだったらこのまま東京に残って、でもモノにならなかったら漫画家をやめて郷里の長崎に帰ろうと思う」と打ち明ける。この決断に長井は「本当に一年間頑張れるんだったら、単行本を出版して極力応援する」と蛭子を激励した。長井は後年「俺も蛭子さんの才能はただものじゃないと思ってたからさ、今思うと、あのとき力になれて本当によかったと思っているよ」と回想している。1981年、初単行本である『地獄に堕ちた教師ども』が青林堂から刊行されるのを機にダスキンを退社して漫画家として独立する。その後、蛭子はニューウェーブ漫画家の一人として『ガロ』以外に官能劇画誌などの媒体へも進出。つげ義春やATG映画に影響されたシュールで不条理なギャグ漫画や暴力的なモチーフを多用するダークな漫画を描くようになる。絵は決して上手とは言えないながらも「ヘタウマ」という作風で注目される。1980年代中頃、劇団東京乾電池の柄本明から劇団のポスターを依頼され、劇団に出入りするようになる。その後、柄本からの依頼で劇団東京乾電池の公演「台所の灯」(1987年5月15日・こまばアゴラ劇場上演)に出演する。これがフジテレビの横澤彪プロデューサーの目に留まり、1987年に『笑っていいとも!』に文化人枠でレギュラー出演する。俳優として舞台活動もこなし、テレビドラマ「教師びんびん物語II」への出演を皮切りにテレビ番組に本格的に進出し、特異なキャラクターを活かした芸能活動に比重を移して数多くのバラエティ番組に出演している。特にタレントとしての代表作であるテレビ東京系のバラエティ番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』シリーズでは、リーダー役の太川陽介やゲストの女性タレントと共に日本各地の路線バスを乗り継いでいき、行き当たりばったりの珍道中を展開している。数多くのテレビ番組に出演する一方で、タレントの仕事はあくまでアルバイトとしている。2003年に短編映画「諫山節考」で映画監督としてデビュー。この作品は元々シンガーソングライター・諫山実生のプロモーションビデオとして作られたものである。監督第2作目は2007年の『歌謡曲だよ、人生は』の「いとしのマックス/マックス・ア・ゴーゴー」(脚本も兼任)。2008年には『ガロ』の後輩漫画家で蛭子ウォッチャーでもある特殊漫画家・根本敬からの依頼で、漫画共作ユニット「蛭子劇画プロダクション」を結成。メンバーは、蛭子能収(社長)・根本敬(チーフアシスタント)・安部慎一・マスクベビー。2011年には、故郷・長崎の長崎歴史文化博物館において初の個展「えびすリアリズム -蛭子さんの展覧会-」が開催された。2014年には、エッセイ『ひとりぼっちを笑うな』を上梓。本書では「小さな頃から“分相応”的なものに自分らしさを感じ“他人に害を与えない”ことを一番大事に考えてきた」と述べ、つながりや絆を必要以上に大事にする現代社会の風潮に懐疑的な立場で独自の持論を述べた。この「内向的な人間のための幸福論」として刊行された著書は15万部を売り上げるヒットとなり、活字本ながら蛭子最大のベストセラーとなった。2016年には、長編映画初主演となる任侠映画『任侠野郎』が公開された。読む人を選ぶ非常にシュールな作風であり、「ガロ系」と呼ばれる日本のオルタナティブ・コミック作家のなかでも、特殊漫画家の根本敬・山野一・平口広美と並び、極北に位置する最も過激な作風の不条理漫画家であった。根本敬・山田花子・大槻ケンヂ・山野一・花くまゆうさく・福満しげゆき・巻上公一・水野しず・武内享・遠藤ミチロウ・柄本明など数多くのアーティストに多大な影響を与え、1980年代のサブカルチャー界を席巻した事でも知られている。独特の絵柄と他の追随を許さないエキセントリックな世界感を持っており、漫画の特徴を一言でいうと「暴力と狂気にまみれたシュールでグロテスクなナンセンス不条理ギャグ漫画」というようなものになる。作品は狂気と妄想に満ちており、日常の不満や歪んだ欲望に不気味な絵柄が相まって謎の緊張感が常に漂っている。登場人物は平凡なサラリーマンである事が多く、いずれも尋常でなく汗をかいている。背景の舞台装置には何故かストーリーに関係なくUFOやドクロが置かれ、ストーリーの内容も「大量に人が死ぬ」「頻繁に裸体が出て来る」「些細な不満が一気に爆発する」「意味のない掛け合いが続く」「救いようのないオチを迎える」など狂気に満ちており、もはや言語解説不可能な域に達している。特殊漫画家の根本敬は漫画家としての蛭子能収を「狂気を内側から描いている人」と評しており、後輩漫画家の山田花子は「感じたまま、ありのままの自分をさらけ出して描いている本物の作家」と評価している。また、漫画評論家の呉智英は蛭子漫画について「被害者意識と憎悪とが混じりあった悪夢のような作風は、余人の追随を許さない」と評しており、抑圧される人々を主人公にした救いのない不条理漫画が多い。この事に関して蛭子は「僕は文句を言ったりする勇敢な人より、つい何も言えずに我慢しながら生きている人が好きなんですよ。だからサラリーマンでも、一流会社で悠々とやってる人じゃなくて、低賃金のところでヒーヒーしている人をね。描いたりするのがね。弱い人間っていうのは、やっぱ魅力ありますよね」と語っている。漫画評論家の清水生も「蛭子は漫画において人間の本性を妥協なく露出している。蛭子漫画の恐ろしさはここにある。人間は家族でも夫婦でも恋人同士ですら憎んだり嫉妬したり裏切ったりする。蛭子は人間のあるがままの姿を直視し、それを彼流の手法でデフォルメして描き出す。彼の漫画に虚勢や見栄や気取りは通用しない」とまで述べている。この様な作風のためメジャー誌での連載経験は皆無に等しく、主な執筆活動の場は、青林堂の『月刊漫画ガロ』や青林工藝舎の『アックス』など、極めて自由な創作が行えるマイナー志向の超カルト的サブカルチャー雑誌を中心に活動しており、アウトサイダー・アートに対応した“特殊漫画家”と呼ぶべき存在でもある。単行本は絶版や品切のため入手困難な状態が長年続いていたが、2016年に青林工藝舎から処女作品集『地獄に堕ちた教師ども』(1981年・青林堂)が35年ぶりに復刊され、現在も入手可能な単行本となっている。自由な創作が行えるアンダーグラウンドには思い入れがあり、「暗いジメジメしたところのほうがやはりおもしろいですよ。そんなジメジメしたところでしか出ない美しさというものがアンダーグラウンドにはあるんです。それは本音の美しさですね。日の当たるあっちのほうは飾られた美しさです。オレはやっぱり地下活動、アンダーグラウンドが好きですね。」といった発言があることから大衆・万人に受け入れられる作品づくりにはあまり興味がない模様である。コラムニストの野々村文宏も「この人の漫画に一般受けもへったくれもないと言うべきだろう」と評しており、それゆえ漫画のファン層は非常に限られているが、その強烈な個性を露出した表現は他の追随を決して許さないものである。漫画を描く際は、自分が見た夢をもとに漫画にするという特殊な手法で描いている(同じガロ系作家の逆柱いみり、つげ義春、とま雅和、ねこぢる、山野一も同様に「夢の世界」を再現したシュールな漫画を描いていた)。しかし、後に夢をあまり見なくなってからは、何となくネタを絞り出すようになったという。「夢をもとに漫画を描く」という創作方法は、20歳のときに読んだつげ義春の漫画作品「ねじ式」に大きな影響を受けている。自著でも「この世の中にこんな漫画があるのかって驚きましたね。とってもシュールな漫画なんですよ。不思議でヘンテコな世界だけど、芸術作品のような漫画にとにかく衝撃を受けてオレも漫画を描き始めました。それまではピストル殺人事件など素直な漫画を描いてたけど、この漫画を見てからはわけのわからない漫画を描くようになりました。それでようやく漫画で食えるようになったのは30歳半ばの頃。ずっと漫画家になりたいとコツコツやってきたから“生きがい”は見つかったと思いますよ。テレビの仕事は儲かるけど“やりがい”はありません。“ねじ式”のような作品を描いてみたいから今でも原稿料が出ない雑誌でも連載を持っているんです。」と、漫画家人生を左右する程の衝撃を「ねじ式」から受けた事を幾度となく述べている。また、漫画では本心を描くので怒りを感じる相手には同様のシチュエーションで「漫画の中で徹底的に殺す」と話しており、実際の人物に配慮して特定できないように描いている。かつて息子の同級生が冷蔵庫のプリンを勝手に食べ、帰り際に息子の顕微鏡を強引に拝借した事に憤慨した蛭子は、漫画『家族天国』で同様のシチュエーションを描き、最後にバットで殴り殺すオチを描いている。漫画家活動初期は、そのキャラクターが知られていないこともあり、「難解な前衛漫画を描く得体の知れない謎の天才漫画家」と理解されており、同業者である根本敬やマニアックな読者に、「この人は天才なのかキチガイなのか、あるいはその両方か、もしかしたら美大くずれの物凄いインテリなのかもしれない」と恐れられていた逸話がある。根本敬は『ガロ』のパーティー会場で蛭子と初めて会った際の印象について、「もうひと目見て凄いショックを受けましたね。描いてる漫画と実際のギャップが本当に凄かった。俺も凄く蛭子さんの漫画が好きでね。もう憧れてましたよ。まあ、我々の中ではすでにスターでしたね。当時はまだ蛭子さん本人が露出することなんてなかった時代ですからね。本人が現れる以前に漫画的に見て、どういう人なんだろうなあ、こんな漫画を描く人はって。神経質そうなさ、おっかない人を想像してたわけですよね。それで蛭子さんと実際に会った時は、えーっ、これが!嘘だろって。やたら腰の低いペコペコばかりしている人畜無害そうなおっさんが実は蛭子さんだったというね。」と自著『因果鉄道の旅』で回想している。官能劇画誌『漫画大快楽』元編集長の菅野邦明も、常識や倫理性を無視した過激極まりない不条理な漫画の内容から「蛭子能収という人はキチガイなのだろうか?」と怖がっていたという。インタビューの中で菅野は「蛭子さんに仕事を依頼したい一方で、最初は本人に会いたくなかったですね。やっぱりこの人キチガイじゃないかと思ってて。ちょうどその頃、あるパーティーに蛭子さんが渡辺和博さんと一緒に来てたんです。そこで紹介された蛭子さんは、作品からは想像もつかない、礼儀正しく大人しい人でびっくりしました。」と、その落差に衝撃を受けたことを述べている。しかし、蛭子の言う「素人の時代」の波に乗り、気付いたらテレビに出始め「正体不明の不条理漫画家」から「さえない面白おじさん」として世間一般にキャラクターが知れ渡ると、描いている漫画と本人とのギャップのせいか、本業であるはずの漫画が売れなくなってしまったという。後に、そのキャラクターのおかげで「漫画家としての知的な印象がテレビ出演後は消えた」と、インタビューで自虐したことがある。根本敬も、「もっぱらアーティストとしての評価はおざなりで、特異なテレビタレントとして名高いが、それを惜しむ声も高い。しかし、肝心のアーティストとしての高い評価には本人はあまりにも無自覚であり無防備である。」と述べている。蛭子本人も「本当は自分の顔とか姿を人前に晒したくなかった」と述べており、「最初に舞台に出たのは柄本明さんから出てくれって頼まれたから。オレはホントは出たくなかったんですよ。それでテレビの依頼も来るようになって…。だけど、人から頼まれたことを断るのもイヤなんですよ。仕事にしたって、せっかく頼まれたら普通は断らないでしょ。ホントは一般の人に埋もれて普通に過ごしたかったんですよ。正直なところ、どうしてオレがテレビに出ているのか未だに不思議で仕方ありません。」とテレビに出て顔が売れてしまった事には否定的なコメントを寄せている。また、テレビに出て顔が広まると、見ず知らずの他人から日常的にいたずら電話されたり、不良に絡まれたり、競艇場で頭を叩かれたり、家の玄関にうんこを投げ入れられるなど嫌がらせを受けるようになったという。これについて「オレは芸能人の中でも特に絡まれやすいみたいで…だから本当はテレビに出たくないんですよ。それでもテレビに出るのはお金がいっぱい貰えるからです。オレは漫画家だし、社交的なのが本当に苦手なんで、テンションが高い芸能界の人との付き合いも苦痛で…ホントは変装なんかせず堂々と顔を晒して歩きたいんですよ。」と複雑な感情を打ち明けている。その一方で、「テレビ出演のギャラと比べても漫画の原稿料は格段に安い。『スーパーJOCKEY』での熱湯風呂のギャラは20万円だった。1日2本撮りなので2回熱湯に入るだけで40万円になる。こんな労働があるのかってすごくびっくりしましたよ。ある時、同級生に『お前あんな情けない仕事するなよ』と言われたが、僕は彼らの月給分をたった1日で稼いでいるのだからやめられるわけがない。」とテレビの仕事に対する独自の持論を語っている。1973年のデビューからアバンギャルドな不条理漫画を一貫して描いてきたが、インタビューで「オレの描く漫画は不条理漫画って呼ばれてますけど、きっと宝島で『不条理でポン』っていう4コマ漫画を描いてたからでしょうね。でも、オレの中ではまったく不条理ではなかったんですよ、ただやみくもにわけのわかんない漫画を描いていただけで、不条理っていう言葉にはまた別の意味があると思ってましたから。周りもオレの漫画を勝手に深読みしてくれたけど、ほとんど何の考えもなしにあっけらかんと漫画を描いているんです。私の漫画は意味がない。」と述べている。戦後50年漫画出版に携わり白土三平や水木しげるといった有名作家から、つげ義春や花輪和一といった異才までを輩出していった名物編集長の長井勝一は『ガロ』のインタビューで蛭子の特異な作風とキャラクターについて次の様に述べている。一般的な価値意識に左右されない自由奔放な発言や振る舞いで物事の本質や核心をストレートに突くことが多く、自分の考えを包み隠さずに本音で話すので顰蹙を買う事もある。これについて伊集院光は「人間は全員、素っ裸になれば蛭子さんとそれほど大差がない。社会通念に沿って何かそれを言わないようにしようとか、オブラートに包むとかあると思うけど、蛭子さんはそれを包み隠すことがなくむき出しなんですよ。真剣勝負の戦いに武器を持たずに素っ裸で来て、斬った者が負けるような感じが蛭子さんにはある。」と解説している。また、蛭子ウォッチャーの吉田豪は蛭子について「馬鹿正直な合理主義者」と評している。因果者・電波系人間探訪の権威にして特殊漫画大統領の根本敬は蛭子について、常識や理性では解釈できない人知を超越した計り知れない特異な存在であると述べており『人生解毒波止場』の「あとがき」でと語っている。また、根本は蛭子について「知的装飾の欠如した言動」をすると評しており、実際に蛭子は褒め言葉のつもりで大林素子に「セックスしたことあるの?」と尋ねた際に「何故かすごく困った顔をされた」という感想を述べている。自著『正直エビス』でも「公明党は宗教政党」「いじめで自殺に追い込んだ子供たちは死刑にすべき」など歯に衣着せぬ過激な持論を展開しているが、これに関して蛭子自身は「オレが常日頃から思ってることですから全然過激だとは思ってないんですけど」と述べており、逆にインタビュアーに対して「どのへんが過激に見えましたか?」と聞き返している。これについて根本は蛭子の本質を無意識過剰と述べている。雑誌『HEAVEN』元副編集長の野々村文宏も、「すべての自称芸術家は社会的にもうひとつの顔としての“世間体”を演出している。ところが一介のダスキンのセールスマンとしての蛭子能収には、まったくといって良いほどこの“世間体”が欠落していたし、もともと蛭子能収という人格のなかには“世間体”を作り出すこころのメカニズムが欠如していたかもしれないのだ。市民生活のなかに芸術家の顔を持ち込めなかったのはこのためである。」と解説している。この様に建前や他人を意識しない言動が目立つためエキセントリックなテレビタレントとして広く認知されているが、本人としては「自分が特別な存在であるなんて思ったことがない。子どものころから“目立ちたい”という発想もほぼ皆無でした。クラスにも目立ちたがり屋の子がいましたが、そういった“目立ちたい”という振る舞い自体がよくわからなかった。オレね本当に普通なんです。“オンリーワン”じゃなくて“ワンオブゼム”でいい、みんなの中の一人でいい。」と述べている。事実無根の“恐怖伝説”がインターネット上を中心に数多く流布されておりなど枚挙にいとまがない。これら噂の大部分は蛭子の知人らが面白半分で流したものであった事が判明している。事実無根の“恐怖伝説”に関して蛭子本人は、「オレの噂話のなかには、かなり誇張されたり間違ったりして伝わってるものがありますが、まったく気にしませんね。だってオレの事をタダで宣伝してくれるんですから。それをテレビ局の人が見て次の仕事やお金につながるかもしれない。伊集院光さんや水道橋博士さんも、オレのことを『芸能界一のクズ』とか『芸能界一恐ろしい男』として、ラジオやテレビで宣伝してくれるんですよ。」と述べ、「噂はどう転ぶかわかりません。逆に楽しんでいればいいんです。」と一蹴した。実際に蛭子の噂を聞きつけた勝俣州和がTBSテレビのバラエティ番組『水曜日のダウンタウン』に「蛭子能収を超えるクズそうそういない説」として検証企画を持ち込みオンエアされるなどしている。兄と姉の三人兄弟の末っ子。最初の妻との間に儲けた1男1女と、現在の妻の連れ子である義娘の計3人の父。愛妻家として広く知られており、前妻と死別した際「人間って誰かを幸せにしたり喜ばせるために生まれてくると思ってるんですよ。で、一番身近な誰かって、結局は家族でしょう。女房は俺を幸せにするために生まれてきた。そして俺は女房を喜ばせるのが運命だった。そういうことではないですかね。」と著書『ヘタウマな愛』で述べた事がある。奥さんと仲の良い秘訣については「一緒の布団で寝ること」とのことで「激しい夫婦ゲンカをしても、同じ布団で寝れば肌も触れ合う。そうすると自然と仲直りしているんですよ。」と語っていた。そんな不遇の時代を支えてくれた最初の妻は2001年に肺高血圧症で逝去。前妻の死によって「寄り添う相手の居ない本当の孤独」に襲われたことを述べている。寂しさのあまりマネージャーや周囲の女性に必死でアプローチをかけたが、すべて失敗したという。その2年後の2003年4月に雑誌・女性自身の企画のお見合いパーティーで19歳年下の女性と知り合い、3年半に及ぶ交際の末、2007年1月に再婚。再婚を機に、それまで住んでいた埼玉県所沢市を離れ新居を構えた。この再婚相手の女性の娘は「蛭子さんの娘」としてテレビに出演している。また、杉作J太郎率いる男の墓場プロダクション製作の映画にて、「希和」の芸名で女優デビューを果たしている。両親は徳島県海部郡日和佐町(現・美波町) 出身。父親の鹿之助は漁師。漁業の町である日和佐町は、えびす信仰が根強く恵比須や戎といった地区名が数多く残っている。しかし、日和佐町で蛭子姓を名乗ったのは蛭子一家だけだったという。長男の蛭子一郎(1974年 - )はKID所属の元ゲームプログラマーで、現在はノイジークローク所属のサウンドデザイナー。かつて『スーパーJOCKEY』の熱湯風呂に親子で入らされたこともある。海と山と島の自然が見える故郷・長崎には思い入れがあり、実家があった場所に女神大橋の橋脚が完成したことについて、「自然の中に鉄骨がある風景はあんまり好きじゃない。島がいっぱいあって、夕日がきれいな景色とかは、ずっと大切にしてほしい。」とコメントしている。子供の頃から笑ってはいけない場面で笑ってしまう失笑恐怖症を患っており、小学校の国語の時間で教科書を朗読する際にも必ず笑ってしまい、ほかの生徒達が面白がって笑ってくれても、段々と白けていき、静かな教室で自分の苦しい笑い声と先生の怖そうな顔が目立って冷や汗をかいたという。歯科医院でも笑ってしまい、顔を真っ赤にして涙を流しながら金具を口に入れて治療を受けた際に、看護婦に「痛かったですか?」と勘違いされた。眼科でも「笑ってはいけない」と治療に望むも、目医者が目薬を注す時に「おっとっと」と口にして頬に一滴落としてしまい、思わず二、三分間、笑い続けてしまったという。親戚のお年寄りが亡くなった際も親戚の女の子と葬式の一番後ろに着いて、ずっと二人で笑っていたと少年時代を回想している。この時から「親の葬式の時は果たして笑わないでいられるだろうか」「どれほど深刻ぶる事が出来るのだろうか」と常に悩んでいたという。出演するテレビ番組でも、悲しい場面で笑ってしまい、生放送だったため、CMに切り替えられたことがある。きたろうは以前に蛭子と共演した際、蛭子が「きたろうさんが刑事役をやるのがおかしい」と笑ってばかりでNGを連発してしまい、ひどい目に遭っている。競走馬のテンポイントの感動シーンでも、ひとり爆笑して雰囲気を壊したことがある。また、雑誌の企画で杉作J太郎の包茎手術の様子を漫画に描くため手術現場に同行した際にも「あそこがキノコ雲になってる」と終始爆笑していた事が明かされている。蛭子自身「結婚式も葬式もパーティも“式”そのものがすごく苦手」「特に葬式は極力行かないようにしている」と述べており、知人の葬式でも「参列者全員が神妙な顔をしている」「笑ってはいけないシリアスなシーンにいる自分が滑稽」ということがおかしくて笑ってしまい、そのため「笑う悪魔」というニックネームを付けられた事もある。自身のファンクラブ会長の葬儀に参列した際には、棺の中に自著『なんとなくピンピン』が収められているのを見て笑いが止まらなくなり、会葬者をあ然とさせ、連れだされた逸話がある。この悪い癖のため、逸見政孝の追悼番組で出演を拒否されたこともあった(出演拒否の英断を下したディレクターは何の因果か交通事故で翌年死亡)。また、ビートたけしの母が1999年に亡くなった際に葬儀に参列した際も、笑顔で葬式を過ごし、北野家の遺族達を激怒させたと言う。また、自身の母親の葬式でも終始笑顔で、親類にたしなめられたという。26年ぶりに再会した実兄も母親の葬式を笑顔で過ごし、葬儀終了後に2人でパチンコに出掛けようとしたという。ただし、最愛の元妻が死去した時は唯一涙を流して悲しんだ。その後、「オレは両親が死んだときでさえ泣かなかった。人でなしと思われるかもしれないが、人前で変に感情をあらわにするなんて、恥ずかしいことだと思っていた。でもこの時は生まれて初めて本当の孤独というものを知ったのかもしれない。」と述べている。※現在多くの作品が紙媒体で入手困難この他、1994年8月に出版された朝伊達宙也の『マンガ麻雀入門』(永岡書店:刊 ISBN 978-4-5222-1235-6)の監修及び本文解説文章執筆や本書内の写真出演もしている。

出典:wikipedia

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