『三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。成立時期は西晋による中国統一後の280年以降とされる。現在通行している版本はおおむね4種ある。また、20世紀に発見された写本としては以下のものがある。紀伝体の歴史書であり、「魏書」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)、「呉書」20巻、「蜀書」15巻の計65巻から成る。この他、陳寿の自序(序文)が付されていたといわれるが、現存しない。また、表(年表)や志(天文・礼楽などの記録)が存在しない。三国がそれぞれ『魏国志』『蜀国志』『呉国志』として、独立した書物としても扱われていたという。『呉国志』『魏国志』『蜀国志』の書かれた前後関係は不明である。三国の記述を独立させ、合わせて『三国志』としたところに本書の特徴がある。魏のみに本紀が設けられているので三国のうち魏を正統としているものと判断されている。他の魏を正統とした類書では、『魏書』など魏単独の表題とし、蜀(蜀漢)や呉は独立した扱いを受けていない。また、西晋・東晋十六国時代を扱った正史『晋書』も、北の諸国家(十六国)はほとんど「載記」(地方の覇者の伝記)として扱われ、やはり独立した扱いを受けていない。南北朝時代の北魏を正統とした『魏書』(魏国志とは別)では、南朝の宋などの皇帝の伝記が、やはり「島夷」として列伝に入れられ、独立した扱いを受けていない。こうしたことからみても、魏・呉・蜀をそれぞれ独立した扱いをしている本書は魏を純粋な正統と意図した歴史書であるとはいいきれない。その一方で、漢の正統としての蜀にも大いに配慮をして書かれていることは多くの日本・中国の研究者が従来から指摘している。「蜀書」の末尾には本伝の補足として楊戯の「季漢輔臣賛」を全文収載している。これについて銭大昕「三国志弁疑序」では「楊戯伝に『季漢輔臣賛』を載せて数百言も費やしたのは、魏・呉よりも蜀を尊んだものである。季漢(漢の末期)と言う言葉を残したのは、蜀王朝が実際は漢王朝であることを明らかにしたものだ。」として蜀(蜀漢)の遺臣である陳寿の故国顕彰の表れであるとしている。『三国志』には、魏に朝貢した北方や東方、西方の民族の記事は存在するものの、蜀(蜀漢)や呉に朝貢していた可能性が高い民族の国々については伝が立てられていないという指摘がある。こうしたことは、『三国志』が当時のことを正確にもれなく記した史書であるかどうかの疑問を提示するものでもある。編纂当初から魏を正統として編纂したとみる日本の研究者の中には、蜀(蜀漢)と呉はあくまでも地方政権としての扱いなので書けなかったのだと解釈する意見もあるが、編纂意図として魏を正統としていたかは前述のように定かでない。日本に関する記事としては、「魏書」烏丸鮮卑東夷伝に邪馬台国についての記述が見られる。日本ではこの部分(魏書東夷伝倭人条)を「魏志倭人伝」と通称している。陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた。そこで、南北朝時代の宋の文帝は裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉6年(西暦429年)上表と共に提出した。裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明するものが少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』完成後の出来事も補われている。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、話としては面白いが信憑性に欠ける逸話も数多く収録されており、説話の題材にも取り入れられていった。『三国志』については、司馬遷著『史記』、班固著『漢書』、范曄著『後漢書』と並び、二十四史の中でも優れた歴史書であるとの評価が高い。同時代に、王沈、韋昭らにより、『魏書』、『呉書』等の史書が書かれているが、いずれも散逸して、陳寿の『三国志』のみが残ったと言う事実が、『三国志』に対する評価を表しているともいえる。また、夏侯湛が陳寿の『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。しかし後世において、王朝の正統論問題や、撰者陳寿の人物に対する批評内容、三国志演義が流布して定着した人物や事件のイメージとの相違、等の要因により、同書は様々な批判に晒されることとなった。特に個人的な私怨によって伝を立てなかったり悪口を書いたりの「曲筆」の疑惑については早くから指摘されている。陳寿が丁儀・丁廙の子に穀物を求め、断られたため丁儀・丁廙の伝を立てなかった、陳寿の父が諸葛亮によって処罰されたのを根に持ち諸葛亮の悪口を書いた、などの逸話は、正史である『晋書』にも記載されている。これらの疑惑に対しては『郡斎読書志』も「未必然也(必ずしも事実とは言い切れない)」と記述するなど、懐疑的な見方も多く、王鳴盛の『十七史商榷』では「丁儀・丁廙の2人はしょせん(曹植に取り入っただけの)巧佞の臣であって、どうして伝を立てることなどできようか」「陳寿は晋に入って『諸葛亮集』を編纂し上表しており、諸葛亮伝にその目録と上表文を掲載している。史家の前例にないことであり、諸葛亮を非常に尊敬しているということだ」「諸葛亮は6度も祁山に出征しながら、ついに一勝も収めなかった。慎重を期した軍事であって進取には鈍いことがわかる。(応変の将略に欠けるとした陳寿の評は)普通に事実を述べただけだ」と批判している。ただし、曲筆の疑惑は21世紀でも消えた訳ではない。例えば魏の杜畿は非常に高く評価されているが、杜畿の孫の杜預を擁護するために過大評価をしたというものである。また、陳寿が最終的に仕えた西晋に対しては、もっとも曲筆が目立つと指摘されている。また、劉知幾『史通』曲筆篇は、「蜀志後主伝に『蜀には史官がいないから災祥も記録されなかった』とあるのに、蜀志には災祥が散見される。史官が設けられなかったのであれば、災祥は何によって記録されたのか? 陳寿が蜀の史官の存在を否定したことは私怨によるものである」と批判した。史官は国家に必須のものと考えられていた(『史通』史官建置篇)。劉知幾による陳寿批判の趣旨は、蜀には国家に必須のものが欠けていると私怨に基づいて述べたもの、ということである。更に後世になると、蜀(蜀漢)を正統とする朱子学の影響から、魏を正統とした陳寿への非難も現れた。黄震『黄氏日抄』に至っては「どこの鬼魅だ、コソコソと史筆をもてあそび、賊を帝と呼び、帝を賊と呼んでいるのは」などと述べ、陳寿を鬼魅(化け物)と罵倒している。一方で朱彝尊『曝書亭集』のように「当時何人かの史家がいたが、ただ魏があるのを知るのみだった。陳寿のみ魏と呉・蜀(蜀漢)を並列し「三国」という名称に正したのは、魏が正統と言えないことを明らかにしたものだ」との意見もある。さらに、蜀漢正統論に基づいて再構成された歴史書もぞろぞろと執筆された。南宋の蕭常、元の郝経、清の銭兆鵬の『続後漢書』、明の謝陛、清の湯世烈の『季漢書』などはいずれも蜀を本紀として、魏呉を世家や載記としている。紀伝体以外の書としては、元の趙居信の『蜀漢本末』、清の趙作羹の『季漢紀』などがある。北宋の司馬光『資治通鑑』は、魏の年号を用いて編年しているが、正統論自体には極めて慎重であり「漢から魏、魏から晋…(以下北宋まで)の流れで引き継がれているので、これらの年号を採用して諸国の事績を記さざるを得ないだけであって、特定の国を尊んだり特定の国を卑しんだり正閏論について意見するつもりはない。」(巻六十九黄初二年条)と明言している。断代史(王朝ごとの歴史書)形式にもかかわらず、袁紹、呂布、劉焉など後漢時代に没した人物の伝を立てていることについては、清の時代の趙翼が種々の歴史書について述べた『二十二史箚記』において「(袁紹等の)諸軍閥はみな曹操と並立して割拠しており、かつ曹操とお互い関わった事件が多い。だから魏書に伝を立て、(魏王朝についての)事績の叙述にあたりその建国の起源を明らかにしなければならないのだ。また、劉焉は劉璋の父で、彼が割拠した地は劉備が拠点とした。劉備の紀伝を作るには、まず劉璋について記述後、劉璋について記述するにはまず劉焉について記述しなければならないのだ。」とされ、董卓・荀彧らが『後漢書』に重複して伝が立てられている点については、「董卓らは皆漢末の臣であり、荀彧は曹操のために計略を立てはしたが、心はなお漢朝のためにあった。三国志に既に伝があるからといって、後漢書の立伝を省くことはできないのだ。」とされている。ただし、後漢書は、陳寿の死後1世紀以上経って編纂されたものであるから、陳寿には、その記載に対して何の責任もないのである。また、杭世駿『諸史然疑』は、「魏史列伝の巻頭が董卓であるのは、(漢魏革命の原因である天下大乱の)元凶を明らかにしているのであり、漢書列伝の巻頭が項籍であるのと同じ意図である。」と主張している。一方で『四庫全書総目提要』は、魏の建国者の前代である曹操から記述を始めていることについて「史記の周・秦本紀の誤りを踏襲したもの」で、「『魏書前史』ともいえない(中途半端な)体裁となっている」と批判している。以下は、裴松之が注釈で引用する文献である。引用文献の数については、趙翼は「およそ50余種」、銭大昕は「およそ140余種」、趙紹祖は「およそ180余種」、沈家本は「およそ210家」で、張子侠は227種とする。後に講談などから発展して成立した通俗小説が『三国志演義』である。この『三国志演義』が日本では「三国志」という名称で流布し、また作家吉川英治が演義を元にして著した小説『三国志』があまりにも有名になったため、日本の三国志愛好家の間では、と呼び分けることが通例である。中国においては、と、新中国成立後に呼び名を統一されており、日本におけるような呼び名の混乱のケースはほぼ無い。
出典:wikipedia
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