FC刈谷(エフシーかりや)は、愛知県刈谷市を本拠地とする東海社会人サッカーリーグ参加のサッカークラブである。2006年に発足。本拠地は刈谷市総合運動公園多目的グラウンド(愛称:ウェーブスタジアム刈谷)。練習場所としてジェイテクトグラウンドや刈谷市総合運動公園内にある運動広場やグリーングラウンド刈谷を使用している。運営母体は特定非営利活動法人かえるスポーツクラブであり、市民クラブとして活動している。選手全員がアマチュアで2014年現在プロ契約選手は0人である。ただし、Jリーグから期限付きで移籍した選手はプロ契約を結んでいる。刈谷市を中心とした地域に根ざしたチーム作りを目指しており、2006年シーズン所属選手25人中13人が愛知県出身、うち5人が刈谷市出身であった。2007年当初の所属選手27人中11人が愛知県出身、うち4人が刈谷市出身である。2007年6月まで指揮していた安原成泰も刈谷市出身である。日本フットボールリーグ (JFL) 所属時にJFL以上のカテゴリーの日本のサッカークラブでユニフォームにスポンサーが入っていない(クラブロゴ・背番号のみ)のはFC刈谷のみであった。1949年に前身となる実業団、日本電装サッカー部として設立された。東海社会人リーグを中心に上位に君臨したが、1995年度の地域リーグ全国決勝大会(1996年1月開催)で優勝し、ジャパンフットボールリーグ(1999年から新JFLにそのまま移行)への参入を果たす。これとともに、日本電装のデンソーへの社名変更に伴いデンソーサッカー部に変更された。2001年にはJFL得点王を獲得した徳重隆明の活躍もあり、5位に入ったが、2002年徳重の移籍があり、高山英樹が得点王を獲得する活躍を見せたが、10位に終わった。なお新JFLで2年続けて得点王を出したのはデンソーだけである。その後実業団チームとしては2005年で休部。2006年度よりクラブチームに移行。地元・刈谷市の市民が中心となって設立した「特定非営利活動法人かえるスポーツクラブ」がチームを運営する。チーム名は一般公募した結果「FC刈谷」とすることが決まった。2007年の目標を「TOP3」と掲げた安原成泰監督だったが、シーズン前期は下位に沈む。前期終了後に「退任を起爆剤として選手達にはプライドを持ってやりきってもらいたい」を理由に安原監督と服部順一GM(刈谷市出身)、コーチ2人が退任。後任監督にFC刈谷の選手であった浮氣哲郎。浮氣は監督を就任したときに選手としては引退した。しかしその後も成績は振るわず、16位で2007年シーズンを終えた。2008年、浮氣哲郎が引き続き監督を続投。目標は「勝点52」を掲げる。GK石川扶、DF松田勉、DF石川高大、DF田上裕と守備陣がほとんど入れ替わったことや浮氣監督の指導がチームに浸透したこともあり、前年度と比べ失点数が59から40に減り、負け数も22から9まで減らした。結果、目標勝点52に一歩及ばない51まで伸ばした。順位も2007年の16位から8位まで躍進した。シーズン終了後主力7人がチームから離れた。2009年からはかつてFC東京でFWとして活躍したアマラオをコーチとして迎え、またFC東京から池上礼一を完全移籍で、FC岐阜より3選手を期限付き移籍で獲得し上位を目指したが、昨年チーム得点王だった平林輝良寛や原賀啓輔の二桁得点者の抜けた穴が大きく開幕当初から決定力不足(最終的にチームの得点26はリーグワーストタイ)に陥り、4月5日の町田ゼルビア戦の勝利以降勝ちがなくなった。その間に5月31日のガイナーレ鳥取戦から8月2日のソニー仙台戦まで10連敗(6試合連続無得点)を喫した。そのため急遽アマラオが選手として復帰することとなった。またシーズン途中で前年まで主力だった篠川雅仁を呼び戻したり、FC岐阜から車東訓を期限付きで、神奈川大学から大石治寿、さらに東海学園大学から在学中の3選手を獲得した(なお、うち2人は11月をもってFC刈谷を退団。九州リーグのMSU FCへ移籍した。)。しかし、その後も伸び悩み9月12日の鳥取戦に4-2で勝利するまで、21試合連続未勝利となった。鳥取戦以降は5勝3分1敗と持ち直したものの、順位は17位で終え、入れ替え戦に臨むこととなった。入れ替え戦ではツエーゲン金沢を相手にシーズン中に露呈した決定力不足が出てしまい、相手よりも多くのシュートを打つが決められず(2戦合わせてのシュート数は、刈谷が29本、金沢が15本。)、カウンターから失点し、2試合で合計1-2(0-1、1-1)となり、デンソー時代を含めて15年ぶりに東海リーグへの降格となった。シーズン終了後に浮氣哲郎の監督退任とコーチ兼任だったアマラオの2010年からの監督就任が発表された。また5選手が2009年をもって退団あるいは引退、池上礼一もシーズン途中に負った怪我の具合が思わしくなく退団、FC岐阜から期限付き移籍中の4選手も契約満了で退団となった(FC岐阜からも戦力外で退団となった。その後姜曉一とは2010年2月にFC刈谷へ完全移籍で再加入した)。2010年は9選手が新たにFC刈谷の一員として加わり、また加藤知弘と西原拓己がコーチ兼任としてアマラオ監督を支えることとなり、一年でのJFL復帰をめざすことになった。しかし、敗戦は1敗のみであったが引き分けが多く優勝したshizuoka.藤枝MYFCに一歩及ばず2位でリーグ戦を終えて、一年でのJFL復帰はならなかった。さらに財政難でクラブの存続が危機的であることが明らかになった が、2011年もチームが存続することが決まった ことから運営費を削減、プロ契約の監督だったアマラオがリーグ戦終了後に退団となり、コーチ兼任だった加藤知弘が現役引退して、2011年より監督就任が発表された。また10選手がFC刈谷を退団した。2014年より、前年度までデッツォーラ島根で監督をしていた石田学が監督就任した。2015年に東海リーグに降格して6年目で、FC刈谷になってから初優勝した。しかし地域リーグ決勝大会は4位に終わり、6年ぶりのJFL復帰はならなかった。2016年斜めに走る赤いラインは"赤ダスキ"と呼ばれ、高校サッカーの古豪である愛知県立刈谷高等学校のユニフォームをモチーフにしたもの。赤ダスキは刈谷のサッカーにおけるシンボルデザインとなっている。
出典:wikipedia
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