陸 遜(りく そん、183年 - 245年3月19日)は、後漢、中国三国時代の武将、政治家。初名は陸議。字は伯言(はくげん)。謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸駿の子。弟に陸瑁、子に陸延・陸抗。孫に陸機・陸雲など。後漢末期より、揚州を中心とする江南に勢力圏を築き、後に呉を建国した孫権に仕えた。山越討伐で頭角を現し、孫権に才能を買われ、関羽討伐戦や夷陵の戦いにおいて名をあげ、軍政両務における呉帝国前期の重臣として重用されたが、晩年は二宮事件に巻き込まれ、孫権と対立した。揚州呉郡呉県(現在の蘇州市)の人。陸氏は呉郡の四姓と呼ばれる有力豪族であり、陸遜はその傍系として生まれた。父の陸駿は徳と誠心を持った人物として慕われたが、九江郡の都尉にまでなったときに亡くなった。陸遜はまだ幼かったため、本家筋の陸康(陸遜の従祖父)を頼った。陸康は後漢王朝の廬江太守であったが、揚州を袁術が牛耳るようになると、当初は末子の陸績を寿春に赴かせるなど友好的な関係であったが(「陸績伝」)、やがて兵糧問題により袁術と対立し、その部将である孫策の攻撃を受けるようになった。陸康は他人に頼んで、陸遜と親戚は本籍である呉郡に送り返しれて。陸遜は族長と叔父の陸績より数歳年長であったため、代理家族事務を担当する。203年、陸遜は孫策の弟の孫権が幕府を開いたときに初めて仕えた。そのとき、21歳になっていた。孫権の幕府の東曹と西曹の令史(秘書官)を務めた後、海昌(塩官県)の屯田都尉となり、海昌の統治も同時に行った。旱魃となったため民は困窮したが、陸遜は施しを行って民の窮地を救う一方で、農業と養桑を推奨し、民の生活を支えた、号は「神君」。孫氏の版図である呉郡、会稽郡、丹陽郡には、孫氏の統治に従わず逃散している人々がいたため、陸遜はその中から兵士を募ることを申し出た。山越の不服従民の頭領に潘臨という者がおり、各地を荒し回っていたが、陸遜は志願兵を募って奥地まで出兵してこれを平定し、自身の部曲に編入した兵士は二千人に上った。216年、陸遜は賀斉と共に討伐し数千人を斬って反乱を鎮圧した。続いて鄱陽の不服住民の尤突の反乱を鎮めた。この功績で定威校尉となり、利浦に軍を駐屯させた(「賀斉伝」)。孫権は兄の孫策の娘を陸遜に娶わせ、政治の意見を何度も求めた。陸遜はさらなる軍勢の強化と国内の安定を急務だとし、そのためには内憂である山越を討伐し、それを通じて精鋭を増やすことを主張した。孫権は陸遜を帳下右部署(親衛隊長)に任じた、儀仗を授与する、會稽、鄱陽、丹陽三郡の統治。この時、丹陽の不服従民である費棧が曹操の扇動により蜂起したため、孫権は陸遜にこれを討伐させた。陸遜は、大軍を集めた費棧に対し寡兵であったが、夜襲をかけてこれを打ち破った。陸遜は東方の三つの郡で募兵を行い、精兵を数万人得るとともに、力が劣るものは民戸に編入した。賊達は一掃され治安は強化された。陸遜は蕪湖に駐屯した。会稽太守の淳于式は陸遜の行いを見て、不法に民衆を軍隊に編入させて民衆を混乱させている、と孫権に報告した。その後、陸遜は孫権と会話したとき、話題のついでに淳于式を褒め称えたため、孫権は年長者の風格をたたえている。219年、荊州方面で劉備の将軍である関羽と対峙していた呂蒙が病気になり、建業に戻ることになったとき、その帰路の途中で呂蒙と対談を申し入れ、関羽を打倒し荊州を手に入れる謀を練ることを勧めた。呂蒙は建業で孫権と会ったとき、代理の武将について相談されたため、陸遜は才能が優れており、かつ関羽に名が知られていないことから、適任であると述べた。孫権はかくして陸遜を召し、偏将軍・右部督に拝して呂蒙に代えた。陸遜は謙った態度の手紙を送って関羽の軍功を称えた。そのため関羽は油断し、呉に対する備えを完全に怠るようになった。陸遜はこのような状況であることを孫権に報告し、関羽を捕えるための作戦の要旨を述べた。孫権はこの知らせを受けて、関羽討伐を決断し、呂蒙と陸遜をその先鋒として長江を下らせた。陸遜は呂蒙と共に公安と南郡を攻撃し、たちまちのうちに降伏させた。陸遜は宜都に入り宜都太守の職務を遂行し、撫辺将軍、華亭侯に封じられた。219年11月には、劉備の任命した宜都太守の樊友は逃亡し、郡にある城の長官や居住する異民族達は陸遜に帰順した。陸遜は呉の朝廷より金銭や宝物を与えられると、それらを帰順してきた者に振舞った。部下の李異や謝旌に命じて、近隣の劉備軍の残党や支援者を追討させ、討ち取ったり捕虜にしたり帰順させた者の合計は数万人にも達したという。この功績により陸遜は右護軍・鎮西将軍・婁侯となった。『呉書』によると、孫権は陸遜の手柄と人徳に報いるために、上将軍とし列侯としたという。さらに揚州牧の呂範に命じ、陸遜を州に招いて別駕従事とし、茂才に推挙したという。陸遜は、新たに呉に服属した荊州の者達の多くが能力に応じた活躍の場が得られない状況を見て、その不満を取り除いてやるよう孫権に上奏した。孫権はそれに従った。222年、蜀(蜀漢)を興し自ら皇帝となった劉備は関羽の復讐と荊州の奪還のために呉との国境地帯に侵攻してきた。陸遜は孫権により大都督に任じられ、朱然、潘璋、宋謙、韓当、徐盛、鮮于丹、孫桓ら5万の軍を率いて劉備軍と対峙した。諸将は古い軍歴を誇る宿将であったり、宗室に連なる身分であったりしたため、陸遜を侮るような態度をとったという。しかし、陸遜は剣に手をかけて軍令を遵守させた(『呉書』によると、諸将は出撃を主張したが、陸遜は終始慎重な姿勢を崩さなかったため、陸遜を臆病者と揶揄したという。)が、孫権の上意を仰ぐようなことは決してしなかった。また、孫桓が夷道において敵に包囲されたときも、孫桓を信じて救援に赴かなかったため、孫桓に恨まれたという。劉備は盛んに呉軍を挑発したが、陸遜は伏兵を見破りそれに応じなかった。劉備軍の疲弊を見て取った陸遜は反撃に転じ、火攻めなどで攻撃し、退路を断って蜀軍を壊滅させ、劉備を白帝城に敗走させた(夷陵の戦い)。このときになって初めて諸将は陸遜を信頼し、また、窮地を脱した孫桓も陸遜の智謀の深さをさとって畏敬の念を表した。また、孫権も軍がそのような状況であってもなお、諸将の勝手な振る舞いを主君である自分に報告してこなかったことを評価し。孫権は大いに笑って善しと称え、陸遜に輔国将軍を加官し、荊州牧とし、江陵侯に改封した。劉備は白帝城にとどまり、本拠を移したため、徐盛、潘璋、宋謙は孫権に上奏し、劉備を捕えるため白帝城を攻撃することを求めた。このことについて陸遜は孫権に意見を求められると、慎重論を主張していた朱然や駱統の意見に同意を示し、魏の曹丕は表向きは援軍と称して軍を進めてきているが、実は呉を攻撃することを企んでいるから、それに備えるため軍を撤退させることを求めた。まもなく曹丕は呉への攻撃の意思を示し、江陵など三方面から攻撃をしかけてきた。敗北後に呉と和睦する意思を持つようになった劉備は陸遜に手紙を送り、蜀から援軍を江陵に送ることを提案したが、呉蜀の国交が回復したばかりであることと、蜀軍は敗北で疲れきっており、国力の回復に努めるべきではないか、と意見し、これを断ったという(『呉録』)。223年四月、陸遜は王相の孫邵と率いる群臣一緒に孫権が尊号に即くことを勧進した。(「建康實錄」)劉備が死去し、劉禅が蜀の皇帝に即位すると、諸葛亮が丞相として政権を握り、呉と蜀の国交は完全に回復するようになった。孫権は諸葛亮に手紙を送るときは、常に陸遜を通じて行い、また、自身の印璽を陸遜に預け、呉の蜀との外交文書は陸遜が添削した上で発行されるようにした。226年春、孫権は民衆が疲弊し、耕地が放置されていることを憂い、その対策を求めた。陸遜は上奏し、諸将に農地を開墾されるよう願ったところ、孫権はその意見を褒め、自らも実践するよう取り計らった(「呉主伝」)。冬、陸遜は孫権に施策を上言し、寛容な政治を勧めるとともに、卑しい者達の売名目的の言葉に耳を貸さないよう願った。孫権の報答は、「私と君とは義を分つこと特に異なり、戚族としての繁栄を同じくしてきた。表にある『多数派に迎合して取り入る為の、一時凌ぎを敢えてせず』とは、これは実に君に甘心から所望するものなのだ」、役人に命令して法令をすべて書き写し、郎中に命じて陸遜と諸葛瑾の元にそれを送り、加除修正させた(「呉主伝」)。228年、孫権が鄱陽太守の周魴に対し、偽りの降伏を魏に申し出て、10万の兵を率いる曹休を石亭に誘い出させた上で、陸遜に黄鉞を与え、孫権は親しく鞭を執って引見した。 百官は、陸遜に膝を屈した。大都督に任命し、曹休を追討させた。陸遜は自身は中央の軍を率い、朱桓・全琮にそれぞれ3万の兵を与えて左右の部隊を率いさせ、3部隊に分かれて同時に進軍した。曹休は騙されたことに気づいたが、自身が大軍を率いていたことからそのまま呉軍との交戦に及んだ。曹休は伏兵を配置していたものの、陸遜はそれを蹴散らした上で曹休と戦って大いに破り、追撃をかけて夾石まで軍をすすめ、1万余の兵を斬ったり捕縛し、多くの馬や兵糧を奪い、車両など兵器類1万台を手にいれた(石亭の戦い)。曹休は賈逵や朱霊、王凌の援護により脱出することができたが、敗北の恥辱により背中に腫れ物が出来て死去した。陸遜は当時の呉の首都である武昌に凱旋した。孫権は陸遜に皇帝同様の待遇を与え、労をねぎらった。孫権は左右に命じて御蓋で陸遜を覆わせて殿門を入出させ、凡そ陸遜に賜ったのは皆な御物でも上珍の品で、時に比肩する者は莫かった。「呉書」によると、陸遜曹休を破り、孫権は腰に帯を脱ぎ以て陸遜に賜ふ、又親しく以て之を帶す。大宴を開いた、酒に酔った陸遜に命じ、二人で共に舞を踊った。そして自分の白いモモンガの毛皮で作った衣服を脱ぐ、陸遜に贈る。當に西陵に還らんとするに、公卿並會し、陸遜の爲に祀道す、陸遜に御船一舫を賜ひ。229年、孫権が皇帝に即位するのに伴い、上大将軍・右都護の官を授かった。その年の秋、孫権は首都を再び建業に戻し、武昌には太子孫登や皇子達を置き、尚書の役所もそのままにした。太子の後見役のため陸遜を武昌に召し寄せ、荊州と揚州の三郡の統治、それに軍事と国事の監督を委任した。孫慮が闘鴨に熱中していたため、これを直々に注意し、また、射声校尉の孫松が孫権の寵愛をいいことに職務に怠慢であったことから、係の役人に罰を与えるなど、皇子、公子達の教育係も務めた。陸遜は刑罰より礼を重んじるべきだと考えており、当時流行していた魏の劉廙の議論を批判し、その議論にかぶれていた南陽の謝景を批判した。また、孫権にも上奏し、厳罰化の傾向を戒め、一度罪を犯した者にもなるべく機会を与えるよう嘆願した。孫権が東方の島の経略に心を奪われ、夷州や朱崖を占領するため衛温と諸葛直の軍を派遣しようとしたときは、無用であると諫言したが、孫権はこれを聞かずに出兵させた。結局、陸遜の言葉通り、損害に見合った成果は得られなかった。孫権はまた、遼東の公孫淵を服属させようとしたが、公孫淵の裏切りに遭い失敗したため、報復のため遼東に親征しようとした。陸遜は、これにも反対した。孫権はこの進言は受け入れた。234年夏5月(「呉主伝」。「陸遜伝」では236年)、孫権は自らは合肥に出兵するとともに、陸遜と諸葛瑾に襄陽を攻撃させた。陸遜は腹心の韓扁という人物を送り、孫権に戦況を報告させたが、韓扁は沔中で敵と遭遇し捕虜となってしまった。諸葛瑾は機密が敵に洩れてしまったことに動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。諸葛瑾は陸遜には考えがあるのだと察した。諸葛瑾が陸遜の元を訪れると、陸遜は状況を冷静に分析した上で、撤退の作戦を教示した。陸遜と諸葛瑾はその作戦に従い、無事に撤退することができた。陸遜は撤退の途中、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽り、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市、安陸、石陽を急襲させた。特に石陽の人々は油断していたため、動揺した敵の将は多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた。陸遜は軍に乱暴を禁止し、捕虜も優しくねぎらい、自由な帰宅も許した。そのため、魏の官民からは呉に帰属する者も多く出た。魏の江夏太守の逯式は軍勢を率いて、しばしば呉との国境を侵していたが、古くからの有力者である文休(文聘の子)とは不仲であった。陸遜はそのことを聞き、逯式の呉への投降要望に対して迎える準備ができたという偽手紙を送って逯式を動揺させた。その様を見て江夏の将兵は逯式への信頼を失い、しばらくして逯式は免職となった。237年正月、将軍胡綜が提議した、奔喪には厳罰で対応すべき。丞相顧雍は大辟に従うよう上奏した。その後、呉県令の孟宗が母の喪に奔赴し、葬後に自ら武昌に拘置されて聴刑した。陸遜はその素行を陳べて請い、孫権はかくして孟宗の罪を一等減。2月じ、前年から反乱を起こしていた賊の彭旦らを攻撃し、その年のうちにこれを破った(「呉主伝」)。同年、中郎将の周祗という人物は鄱陽郡において徴兵したいと申し入れてきたが、陸遜は鄱陽の住民の民心は不安定であることから賛成しなかった。しかし、周祗が強く主張したため、やむなくそれを許可した。結果、周祗は住民の呉遽の反乱により殺害され、豫章や廬陵の不服従民もこれに呼応し、周囲の諸県の治安も悪化した。陸遜は自ら反乱の平定を志願し、陳表(陳武の子)の力も借りてこの反乱を鎮圧し、呉遽を降伏させた。このときの投降者の中から8千人徴兵した。陸遜は陳表偏将軍の官を授かった、爵位も都郷侯となった。長江沿岸の章阬の守備に当たった。(「陳武伝」)。この間、謝淵や謝宏という人物が経済や財政政策について意見を述べ、孫権から下問を受けると、陸遜は「国家の根本は民衆であるため、数年、万民たちの安寧を計り、財政が豊かになった上で再検討すべき」と論じた。孫権が呂壱を信任し国政を乱すと、太常の潘濬と協力し、これを諌めた。孫権はのちに間違いに気づき、群臣達に陳謝した。241年の夏4月から6月の、孫権が全琮らに命じて起こした戦役(芍陂の役)には参加していないが、戦後となる秋8月には、江夏の邾で城を築いた記録がある(「呉主伝」)。244年春正月に顧雍の後を継いで丞相となった。孫権は詔勅を下し、陸遜の前功を称えるとともに、軍事と行政を両方任せるに足る人物だとして、伊尹や呂尚の働きを期待する。引き続き荊州牧・右都護・武昌での職務の続行を陸遜に委ねた。このとき、既に孫登は死去しており、代わって皇太子となっていた孫権の三男の孫和と、四男の魯王の孫覇がそれぞれ役所を持ち、各地の豪族も二人の宮にそれぞれが子弟を送り込む事態となっていた。全琮よりこのような事態を聞いた陸遜は、豪族達に勝手な行動はさせないよう全琮に依頼したが、のちに全琮もまた次男の全寄を魯王の役所に送り込み、全寄が皇太子の臣下と事をかまえるようになっていることを聞き、全琮を批判する手紙を送った。全琮と陸遜はこうして不仲となった。後継者問題が紛糾し、孫和廃立の声が強くなると、陸遜は嫡子と庶子の区別は明確にすべきだとして孫和を擁護する上奏を行った。『呉録』によると、孫権と孫覇派の楊竺が孫和の廃嫡を密談していたことを、孫和は下働きの者を経由して耳にしたため、陸胤に、一族の陸遜から諫止の上表出してもらうように依頼した。孫権が、密談の内容を漏洩した者を探し出すため陸遜に問い合わせると、陸遜は陸胤の名を出した。陸胤は太子をかばって楊竺から聞いたと伝えたため、陸胤と楊竺はともに収監された。太子太傅の吾粲は陸遜に手紙を送り協力を求め、陸遜はそれに応じて諫言の手紙を何度も送り、さらに首都の建業に出向いて孫権を直接説得しようとした。た。孫権は怒り、陸遜に対しても問責の使者を何度も送った。一方、全琮、全寄は讒言により、陸遜の甥顧譚、顧承、姚信を陥れる、流罪に追い込んだ。これによって陸遜は憤慨の中急死した。(二宮の変)。陸遜に対する疑念は、子の陸抗が陸遜の故郷埋葬のために呉郡に戻り、宮廷に参内したときにすべて晴らし、孫権は深く後悔した。251年に陸抗が病気治療のために都に上り、病が癒えて任地に戻るときには、孫権は陸抗の手をとって涙を流して謝罪し、陸遜に対する謝罪の言葉を述べた上で、自分の送った手紙はすべて焼き捨ててくれるよう嘆願した。孫休の時代に昭侯との諡が追贈された。正直な人物であり、自身を顧みず主君や国家へ忠義を尽くした。丁重で厳粛な性格であった。倹約家で足るを知る人物であり、彼が亡くなった時には家に余財は無かった。(『建康実録』)先見の明があり、周到に熟考することができた。曁艶が営府の論を造った当初は、陸遜が必ず禍いをなすと諫言し、これを戒めていた。また諸葛恪にいうには 「私の前に在る者には、私は必ず同じく昇るよう奉じ、私の下に在る者には、これを援助している。今、観たところ君の気は上を凌ぎ、意は下を蔑ろにしている。安徳の基とはならない」。 又た広陵の楊竺は若くして声名を獲ていたが、陸遜はいつかは失敗するだろうと考え、楊竺の兄の楊穆には一族から別けるよう勧めていた。長子に陸延という人物がいたが若死し、陸遜の跡は次子の陸抗が継いだ。陸抗も呉に仕え、晩年には父と同様に荊州の軍権を任され魏との国境を守備し、に勝利するなど、国難を退けた。一族は呉に重用された,陸凱は、「二人の丞相、五人の侯、十数人の将軍」という説明です。その息子の陸機は六朝文化を代表する詩人として知られ、呉の滅亡後も西晋に仕えて重用されたが、八王の乱に深く関わりすぎてしまったため、その最中に彼の名声を妬む人達の讒言によって謀反の疑いをかけられ、一族全員が処刑され陸遜の子孫は断絶した。弟の陸瑁の家系は存続し、子孫は東晋の重臣にまで昇進した。『三國志』では主君を除いて諸葛亮と陸遜のみが一巻をもって単独で伝を立てられている。撰者の陳寿は、「劉備は、広く天下に英雄として名があり、当時の人々は皆彼を畏れはばかっていた。 陸遜は、ちょうど壮年に達したばかりで、その威名もまだ人々に知られてはいなかったのであるが、 (その彼が劉備の)鉾先を打ちくじいて勝利を収め、全て計略どおりに事が運んだ。私は、陸遜の計りごとの巧みさを高く評価すると同時に、孫権がよく人の才能を見抜いて、 その人物が大きな事業を成し遂げられるよう取り計らってやった事にも感嘆する。陸遜は忠誠を尽し、国を憂いて身を亡ぼすことになったのだが、ほぼ社稷の臣といえるだろう」と評している。一方、その三国志に注を入れた裴松之は、嘉禾五年(236年)に陸遜が自ら命じて行わせた石陽急襲により住民が多く被害を受け、その後に戦傷者を保護した一件を指して「無辜の民衆を酷い目に合わせた」「孫の代で一族が絶えたのは、この悪行の為であろうか」とまで言っている。また、後に江夏の魏将を離間策で放免させた経緯に触れ、「わざわざ自らを卑しめる策略」「小賢しい詐術」と断じ、やる必要の無い事だったと疑問を呈している。東曹令史→西曹令史→海昌県令・屯田都尉→定威校尉→帳下右部督→偏将軍右都督→宜都太守・撫辺将軍・華亭侯→右護軍・鎮西将軍・婁侯→別駕従事・茂才→大都督(夷陵の戦い)・仮節→輔国将軍・荊州牧・江陵侯→大都督(石亭の戦い)・仮黄鉞→上大将軍・右都護→丞相→昭侯(諡号) 「身長八尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm)、面如美玉」と体躯堂々たる美男として描写されている。夷陵の戦いのときには闞沢(闞の字は門がまえに敢)が陸遜を推薦したが、無名に近かった彼の起用に張昭・顧雍らが反対している。夷陵の戦い後は張昭が、劉備が没した際に蜀を攻めるべきか悩む孫権に対して陸遜の意見を聞くよう進言している。また夷陵の戦いにおいては、蜀軍の撃破後、追撃したが諸葛亮の石兵八陣の罠に命を落としそうになり、追撃を諦めることになっている。
出典:wikipedia
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