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岡田光玉

岡田 光玉(おかだ こうたま、本名:岡田 良一 おかだ よしかず)は、宗教家、世界真光文明教団の初代教え主。東京府青山生まれ。少年期は、6人姉弟の唯一の男子として育てられた。満15歳の時、父・岡田稲三郎陸軍主計監が死去。その遺言を守り陸軍士官学校(34期)に進学。近衛兵・供奉将校を経て、日中戦争では大本営第一鉄道輸送司令部課長として輸送業務に従事した。1945年、赴任先の仏領インドシナで脊椎カリエスを患い、「退院して3年の命」と中村博士より宣告され除隊。帰国し義父から受け継いだ財産で軍需工場を興すも、名古屋大空襲で全財産を失う。戦後世界救世教に入信し、布教師として活動。埼玉県の和光布教所長を務めたが、その後世界救世教を離れ、真の道教団にも出入りした。1959年、神示により現在の真光教団の前身にあたる「L・H陽光子友乃会」を立教。同年、妻と離婚。親類縁者と絶縁状態になる。1960年の安保闘争では、岸内閣の意を受けた児玉誉士夫の要請に応じ、生長の家などと共に信者を「警官補助警備力」として動員した。1962年1月1日、現界は『火の洗礼』に突入したと発表し、そのピーク(大峠)は20世紀と21世紀の交流する頃に来る、と警鐘を鳴らした。翌年、教団名を世界真光文明教団に変更。『火の洗礼』の前後にメシア(救世主)が現れると教義にあるが、御神示に元付き『魁のメシア』という位置付けを教団内ではしていた。世界真光文明教団の関口榮(故人)の著作「手かざしの大奇跡」(トクマブックス)によると岡田は他の神道系教団(真の道)から「み霊伺い」として神事(天丈)による調査を受け、その際に「崇盟五道」「ヨスカ従道」という神の示しを与えられた。同書には掛け軸にされたこれらの神示の写真が掲載されており、御神示の現物は岐阜県高山市の光記念館に収蔵されている.参院選全国区で矢田ワ一(1971年)、内田芳郎(1974年)を推薦、組織を挙げて応援したものの、何れも落選した。1974年、谷口雅春・山岡荘八らと「日本を守る会」(後の日本会議)の創設に参画(真光誌400号)。初期研修会では薬害を批判し、薬害問題追及で活躍していた高橋晄正を講演会に呼んだり、環境問題にも関心を示した。1974年6月23日に急逝する。満73歳であった。最後の教示は神幽る10日前の重大神示≪ヨのみ霊の継承と飛騨高山に主神神殿を建立せよとの勅命≫で、「建立して天変地異を鎮められるが、時期をのばせたり止めたりはできない」「建立の必要性が、10年早まった」という内容である。同年7月13日には日本武道館において世界各国や国内より信者(組み手)の代表が集まり、「聖凰真光大導主様みたまおくりの祭り」が1万数千人規模で行われ無数の金粉が会場に降り注いだ。この時、崇教局長であった関口榮が二代教え主に就任したと発表が行われた。先祖は尾張織田家であり、織田家から別れた一部が名を変え「岡田」性を名乗っている。岡田良一は岡田家14代目だった。そして、母方の先祖は徳川家出身であるため、良一は織田家・徳川家の血を受け継いでいることになる。また、実子の跡継ぎがいない為、養女として「井上甲子(岡田恵珠)」をもらい、恵珠本人も跡継ぎがいないので、書家手島右卿を父とする「手島泰六(岡田光央)」を養子として向かえ、現在の岡田家を存続させている。

出典:wikipedia

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