シラクサ()は、イタリア共和国のシチリア島南東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。シラクサ県の県都である。標準イタリア語の発音に近い表記は「シラクーザ」。古代ギリシャの植民都市シュラクサイに起源を持つ都市で、歴史的な遺跡など、多くの観光スポットがある。2005年には市内および周辺の歴史的建造物や遺跡が「シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡」の名で世界遺産に登録もされている。 は と発音される。日本語文献では慣用的に「シラクサ」と表記されるが、発音に近いカナ転記の「シラクーザ」も用いられる。このほか、「シラクザ」、「シラクーサ」などとも表記される。標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。シチリア島の南東部、シラクーザ県の東部に位置するコムーネで、東にイオニア海に面する。シラクサの市街は、カターニアから南南東へ約51km、ラグーザから東北東へ約53km、メッシーナから南南西約127km、州都パレルモから南東へ約206kmの距離にある。沖合の小島もシラクサ市の一部である。シラクサの近くには、カターニア、ノート、モーディカ、ラグーザといった都市がある。隣接するコムーネは以下の通り。紀元前734年頃、ギリシアのコリントスの植民者たちがこの場所を発見し、低湿地帯を意味するシラコ (Sirako) と名づけたのが起源である。土地が肥沃であり、また原住民たちは彼らに好意的であった。都市は発展し、地中海においてギリシア植民市のうちで最も繁栄する都市国家となった。古典ギリシア語での名称はシュラクサイという。紀元前5世紀後半、ペロポネソス戦争でシチリアでも勢力を拡大しようとするアテナイに対してスパルタと結んで戦った。シュラクサイはアテナイの敵であるスパルタに援軍を送り、アテナイの船を破壊したり、島を包囲して餓死させるなどして、スパルタの勝利に貢献した。紀元前4世紀初頭、僭主ディオニュシオス1世はカルタゴに対して戦争を仕掛け、シチリア島全域を支配することに成功した。彼の死後支配権を継承した子のディオニュシオス2世は親戚(1世の義弟)のディオンによって廃位された。プラトンの弟子でもあり、哲人政治の理想を追い求めていたディオンは暗殺され、数名の僭主の後にディオニュシオス2世が復位した。その後、コリントスよりティモレオンが派遣されてきて、彼はディオニュシオス2世をはじめシチリアから僭主を一掃し、さらにヒケタスと結んで攻め込んできたカルタゴ軍をで破り、撃退した。しかし、紀元前317年にアガトクレスが僭主となり、僭主制が復活した。紀元前264年から始まった、シチリア島の帰属を争う第一次ポエニ戦争では共和政ローマ側に付いてカルタゴと戦ったことにより、ローマの同盟市としてローマの属州に組み込まれることはなかった。シラクサ出身で最も有名な一人が、自然哲学者のアルキメデスである。彼の発明品の中には、第二次ポエニ戦争におけるローマによるシラクサ包囲戦に対抗するための軍事兵器もあった。アルキメデス考案の兵器はローマ軍を大いに苦しめ、シラクサは3年間持ちこたえたが、紀元前212年に陥落した。落城の際、攻城戦を指揮したローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスはアルキメデスを殺さぬよう厳命していたが、アルキメデスは彼と気付かれずにローマ兵によって殺された。ローマに敗れた都市国家シラクサは、ローマに併合されシキリア属州に組み込まれる。年月をかけゆっくりと衰退しながらも、シラクサはシチリアにおけるローマ政権の首都の地位にあり、プラエトルの配置がされていた。また、市は帝国の東西の間にある通商の重要港のままだった。市のキリスト教化は、タルススのパウルスと、シラクサ初代司教であった聖マルツィアーノによって広がった。マルツィアーノは、シラクサを西方における改宗の一代中心地としたのである。この迫害の時代に、どっしりとしたカタコンベが掘られた。ヴァンダル族支配の後、シラクサとシチリア本島は東ローマ帝国のベリサリウスによってローマ人の元に取り戻された(535年12月31日)。663年から668年、シラクサはコンスタンス2世の宮廷が置かれ、全シチリア教会の首都大司教座がおかれた。878年に起きたアグラブ朝による包囲戦で陥落した際にはシラクサ市街への情け容赦ない略奪が行われ、2世紀にも渡るイスラム支配が始まった。シラクサは島の首都の地位をパレルモに奪われた。大聖堂はモスクに変えられ、オルティジア島の建物は次第にイスラム様式に沿って再建された。どのようであれ、市は、重要な通商関係を保ち、文化と芸術が同時期に華開いた。12世紀のシチリア人詩人で最重要の人物であるは、シラクサに暮らしていた。1028年、東ローマの将軍がシラクサを再征服し、聖ルチアの聖遺物をコンスタンティノープルへ送った。オルティジア島の最南端にある城は、1239年にホーエンシュタウフェン家のフェデリーコ2世の命で建設されたが、マニアケスの名前が冠されている。1085年、シチリア伯ルッジェーロ1世とシラクサ伯が夏季の長い包囲戦の末に勝利し、ノルマン人がサラセン人最後の要塞の一つシラクサへ入った。市内には新たな地区が建設され、他の教会と同様に大聖堂が復興した。1194年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシラクサを占領した。1205年から1220年までの短期のジェノヴァ支配の後、シラクサは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が奪回した。彼は、司教宮殿、ベッロモ宮殿の建設を始めた。フリードリヒの死で社会的不安と封建制の無秩序の時代が始まった。アンジュー家とアラゴン王家の争いで、シラクサはアラゴン側に立ち、1298年にアンジュー家を敗退させた。この褒美として、宗主国アラゴンから多大な特権を授けられた。地元の有力貴族の優越ぶりが、アベラ、キアラモンテ、ナヴァ、モンタルトへの城の建設で見せつけられた。シラクサは、1542年と1693年の二度、破滅的な地震に見舞われ、17世紀の破壊は、ヴァル・ディ・ノート全体と同様に、シラクサの外観を永久に変えた。地震被害にあった都市は、典型的なシチリア・バロック様式に沿って再建され、この様式は南イタリア芸術の典型的な例とされている。1729年にはペストが大流行した。1837年のコレラ大流行は、ブルボン家支配に対する反乱を引き起こした。処罰としてシラクサからノートへ県都が移されたが、社会不安が全体的に阻止されることなく、シラクサ人はに立ち上がった。1865年のイタリア統一運動後、シラクサは県都の地位を取り戻した。1870年、荒れるがままであった市壁と、オルティジア島と本土とをつないでいた橋が再建された。同じ年、鉄道網が建設された。1943年、連合国側とナチス・ドイツの空爆で激しく市は破壊された。連合国側のシチリア侵攻の際のハスキー作戦は、島西部を攻撃するイギリス軍とともに1943年7月9日から10日の夜にかけ始められた。バーナード・モントゴメリー将軍率いるイギリス第8軍団は、ほとんど抵抗なしに侵入最初の日にシラクサを占領した。港はイギリス海軍の基地として使われた。市の西部には、およそ1,000人が埋葬された戦没者墓地がある。第二次世界大戦後、シラクサの北部地区は急速な工業化により市域を拡大した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。